妙に古めかしい、色褪せたCDが埃をかぶった状態で出てきた。

重い腰を上げて掃除を再開しようと最初の段ボールを開けたらこれだ。つくづく掃除とは進まないようにできているらしい。

 

紺に近い濃い青をたたえたそのCDジャケットはどこか色褪せていて、折り目がついた場所は印刷が剥がれ、白くなっていた。

プラスチックのケースは経年劣化で曇りガラスのようになっており、一見して古いものとわかる状態、そんな代物だった。

 

そのCDはMr.Childrenの「Atomic Heart」だった。

Atomic Heart

1994年に発売されたMr.Children、4枚目のオリジナルアルバムで、累計340万枚以上という驚異的なヒットを飛ばした作品だ。

確か、いまだにグループ史上最も売れたアルバムだったはずだ。とにかく売れたアルバム、そういう認識で間違いないはずだ。

 

20年以上前に発売されたこのCDがダンボールから出てきたとき、少なからず動揺した。

まるで見つけてはいけないものを見つけたような感覚に襲われたのだ。言うなればパンドラの箱に対峙した感情に近いだろうか。

 

いや、もっと濃厚ななにか、例えば公園の草むらでエロ本を見つけてしまった感覚に近いかもしれない。なにか胸騒ぎがするのだ。

ただ、それが何かは分からない。良いものなのか悪いものなのかも判別不能な得体の知れない感情が湧き水のように溢れてくる感覚だけが心のどこかにあった。その感情にきっと名前はないのだと思う。

 

いつの間にか夕方の西日が差し込んでいた。ゴミ袋が並び、取り外した引き出しは乱雑に床に転がっている。すべてをオレンジ色に染めるその光はどこか寂しさを感じさせるものだった。

 

早く掃除の続きをしなければならないのに、どうしてもそれができなかった。なんだか、こうして出てきたこのCDを聴かなければならない、そんな気がしたのだ。この物体はそう訴えかけているのだ。

 

どうしてここまで心をかき乱されるのだろうか。分からない。けれども義務であるのだろう。こうして今この時にこのCDを発掘したということは、何かあるのだ。

聴かないという選択肢はないのだろうな、そう思い、これまた押入れの奥底からCDプレイヤーを発掘してきてセッティングした。

 

作業が終わるころには、また西日のオレンジ色が強くなっていた。きっともうすぐ日が暮れるのだろう。CD自身もプレイヤーも、まるで遥か未来から送られてきた時空を超えた年代物のようにくたびれている。オレンジ色の光が一層その輪郭を際立たせた。

CDもラジカセも古いものだ。本当に再生できるのだろうかと半信半疑になりながら再生ボタンを押す。また少しだけ夕日が強くなったような気がした。

 

01. Printing

アルバムの1曲目はインストだった。つまり、歌の入ってない曲だ。しかも23秒と異常に短い。

電子的な機械音から始まり、プリンタか何かが印刷をしているような音が続く。すると、一気に紙が排出されるような音が鳴り、盛り上がったかと思うとそのまま曲が終わった。

ずいぶんと挑戦的な曲だ。

 

こうして今になって聞くとよくわかる。これは決意表明なのだ。Mr.Chilrdrenの決意表明なのだ。これを一曲目にもってきたのには訳があるのだろう。

このCDが発売されるまでのMr.Childrenの楽曲にはこのようなインストはなかったと聞く。つまり、このアルバムは違うぜ、という宣言に近いのだ。そして不穏な何かの始まりを感じさせてくれる。

 

そう考えると、曲の終わり近くに一気に排出されるあたりの表現は非常に示唆に富んでいる。

これからすごいことが始まりそうな予感がするのだ。なるほど、これは一曲目だわ、と思うしかない。

 

ただ、この曲に関する問題はもっと別の部分にある。当時、つまりこのアルバムが発売された1994年ごろに聴いた時に、なぜそれに気が付かなかったのか、ということだ。

1曲目からインストでおまけに23秒という短い曲だ。何かあるはずだと自分なりに考察するはずだが、それが記憶にない。なにか感じて考えたはずなら記憶にあると思うが、それすらないのだ。

 

どうしてなんだろう?

まるで濃霧がかったとすら思える記憶の一部分に触れる。きっと、僕はこの記憶を思い出さなければならないのだ。この記憶をアンロックせねばならないのだ。絶対に思い出さなければならないのだ。頭の中の遠い記憶を総動員する。

 

思い出した。

そう、当時、このアルバムをCDで聴かなかったのだ。レンタルし、ダビングされたカセットで聴いていたのだ。

こうしてCDプレイヤーで聴いていれば曲数が表示されるのでこれが1曲目だと理解できるが、カセットで聴いた場合、それを意識することは難しい。

曲数表示がないからだ。ダビングしたものだから、収録曲リストもない。だから分からなかったのだ。

 

この1曲目が終わると、繋がっているかと思うほどに間髪入れずに2曲目が始まる。本当に切れ目がなく始まる。だから、ずっとこれは2曲目「Dance Dance Dance」の前奏だと思っていたのだ。ずっとその「Dance Dance Dance」の方を一曲目だと思っていたのだ。どうりで意識の欠片にもないはずだ。

 

では、なぜこのアルバムをカセットテープで聴いていたのか、そのあたりを思い出さなければならないのだろう。

当時、僕はCDプレイヤーを持っていた。でもなぜかこれをカセットで聴いている。その状況はいったいなんだろうか。

 

そうだ。そうだ。このCDを買ったのはずっと後になってからのことだったはずだ。

初めて聴いた時、このアルバムをCDでは所有していなかったのだ。だからカセットで聴いていたのだろう。

 

カセットで聴くという、やや特殊な状況になっていた理由はなんだろうか。疑問が解決すると新たな疑問が生まれてくる。ちょっと理解できない状況だ。でも、そこが重要なポイントである気がするのだ。必死に記憶の糸を手繰り寄せた。

 

02. Dance Dance Dance

「地球儀を回して世界中を旅してる気分ってどんな気分なのかな?」

助手席で彼女がそう言った。

 

もちろんこれは歌詞を受けてのものだ。彼女が持ってきたカセットテープがそう言っていた。

この「Dance Dance Dance」はキャッチ―な前奏からそのような印象深い歌詞へと続いていく名曲だ。

 

「さあ、世界中を旅している気分じゃない?」

車に備えられた少し音質の悪いスピーカーからのサウンドを聞きながら、身も蓋もなくそう答えたのは18歳の僕だった。

我ながら本当に身も蓋もなさすぎる。とんでもないやつだ。だんだん思い出してきた。

 

18歳の僕は、車の免許を取った勢いで色々な女の子をドライブに誘っていた。

母親の軽自動車を強奪して色々な場所へドライブデートへと行っていたのだ。正直に言うと、カーセックスとかそういうものがやりたかったのだと思う。とんでもないやつだ。

 

けれども、それらは全て上手くいかず、そもそもドライブを断られたり、ドライブ先でヤンキー集団に絡まれたり、車を縁石にぶつけたりと、酷いありさまだった。何一つ成功しなかった。

そんな中で誘った彼女は特に意識していたわけではなかったが、友達と遊ぶような感覚で誘ってみたら、友達と遊ぶような感覚で承諾されただけだった。

 

彼女の家から少し離れた公園の入り口で待ち合わせた。

彼女はいつもと違うヒラヒラとした服を着てニコニコと立っていた。少しだけ傾きかけた太陽の光が彼女のシルエットを際立たせていた。

 

「わ、すごい。本当に運転できるんだね」

彼女はそう言って助手席に乗り込んだ。少し照れ臭そうに笑いながらシートベルトを装着する彼女が、なんだかすごくかわいく見えた。

「いくぜ」

そう言って車を走らせる。

 

細い路地が続いた。免許取りたての僕にとって少し手に汗握る路地だ。

運転に集中しようと自然と押し黙ってしまう僕を気遣ってか、彼女がニコニコ笑いながら話しかけてきた。

 

「これ、聴こうよ。ダビングしてきたの」

彼女はプラスチックケースに入ったカセットテープを持っていた。ラベルには「Mr.Children Atomic Heart」と手書きの文字で書かれている。

「こどもさん? 変わった名前だね」

良く知らなかった僕は少し冗談めかしてそう言った。それを受けて彼女はいたずらに笑った。

「いますっごく流行ってるの。アヤカが聴いた方がいいって貸してくれて。今日聴こうと思ってダビングしてきたの」

(Daniel Go)

今でこそ当たり前だが、当時の車はCDもHDDも備えていないカーステレオが標準だった。

人々はこうやってダビングしたカセットで音楽を聴いていたのだ。

 

カーステレオには母親が忍び込ませていたアリスのカセットがぶっ刺さっていた。こんなもん邪魔だ。

アリスを思いっきり引き抜いて彼女のカセットテープをセットした。

 

少しサイバーなプリント音の前奏が始まり、キャッチ―な曲が車内を満たした。一曲目だ。ちょうどその頃に細い路地を抜けて幹線道路へと躍り出た。西に向かって走ると妙に夕日が眩しかった。

 

「地球儀を回して世界中を旅してる気分ってどんな気分なのかな?」

カセットから溢れた歌詞をなぞるように彼女が言った。

「さあ、世界中を旅している気分じゃない?」

僕がそう言うと彼女はまたいたずらに笑った。

「なにそれ」

 

なんだか妙な気分がした。特に意識していなかったのに、なんだかこのまま世界中を旅できるんじゃないか。彼女と一緒に世界中を旅している気分になれるんじゃないか。そう思ったのだ。

 

いや、それは言い過ぎた。嘘ついた。思っていなかった。

ただ、奇妙な感情がずっと心の奥底に、それこそ原子レベルの緻密な欠片になって芽生え始めていた。それが何なのかこの時はまだ分からない。

こうして僕と彼女のドライブは始まったのだ。

 

03. ラヴ コネクション

どこかのレストランだろうか、そう思わせる喧騒のサウンドから、やけに軽薄な前奏が聞こえてきた。

その頃には二人を乗せた軽自動車は郊外へとさしかかっていた。

そこには田舎にありがちな風景が広がっていて、これまたありがちのように、学校指定のヘルメットをかぶった中学生が自転車に乗っていた。学校帰りだろうか。

 

「わたしたちも数年前まではああやって自転車乗ってたんだよね」

彼女は少し感慨深げにその光景を眺めていた。

「自転車だとここまでくるの大変だよなあ」

僕がそう言うと、彼女は小さく頷いた。

「それが車だとすぐだもんね」

 

それは僕たちが大人になったことを意味していた。その気になればどんな遠くだっていけるのだ。

自転車に乗っていた頃とは違う。あの中学生は意図的に置きざりにしてきたあの日の僕たちなのだ。

 

無言の時間が続いた。

景色はどんどん田舎のそれになっていって、緑色の木々と茶色い畑しか見えなくなっていた。夕日がその畑を照らし、その色彩をより濃厚なものに見せていた。

「あのさ」

彼女が切り出した。

「なに?」

ハンドルを握り、まっすぐ前を見ながら答える。表情を見なくても分かった。彼女は何か言い難そうにしている。

「どうしてわたしを誘ったの?」

彼女は絞り出すようにそう言った。

 

少し答えにつまってしまった。

カセットテープからは軽妙なロック調のリズムと「一体どうして欲しいんだ」という歌詞が流れてきていた。

なんだか妙にその歌詞が心にマッチした。ただ、僕はその問いには答えを持ち合わせてはいなかったが、そう困った感じはしなかった。

 

僕は友人を誘う感覚で彼女をドライブに誘ったのだ。その気持ちに変化はなかった。

けれども素直にそう答えてはいけないような雰囲気があった。なんだか彼女のこの言葉は、友達同士のドライブであることを否定するような、そんな一言に思えたからだ。

 

彼女は俯いて黙ってしまった。何を考えているのだろうか。

「僕を揺さぶってくれよ」

「僕を転がしてくれよ」

あいも変わらずカセットからの歌詞は何かを煽ってくる。

軽薄とすら感じるメロディラインが妙に気に障った。

いっそのこと停止ボタンを押してやろうかと思ったが、彼女は黙って聴き入っていた。

 

「山内先輩のさ……」

曲が終わるころになって彼女がポツリと呟いた。

車はいつの間にか僕たちの知らない場所を走っていて、見たこともない集落が少し遠くに見えていた。きっと中学生の自転車では来られないような場所だ。どこか未知でどこか恐ろしいような、そんな場所を軽自動車はひた走っていた。

ずいぶんと太陽が沈んでいて、まるで何かから逃げるように稜線に姿を隠しはじめていた。

 

04. innocent world

知っている曲が流れてきた。どこかの店先で聴いた曲だろう。あるいはテレビで流れているのを聴いたのだろうか。

なるほど、これはMr.Childrenの曲だったのか。知っている曲だ。

 

半面、彼女の口から出てきた「山内先輩」は知らない人だ。

誰だったか。彼女の口ぶりからして知ってて当然の人物のように思えたが、すぐには出てこなかった。

「だれ?」

という言葉が喉元まで出かかっていたが、グッと堪える。たぶん聞いちゃいけない。すごく深刻そうでナーバスな雰囲気だ。ここでそれを口にするほど空気が読めないわけではない。

 

「ほら、私が山内先輩と付き合っていて、それでその、振られちゃったんだけど……」

彼女は言葉を選びながらゆっくりと語った。

なるほど、あの「山内先輩」か。思い出した。有名なプレイボーイだ。色々と良くない噂を聞く人物で、彼と関係があった女の子は数多いと聞く。そういえばこの子とも噂があったような気がする。

 

「それでね、色々な噂が流れてきてると思うの。その、恥ずかしい噂とか、そういうの……」

そういえば山内先輩に関してはそういう噂が多かったと思う。やれ、どういうエロいことをしただとか、やれどんなエロいことをしただとか、彼自身が武勇伝のように語っているらしく、特に多感な年代の男子の間においてそういった噂は光の速さで駆け巡ったものだった。

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「そういう噂とか、全部、その……」

彼女が口ごもった。きっとどんな噂を流されているのか知らないが、それらは全部根も葉もない嘘であると言いたいのだろう。

ただ、僕は山内先輩に会ったこともないし、彼女に関してはそんな噂を聞いたことがない。そもそも彼女を恋愛対象として見ていない。

 

だから特段否定しなくてもいいのにという気持ちが強かった。「嘘だから」なんて言われなくても分かってますよ、そう思っていた。

ただ、彼女の言葉はその予想を裏切るものだった。

「そういう噂とか……全部、本当だから!」

 

うそー! ってなった。

彼女の言葉は予想外のものだった。

普通はそういった噂は完全否定するものだ。真実がどうあれ、否定するものだ。そう相場が決まっている。なのに彼女は違った。

 

「普通そういうの、否定するもんじゃない? 俺はどんな噂なのか知らないけど」

僕がそう言うと、彼女は顔を真っ赤にして答えた。

「だって嘘はつきたくないじゃん。私の耳に入ってくる噂、だいたい本当だし。仕方ないよ」

 

こいつはとんでもない女だ。そう思った。そんな噂話なんて、特に山内先輩みたいな軽薄な男が流す噂話なんて自分にとってマイナスになるばかりで決してプラスにはならない。そんなもの全否定してしまえば済む話である。

それでも彼女は認めた。とんでもない純粋さだと思った。

 

いつの間にか落ちかけた太陽は山影に姿を隠し、日が暮れていた。まるで山影のここだけちょっと早く夜が来たようになっており、西の稜線だけはうっすらと白くなっていた。

決して夜景とは言えない田舎町特有の僅かばかりの明かりがフロントガラスにうっすらと僕の姿を反射させた。それはどうやら彼女に対して興味を持ち始めている僕の姿だったようだ。

太陽は沈んだが、何か別なものが昇ってきたような感覚がした。

 

05.クラスメイト

僕と彼女はクラスメイトだった。同じ教室に通い、同じ日々を過ごしていた。まさかここまで彼女を意識するようになるとは思わなかった。

「ただのクラスメイト」とは言えない存在へとなってしまったのだ。まさかこんなことになってしまうだなんて。

 

気が付くと山道を走っていて、うねうねと曲がりくねったワインディングロードをぎこちないハンドルさばきで進んでいた。暗闇の中を手探りもなく進んでいるような気分がした。

(噂は全て本当だった?)

その思いが頭の中を駆け巡る。ものすごく気になるが、僕はそもそもその噂を知らない。いったいどんな噂が駆け巡っているのだろうか。

彼女が“真実”だというが、その“真実”を僕は知らない。

 

「その噂の話なんだけど……」

勇気を出して切り出したが、僕の声は上ずっていた。

もしかしたらけっこうエロい噂だったのかもしれない。それならばこの場で彼女が切り出した真意が気になる。

 

もしかして今日、今、そういうエロいことを考えているということだろうか。それとも、そういうのは期待しないで欲しいという敬遠だろうか。

山道にありがちな、寂れたラブホテルの看板が妙に存在感を増して通り過ぎていった。

「うん、酷いよね、あんな噂を流すなんて。信じられない……」

 

この口ぶりから言って絶対にエロい噂だ。すごいプレイをしたとかそういった類のものだ。

胸の鼓動が速まるのを感じた。急に落ち着かなくなってきた。下手したらハンドル操作を誤ってしまいそうだ。

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またキラキラとしたラブホテルの看板が通り過ぎていった。

「なんかめちゃくちゃ派手な看板だな。どこがミルキーなんだか」

看板にはミルキーウェイとか書かれていた。動揺しているのか、僕のセリフも少しおかしい。別にミルキーに文句をつける場面ではない。

きっとあまりにエロいことを考えすぎなのだ。ここは仕切りなおさなきゃいけない。そう思った。

 

「その噂のことなんだけど、それが本当だとして、どうして俺に言うの?」

ついに言った。言ったのだ。

渾身のその言葉に彼女は黙り込んでしまった。

 

なんだか、すごく悪いことをしたような気がした。妙に重い何かが心の中心を縛り付け、そしてそこにかなり大きな重りを付けられたような感覚がし、僕を苦しめた。

もうただのクラスメイトじゃない、その気持ちがなんだか残念なようで、ちょっと心躍るようでよく分からなかった。

 

車内の空気は圧倒的におかしかった。

僕の感情と彼女の感情が妙に混ざり合ったような。それこそ交錯したような奇妙な感情が車内を満たしているように思えた。

車の中でラブホテルの看板を横目に見ながらこんな重い会話をする。もう僕らは子供じゃないのだろうと感じた。そしてクラスメイトでもないのだろう。ただただそう感じた。

 

06. CROSS ROAD

またミルキーウェイの看板が通り過ぎていった。どれだけあるのだろうか。数えておけばよかった。

それを合図にしたわけではないだろうが、彼女が口を開いた。

 

「未来の話をしたんだよね。山内先輩に。どういう未来を生きたい? って聞いてみたの。わたしそういう話好きだから」

たしかに彼女はそういうところがあった。夢見がちというか、夢想家というか、教室でもそういった言動がよく見られた。

とにかく将来の話が好きで、思春期にありがちな、未来を考えることへの気恥ずかしさみたいなものを持ち合わせていない感じだった。誰もが斜に構え、将来はこうなりたいと言わない中で言えるような人だった。

 

「そしたら山内先輩にうざい、重い、って言われて……。別にそういうつもりじゃなかったのに」

また彼女は俯いてしまった。

きっと山内はそれが彼女なりの重圧のかけ方だと思ったのだろう。結婚だとかそういったものを意識させようと言ったと感じたのだろう。

山内のような軽薄な輩にはそれがずいぶんと重荷だったに違いない。

 

「未来ってまだ来てないってことだからね。誰にも分からないさ」

僕は、なんかカッコイイことを言わなきゃいけないと思い、そんなことを言っていた。よくよく考えると当たり前のことを言っている。「うどんって麺類だからね」と得意気に言ってるのとそう変わらないのだ。

 

彼女は少しだけ空気を飲み込むような仕草を見せたのちに、口を開いた。

「ねえ、どんな未来が来て欲しいと思う?」

そう言って彼女が見せた表情は、教室で見たあの屈託のない笑顔そのもので、なんだか懐かしいような気がした。

 

それはともかく、彼女の問いに対する返答には困った。彼女がどういった“未来”を思い描いて質問しているのか分からないのだ。

普通に考えて、先ほどのちょっと湿り気を帯びた大人の会話の後なのだから、そういった二人の距離を縮める未来を想定しての質問かもしれない。

つまり、僕らがこれから恋に落ちて、あるいは結婚して、幸せな家庭を築くような未来を想定しているのかということだ。

 

しかしながら、それはあまりにも早計だ。屈託のない彼女の顔を見ていると、そこまでしっとりとしたものではないように思える。

そうなると、一気に飛び越してそう答えることはいわゆる「重い男」になりかねないのだ。

 

「楽しく生きられたらそれでいいんじゃないかな」

考え抜いた末に、そう答えた。

「楽しくかあ」

 

彼女は何かを考えこんでいる様子だった。

僕は僕で、自分でもあまりに抽象的過ぎて何を言っているんだか分からなくなってしまった。

ただ、急速に僕たち二人の距離が縮まり、近づいたように感じた。それは錯覚かもしれないけど、確かにそう感じた。

 

07 ジェラシー

どす黒い感情が自分の中に満たされつつあった。それはまるでこの曲の前奏のようで、深海のような重低音が徐々に心を侵食していった。

きっとではあるが、彼女は僕に何らかの感情を持っているはずだ。そうでなければ、わざわざ自分から山内先輩の話をするわけがない。未来の話を振ってくるわけもない。

よくよく考えたら、ドライブの誘いに乗ってきたのだって、友達以上の感情があるからではないだろうか。

 

僕は僕で、ずいぶんと前からそれこそ2曲くらい前から彼女のことが好きなようだ。それはもう疑いようがないだろう。

 

僕はこういったトリッキーな人に弱い。否定すればいい山内先輩との噂を肯定した彼女に心を掴まれてしまったのだ。

さらには、その噂自体を僕が知らず、彼女が完全に空回りしているところも素晴らしい。そういうのに弱い。もう、好きになるしかないものだった。

 

そう、僕は彼女のことが好きなのである。

こうして車に乗って一緒にMr.Childrenのアルバムを聴き、なんと数曲を聴くうちに好きになってしまったのだ。あまりに単純かもしれないが、きっと恋なんてそんなものなのだろう。

 

そうすると無性に腹が立ってきたのだ。

まだ見ぬ山内という輩に対してだ。彼女をこれだけ困らせ、あろうことか恥ずかしい噂まで流しているのだ。それはいまや彼女の中では呪縛のようにすらなっている。なぜ彼女がそんな思いをしなければならないのか。

 

許せないを通り越した怒りの感情が沸々と心の中に生まれつつあった。それは真っ当な感情だろうか。正義感からだろうか。道義的に許せないという感情だろうか。

いや、そんな胸を張れるような感情ではない。もっとどす黒い、深海の底の底のヘドロのような、ジェラシーという感情なのだろう。それはきっと罪深い感情なのだと思った。

 

「未来を楽しく生きられたらそれでいいよ」

罪深い感情に蓋をするかのように、再度、そう答えた。また彼女は考え込んでしまった。

 

08 Asia(エイジア)

多くの含みを持たせたつもりだった。

「楽しく」という未来の中には「キミと」という意味だって含んでいる。それは取り方によって重くも軽くもなるベストな返答だと思った。

相変わらず彼女は考え込んでいる。

 

「くちづけをかわす」

カセットテープからはそんな歌詞が聴こえてきた。そこだけ大ボリュームになって聴こえた気がした。

妙にギクリとした。ものすごくエロいことを考えていてそれを見透かされたような感じがしたのだ。

 

「ちょ、ちょっと止めようか。なんか飽きちゃったし」

これ以上このまま歌を流し続けていたら、もっと僕の心を見透かされるような気がした。どんどんエロい描写が出てきたら、もうダメだ。そう思って停止ボタンに手を伸ばす。

「う、うん」

Michela Castiglione

彼女はそう答えてまた何かを考えこんでいる。

信号待ちの隙にデッキ横の突起を強めに押さえると、少し乱雑な音をたててカセットテープが排出されてきた。

 

無音だった。

交差点の中心を街灯だけが照らしていて、他に車はいなかった。赤い光と青い光が交錯する中で、車のエンジン音だけが響いていた。けれども、その音もすぐに意識の外へと除外され、実質的に音のない世界が広がっていた。

 

この無音は、エロい歌詞以上にまずい。なんとかしなくてはならない。この無音は深刻な会話を始める合図のように思えた。

それが始まると僕は致命的ダメージを受けかねない、そう思えた。それを避けるため、何か音楽をかけなければならない。それはもう脅迫に近かった。

 

サイドブレーキをかけるレバーの脇に、カセットが置いてあった。母親が忍ばせていたアリスのカセットで、僕が引き抜いたものだ。今はこれにすがるしかない。深刻な会話を始めないためにも、これをかけるしかないのだ。

ゆっくりと、そのカセットをデッキへと吸い込ませた。

 

05. チャンピオン(アリス:THE BEST OF ALICE SIDE 2より)

妙に野心的な前奏から野太い声が聴こえてきた。車内の雰囲気は一変した。少なくとも、恋愛がどうだとかそういったものを話す雰囲気にはない。

あるのは、リングに向かう男の想いだけである。

 

ある意味原始的、ある意味野蛮ともとれるそのメロディラインはなんだか安心するものだった。

「一気に雰囲気変わったね」

彼女がそう言った。それほどに車内の空気はアリスによって塗りかえられていた。

 

「なんだか悲しい歌だね」

彼女は続けざまにそう言った。そう、この歌はよくよく歌詞を噛みしめてみると異様に悲しいのだ。

主人公であるチャンピオンは、獣のような若い挑戦者には勝てないことをどこかで悟っていながら、リングへと向かうそんな節がある。その哀愁を背負いながらもチャンピオンは戦う。そして立ち上がる。血だらけになりながらもだ。

 

「わたし、未来ってこういうものだと思う」

彼女はこの歌の主人公に姿を重ねたのか、自分の中に思い描く未来について話を始めた。

 

多くの人は、未来を想像するとき、輝かしいそれを思い描くことが多い。

自分の理想通りになっていて欲しい、幸せになっていて欲しい、月並みに「楽しく生きられたらそれでいい」なんていう人もいる。

まるで未来は輝かしいものだと信仰する宗教のように、その切り口は変わらない。光のようなイメージすらあるだろう。

 

「未来はどこか不安なものだと思う」

さらに彼女は言った。

何も心配のない光のような未来は未来ではない。思い描く未来は不安で、どこか不安定で苛々して、ちっともうまくいかないものでなくてはならない。それこそが未来だ。その中を畏れながら手探りで進んでいくことこそ、未来の姿だ。

彼女はそう言った。

 

重い女だな、そう思った。

でも不思議と悪い気はしなかった。なぜなら僕も少なからず彼女と同じ考えがあったからだ。

ただ、気が付かなっただけで、彼女によって言語化されたことで明確に理解できた。そう、未来とはちっとも輝いてなんかいやしない。光というよりは闇だ。

 

輝かしいと思うから未来は怖い。輝かしくなかったら困るからだ。

歌の中のチャンピオンは輝かしい未来は見えていない。闇のような未来が見えていて、それでも進んでいく。それでも、最後には彼にも未来がやってくる。

 

「俺さ」

僕は切り出した。

何を畏れていたのだろうか。結果の分からない未来が怖いのは当たり前だ。あんなにも核心に触れることを畏れる必要はない。

未来とは暗いものだ。怖いのは当たり前だ。その中を手探りで進んでいくことこそ未来じゃないか。

 

僕は決意した。怖がっていてはいけない。僕は暗い未来の中を手探りで進んでいきたい。

彼女に告白するんだ。(You’re King of Kings)

 

08 Asia(エイジア)

曲が終わると同時にアリスのカセットを取り出し、またMr.Childrenのカセットテープをセットした。仕切り直しという意味もあった。すぐに先ほどの続きから曲が流れ始めた。

 

「未来へと向かい僕らは走る時には無様に転がりながら今日もどこかで」

そんな歌詞が聴こえてきた。そうだ。無様に転がればいい。未来とは良いものじゃない。

でも、良いものだ。Mr.Childrenと意見があったような錯覚に陥った。

 

「山内先輩とか、噂とか、僕はよく知らないしよく分からないけど、嫉妬している自分がいる。たぶん、僕は君のことが好きなんだと思う」

そう言った。

幹線道路が近いのか、トラックのクラクションが聴こえた。その音はとてもうるさいのだけど、なんだか静かさを際立たせているように思えた。矛盾しているようだけど、そんな気持ちがしたのだ。

 

09. Rain

この曲も約20秒と短い。おまけに雨の音が入っているだけのものだ。

一瞬、雨が降りだしたのかと心配したが、フロントガラスに水滴はついていなかった。

 

当時の僕は、最初の曲と同じく、これが独立した曲であるとは認識できず、次の曲の前奏だと思っていた。

そして、ここにきて初めてこのアルバムは恋の始まりからの心情を描いているのだと気が付いた。

 

踊るように陽気に始まった二人の関係が恋に変わり、純粋な想いを経て急速に交差する。

するとジェラシーが生まれてきて、独りよがりな考えが出てくる。より深みへとはまっていくのだろう。

奇しくも、このアルバムと僕の思考が妙に一致している。ということは、この先はどんな展開を迎えるのだろうか。このアルバム通りに進行するのだろうか。

Jonas Bengtsson

そう考えると、ここでの「雨」はもしかしたら順調に交際していた二人の転機、たとえば喧嘩だとかすれ違いだとか、そういったものを表しているのかもしれない。

それに比べると、こちらは「告白」が転機雨なのだ。すこしだけ遅れをとってるな、とニヤついてしまった。

 

告白しておいてニヤニヤ笑う男。さぞかし気持ち悪いと思うが、彼女はサイドミラーを眺めるように向こう側を見ていて、その表情を伺い知ることはできない。

ただ、しつこいくらいに雨の音だけが20秒間流れ続けていた。

もう一度フロントガラスを眺めたが、やはり雨は降ってはいなかった。

 

10.雨のち晴れ

異様に陽気な曲だと思った。むしろ、本当にこれまで聴いてきたMr. Childrenが歌っているのだろうかと思えたほどだ。

雨のあとにこの陽気さは“雨降って地固まる”を表現しているように思える。つまり、喧嘩なりなんなりの転機を乗り切って、陽気に二人の関係が戻ってきたことを示唆しているのではないか。

 

けれども、これはあまりに陽気である。曲自体はすごく好きな感じなのだけど、アルバム内の配置としては異色さが際立つ。

実は、地固まったと思っているのは男だけで、本当はその前の「雨」の段階で二人の関係はとっくに壊れてしまっているのではないか。そう思えるほどこの曲は異常な壊れ方をしている。

 

「もうちょっともうちょっと頑張ってみるから」

その歌詞が異様に悲しい。陽気な曲調に悲しい歌詞が続く。なんなんだろうかと思った。

 

彼女は押し黙っていた。何かを言いたそうにしている素振りもない。ただ黙っていた。悲しく陽気な歌だけが、車内の空気を叩いていた。告白の返事はなかった。

 

「だからさ、その、付き合うとか」

追い打ちをかけるようにそう言った。でも、返事はなかった。彼女はずっと横を見ていて、何もない暗い闇を眺めている。

曲が後半に差し掛かると、さらに陽気さに拍車がかかったように感じた。車内だけ重力が強まったとすら思える重苦しい雰囲気の中で僕は考えていた。未来とはこうであるべきなのだと。

 

「そろそろ帰らなきゃ」

沈黙を破って彼女がそう言った。相変わらず表情は見えない。

 

思えばずいぶんと遠くまで来てしまった。同じだけ時間をかけて帰ることを考えると、けっこう遅い時間になってしまう。あてもなく走り続けて結構な山奥にきてしまったが、引き返すべきだろう。

適当な空地を見つけ、そこに車を滑り込ませUターンをした。

さっきまで昇ってきたやや傾斜のきつい坂道を、今度は滑るように降りていく。未来とはこういうものだと考えながら。

 

11.Round About~孤独の肖像~

先ほど通ってきた山道を今度は逆に走る。

本当に、ただ同じ場所を逆に走っているだけなのに見える景色がずいぶんと違うものだ。

 

暗闇に浮かぶ湖が見えた。おそらくダム湖か何かだろう。暗闇に静かに横たわる湖の上に山々が浮かんでいるように見えた。

何個かかの交差点では信号が点滅していて、その中を車で走っていくその光景がイエスの歌みたいだと思った。

 

迂回して帰ってやろうか。そんな考えが浮かんできた。

怖くとも、恐ろしくとも、僕は明確に未来を示したつもりだった。けれども、彼女はそれに答えず、未来を示していないと感じ、卑怯だと思った。

「未来とはどこか不安なものだと思う」

そう言った彼女の言葉を思い出す。それついては完全に同意だが、その認識は僕と彼女で大きく異なっていたのかもしれない。

 

「不安だよね、未来って」

そんな僕の思考を読み取ったのか、彼女はそう言った。そして、先ほどのまでの沈黙が嘘であったかのように続けざまに口を開いた。

 

「やっぱりあんなことがあったからね。山内先輩のこととか。ちょっとすぐには……」

小さな子供が言い訳をするかのように抑揚なく話していた。これは完全にフラれるやつだ。そう確信した。

 

未来では誰かが笑い、誰かが泣いている。怖い未来だからこそ、闇雲に進むべきだと僕は思っていた。

未来が怖いのは泣くからじゃない。泣くか笑うか分からないからだ。

ただ、彼女は怖いから進むべきではないと思った。泣くと決めつけているのだろうか。それはずいぶんと悲観的な思考だと感じた。

 

曲が終わると同時に、僕は停止ボタンを押した。聴かなくても次がどんな曲なのか分かったからだ。やはりもう、あの意味深な「雨」から全ては壊れてしまっていたのだ。

これまで辿ってきた道のりを、無音と静寂が塗りつぶしていった。

 

12.Over

見慣れた景色だ。よく見た景色は闇に染まっていて、点滅信号の黄色い光がスポットライトのようにアスファルトを照らしていた。

 

「今日はありがとう」

彼女も自分の家が近づいてきたことを察したのか、1時間ぶりくらいにこちらを向いてそう言った。

 

「あ、テープどうする?」

僕がそう訊ねると、彼女は少し考えるように斜め上を見る素振りを見せ、こう言った。

「いいよ、あげる。何回も聴いて。わたしはまだ元のCD持ってるから」

「そっか」

しばらく貸すから返してねと言われたほうがまだ望みもあったが、そうではないことがなんだか悲しかった。

 

夜に染まった公園に車をつける。彼女を乗せたあの公園だ。けれども、彼女は降りようとしなかった。

「ついたよ」

僕がそう言うと、彼女は、今度は3分ぶりくらいにこちらを見た。

「やっぱりちゃんと返事しないとダメだよね」

「どうだろうか」

まるで引導を渡してやると言われたような気がした僕は、何かを誤魔化すようにして笑った。

 

「あの、わたし、そういうのあまり得意じゃなくて」

彼女が何を言っているのか分からなかったけど、僕は再度、なにかを誤魔化すように笑った。

「だから、その、面倒くさい女って思われるかもしれないけど、ちょっと遠回りな答え方していい?」

 

面倒くさい女だなあと思ったけど、それは助かると思った。直接的に引導を渡されるよりも、遠回しにしてくれる方がありがたい。

「助かります」

少し冗談めかしてそういうと、彼女は助手席のドアを開け、体半分を車から出した体勢のまま考え込んだ。また、斜め上を見るあの素振りだ。

 

しばらくして、彼女がデッキを指差し、こう答える。

「じゃあ、私があげたそのカセット、中に入ってる曲数が12曲だったら、私の返事はOKってことでいいかな? それ以外だったら……。

随分と面倒くさいことを言い始めた。あまりに遠回りすぎる。でもなんだか、ホッとした。おそらく直接的にNOと言われることに耐えられなかったのだろう。

 

「帰ってから聴いてね、恥ずかしいから」

彼女は付け加えるようにしてそう言った。

「はい、わかりました」

僕がそう告げると、彼女はそそくさと車を降り、闇の中へと消えていった。

 

彼女なりの気遣いだったのだろうと思う。彼女は面と向かって断りたくなかったのだ。

きっと彼女はまだ山内先輩のことを引きずっているのだろう。もしくは単純に僕のことが嫌いなのだ。だから断るつもりなのだが、直接的な返事を避けたのだろう。

 

さっき聞いた感じ、このアルバムは12曲にはとても足りないようだった。

彼女はダビングしたのだから、それをよく分かっているのだろう。きっと足りない。12曲もないはずだ。

いや、まてよ。

そこまで考えて大変なことを思い出した。

「最後まで聴いたわけではない」

 

途中で再生を停めてしまったので、その後、何曲続いていたかはいまだ闇の中だ。明らかに12曲に足りないと思われたけれども、もしかしたらその続きが延々とあって、12曲に届くのではないか。

すぐに続きを再生した。

流れていた曲の中では、恋の終わりを告げられた悲しい男、混乱する男が必死に呼吸していた。とてもじゃないが他人事じゃない。

続け、もっと続け、頼む、Mr.Children。そう思ったが、その曲を最後にアルバムは終わってしまった。

 

A面に戻し、随所で早送りをしながら曲数を数える。もしかしたら12曲なのかもしれない。

つまり、彼女の返答はYESということなのかもしれない。祈るように数えた。同時に、今日一日のことが思い出された。

 

アルバムの曲数は10曲だった。

2曲も足りない。それが彼女の明確な思想だと思った。

これが曲数が多いとか、1曲足りないとかならまだ分かるが、2曲も足りない、というのはあらゆるものが足りなかったのだろう、彼女はそう言いたかったのだろう、そう感じ取れた。

全てが終わったのだ。僕では届かなかった。僕では足りなかったのだ。それも2曲もだ。

 

結局、彼女とはそれきりだった。現代のように連絡手段のない時代において、フラれた相手と連絡を取ることは難しいことだったし、そうする理由もなかった。

遠い記憶の中の失敗談、それにいつしか封印を施した自分がいた。

 

 

 

「なるほどなあ」

また散らかった掃除途中の部屋に意識が戻ってきた。

すっかり日が落ちていて、真っ暗な部屋の中でCDプレイヤーに向かっていた。

 

あのとき彼女が言っていた「未来とは不安なもの」というセリフ、それは闇の中で放たれた言葉だったのだろうか。

どうしてもそんな後ろ向きな気持ちだったとは思えない。

彼女はあの日、闇の中から光を探して一歩踏み出し、光を得たのではないだろうか。

 

僕らの未来は暗い。

けれどもそれは決して絶望なのではない。暗いからこその希望がある。

あの日思い描いた暗い未来に、今の僕はどんな顔をして立っているのだろうか。

できることならすげえ闇だったよ、と笑顔で言えるといい。そんな気持ちを思い起こさせてくれた。きっとそれがこのCDを見つけた意味なのだろう。

 

スマホで彼女の名前を検索してみた。

命名サイトしか引っかからなかった。きっと苗字が変わっていて、不安という光の中で幸せに暮らしているのだろうと思った。

なぜだか知らないけどそう思えた。たぶん、きっと、彼女はあの時以上に綺麗になっているのだろう。

 

負けないように僕も暗い未来の中を生きていかないと。そう思えた。

そして、まずはこの掃除を終わらせないと。僕は立ち上がり、腕まくりをした。

 

散らかった部屋の中で、CDプレイヤーの液晶が明滅する。そこにはCDの曲数である「12」が燦然と表示されていた。

 

 

(文:pato  編集:ききやま)

歌詞はMr.Children「AtomicHeart」より引用

 

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(2024/4/21更新)

 

著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

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