使い方は人それぞれだが、ブログを使って情報発信をすることがごく自然な行為となっている。
ブログを活用するのは、自分が思っていることを知ってほしい承認欲求の表れとか、広告収入を得るためとか、理由もそれぞれあるだろう。
だが、ある程度の期間、メディアと呼ばれる企業に勤めた経験がある筆者には、どうもそれだけとは思えない。
それは何かを考えてみる。
いろいろ、偉そうに書いていくが、私がメディアに在籍していたころ、
「できる記者」
だったかというと、疑わしい。
たくさんの記者会見に出席して、いろいろ記事も書いてきたが、それが優れた仕事だったかと言われると、胸を張って「そうです」と答える自信はない。
いろいろと反論や批判もあるかと思うが、ご容赦いただければと思う。
「古い」記者にとってブログは余計なお世話?
「●●●(有名人)さんが自身のブログで●●●を発表しました」というニュースを報じるテレビ番組をよく目にする。
結婚だったり、復帰だったり、とテーマは本当に人それぞれ。
当然よろしくない話題もある。
ブログがなかった時代は、記者が独自の情報網を駆使して入手した●●●に相当する「特ダネ」をテレビ番組や雑誌などで披露していた。
その後(それが正しいか正しくないかに関わらず)、ネタになった人が記者会見をしたり、先を越されたメディアが(なぜ先を越されたか、言い訳を作るため)大挙して押し寄せたりする風景をよく見かけた。
だが、ブログで発表されてしまえば、「古い」記者にとっては、「スタートラインが同じ」であるため、報じるモチベーションはあまり上がらない。
それは、発表済みのネタで「特ダネ」ではないからだ。
だが、ブログに慣れ親しむ「新しい」記者にとっては、古臭い特ダネをとる作業(地道な周辺取材や、夜回りや朝回りといった、取材対象が行きそうな場所や自宅などにアポなしで訪問して、話を聞く行為など)をする必要がないため、記者にとってとても効率がよいと聞いたことがある。
本来、発表されるはずもなかったことを報じるのがメディアの役割で、いつか発表されることを、たかだか数日あるいは数時間早く報じても、そこにどんな意味があるかという疑問はあるが、いずれにしても、記者が頭と足を使う機会が減っているのは、確かなようだ。
これが、特ダネ獲得競争である雑誌の独走を生み出す要因になっていると考えているのは、私だけだろうか。
記者会見を要求するメディア、嫌う取材対象者
話がそれてしまった。
ブログで発表された情報は、そのまま、テレビ番組などで繰り返し報じられる。
発表内容について、説明する記者会見をすることもないケースも目立っている。
それはそうだ。ブログに書いたことが発表できることすべてだからだ。
これ以上聞かれても話すことなどない。
以前であれば、記者会見で話していたと考えられる内容を、ブログですべて書くようになった。
これ自体を評価するつもりはない。
だが、なぜこうなったかを考えてみたい。
記者会見は、記者にとっては、まさに勝負の場。
発表内容だけではなく、的確な質問をして、面白い回答を導き出し、場合によっては、記者会見後、会見者がいるところへ押しかけて、記者会見では聞けなかったことを聞く必要がある。
原稿に同業他社にはない視点を少しでも盛り込むためだ。
これができなければ、記者として記者会見場にいる意味はないとまで言われる。
会見者はどうか。
いくら話慣れている人でも緊張するらしい。
まず、自分が話す。
その後、記者から質問、となることが多い記者会見で、もちろん、予定調和ではないことが前提だが、
会見者が特に神経をとがらせるのが、記者からの質問だ。
打ち合わせもないことが通常であるため、どんなことを聞かれるか、答えられない質問だったら、どうかわすか。
記者のバックには、読者や視聴者がいる。
彼らにどういうメッセージを発することが最善か。
いろいろと思いを巡らせているうちに、記者会見の時間となり、思ったように進めることができない、話さなくてもいいことまで話してしまった、ということは、よく耳にする。
こういったことが繰り返されていくうちに、
「記者会見はめんどくさい」
という見解が広がっていく。
それだったら、熟慮に熟慮を重ねて書いた文章をブログにあげたほうが、自分の主張を正確に伝えることができるという考えが浸透していった。
メディア側はよく
「記者会見を実施してほしい」
と要望するようだ。
「説明する義務がある」など、メディア側は、もっともらしい理由を主張するが、これは、メディアが言うべきことではないと私は思っていた。
メディアが記者会見をしてほしい理由は、ほかにあるからだ。
まず、記者会見に出席すれば、会見者が話すことを聞くことができるため、最低限、「スタートライン」には立てる。
出席しなかったことで情報を聞き漏らすデメリットと、記者会見場まで行く手間や時間を比べると、デメリットを回避するほうが記者にとって有益だ。
聞いた情報をもとに、最低限の記事を制作することができるため、一応、お役目を果たせる。
会見者も、いろいろなメディアから、それぞれ質問を受けるよりも、記者会見で一度に済ませたほうが効率がよいという計算が働く。
会見者とメディアにとって、都合がよいシステムが記者会見という見方もできる。
もちろん、メディアと会見者の間のやりとりに緊張感が満ちている記者会見も多い。
だが、仕事をしている体裁を保てるメディアと、効率よく情報を伝播させようとする会見者の思惑がかみ合ってしまうと、何の役にも立たない記者会見が出来上がる。
こうした記者会見の内容は、読者や視聴者の「知る権利」に応える水準には達してないだけではなく、情報が正しく伝わらない(あるいは、歪曲して伝わる)可能性もある。
これだったら、記者会見ではなく、ブログやほかのSNSで情報を伝えたほうがいいと考える人が増えることも容易に思いつく。
要は、メディアが信用されてない、ということなのではないかと思う。
メディアは、自分の権利にあぐらをかいているのではないか
メディアには、編集権がある。
編集権とは、
「企画をたて、素材を収集し、整理し、構成する」
権利だ。
編集はよく、料理に例えられる。
料理で言うと、企画は、「何を作るかを考える」、素材は「材料」、整理は「調理」、構成は「盛り付け」だ。
まずい料理はだれも食べないのと同様、まずい編集によって意味出された情報は、市民から支持を得られない。
取材対象者にとっても、まずい編集をされて、情報がうまく伝わらないなら、メディアを活用するメリットはない。
権利の裏には、義務がある。
ここで言う義務とは、メディア側の都合をすべて取り払って「正確」に伝えることだと思う。
間違っていたら、すぐにでも修正し、自ら非を認める素直さや、真摯な態度で情報に向き合い、発信する謙虚さが必要だが、こういった態度がメディアには足らないと思うことがある。
こういったメディアの行為を見るたびに、辟易し、従来のメディアに頼らない情報公開の方向にベクトルが向いているのではないか。
米国のトランプ大統領とメディアとのやりとりで印象に残っている場面がある。
記者会見の内容は、よく覚えてないが、ある日本のメディアが質問をしたときにトランプ氏が質問者に向かって
「誰だったかな」
というような趣旨のことを話した場面だ。
この記者は、普段トランプ氏を取材しているわけではなく、普段取材している記者のピンチヒッターでたまたま記者会見に出ただけかもしれない。
だが、世界で最も影響力がある人物に名前を覚えられてないメディアって、どうなのか、と思ってしまった。
一方、意に沿わない質問をして、記者会見に出入り禁止となっても、一貫して真実を聞き出そうとする米メディアもある。
取材対象者にとって「めんどくさい」メディアと、「取材対象者に優しい、存在を知られてない」メディアが共存する社会で、情報の受け手である市民に信頼されるのはどちらだろうか。
メディアリテラシー、などと言われるようになって、しばらく時間が経っている。
メディアが発信する情報に対して、正しいか正しくないかということを、自分で判断できるようになりましょうという意味だ。
政治家の発言を、編集をして、一部分だけを大々的に報じる手法をとるメディアもある。
このとき、政治家が何を言おうとしていたかを自らが判断するために、メディア報道に加えて、自分で情報を取りに行く姿勢が重要になってくる。
ブログによる情報公開が増えていることは、メディアが発信する情報の信用性を測るうえで重要だと思う。
市民が自分で編集をして情報を発信するメディアを持てる時代だ。
信用できない旧来のメディアを使って、情報発信する意義が薄まることで、メディアが信用されなければ、誰が権力を見張ることができるか。
日本と米国では、メディアの数などが異なるため、単純に比較することは難しいが、ネットメディアを含めてメディア間競争が激しいのは、米国だと思う。
勝ち残っていくためには、情報の内容で勝負するしかない。
内容が薄ければ、市民に見向きもされない。
現に、経営に問題を抱えるメディアが増えてきている。
日本も、遅かれ早かれこういう状況になることを考えると、上で書いたトランプ氏の記者会見が、日米メディアが置かれている状況の認識の差を如実に示しているとも思える。
ブログやSNSによる情報発信が増えていることを見るにつけ、そんなことを勝手に思っている。
【著者】村上
大学院修了後、メディア企業入社。企業経営者らに取材、コンテンツ制作。現在、企業のオウンドメディアに携わる。