「ソーシャルディスタンス」という言葉にも、すっかり慣れてしまいましたね。
新型コロナウイルスの感染を防ぐために、不要不急の場合を除いて外出を控え、どうしてもお店で行列をつくらなければならない時も2メートル以上離すよう、私たちは注意するようになっています。
この、ソーシャルディスタンス(社会的距離)をフィジカルディスタンス(物理的距離)と言い換えるような動きもあるようですが、私には、あまり良い言い換えとは思えません。
だって、理由がどうあれ、物理的に距離を取ってしまえばそのままそれが社会的な距離や心理的な距離にもなっちゃうものじゃないですか。
そのわかりやすい例は、遠距離恋愛です。
よく、遠距離恋愛を続けるのは難しい、といわれます。
なぜかといえば、パートナーとの物理的な距離の遠さが、そのまま心理的な距離の遠さになってしまうからです。
たとえば高校時代に付き合い始めた男女が同じ街の大学に進学するか、それとも札幌と福岡の大学に進学するかによって、交際が続く可能性は大きく変わることでしょう。
親子の関係でも似た現象がしばしば起こります。
最近はいくらか減りましたが、20世紀の終わり頃には、親が「わが子のためにと」夜遅くまで働き、子どもと時間や空間を共にしないうちに親子関係が崩壊してしまう悲劇があちこちで起こりました。
親が子どもをどんなに愛していたとしても、親子の物理的な距離が離れていれば心は疎遠にならざるを得ません。
どれだけ遠くに離れているか・どれだけ頻繁に顔を合わせているかは、私たちの社会的な距離や心理的な距離に直結した問題ですから、今、世界じゅうで起こっているこの現象をフィジカルディスタンスと呼んでしまうのは片手落ちもいいところではないでしょうか。
精神医療の世界でも、こうした物理的な距離の問題が慎重に取り扱われていました。
クライアントとセラピストの位置関係や距離の遠近、間取りといったものによってカウンセリングの効果は微妙な影響を受けますし、クライアントとセラピストの治療関係も、お互いの心の間合いも変わります。
カウンセリングの古典的名著『精神分析セミナー』には、物理的距離とカウンセリングの効果について、こんなことが書かれています。
面接室にどれぐらいの空間がよいのかというのは、大変重要な問題です。私は狭い部屋は好きではない。慶応の精神療法外来で、自分が面接するときは、土曜の午後であれば空いている初診の広い方の診察室を使って、そこを患者と二人でいます。
(中略)
ある程度の広さの部屋で面接をして、その空間構造によってその治療者と患者の間に一定の心理的な空間ができ上がっているときに、たまたま部屋の都合により急により狭い部屋になったり、より広い部屋になったりすると、双方が気持の上で違和感を感じるし、不安定になります。
まず精神療法の一つの基本的な問題として、そういう安定した空間的構造の中で二人の人間がコミュニケーションを続けていくことができるかどうかということが、もっとも重要な要因になっているわけです。
クライアントの性質やセラピストの性質によって、最適な物理的距離には多少の違いがあることでしょう。
ですが細かな点はさておき、物理的距離が変わるとカウンセリングの効果が変わってしまうこと、いわば、ソーシャルディスタンスの程度によってカウンセリングや治療関係が影響を受けることを精神医療の現場の人々はよく知っていました。
新型コロナウイルス感染症が広まるまでの、例年どおりの私たちの物理的距離に比べると、2020年の私たちの物理的距離はかなり遠いものになってしまいました。
遠距離恋愛や親子関係、精神医療の知見などを照らし合わせて考えるなら、私たちは物理的に距離を取らざるを得なくなっていると同時に、社会的・心理的にも距離を取らざるを得なくなっている、のではないでしょうか。
近しいコミュニケーションが必要な人は意外に多い
そんなわけで私は、このソーシャルディスタンスという社会状況に強い関心を持っています。
いつもの年なら、私たちは当たり前のように会社や学校に通い、当たり前のようにフィットネスジムや行きつけの飲み屋に通い、課外活動やレクリエーションを楽しんでいたことでしょう。
例年の4月なら、花見や新人歓迎会をとおして人間関係を深めている人も多かったはず。
ところが今年は新型コロナウイルス感染症を防ぐために私たちは外出を自粛するようになり、多くの仕事がリモートワークになりました。人間関係を深めるための場所は封じられ、イベントもことごとく中止になっています。
人間は、社会活動をとおして繋がり合う生き物ですから、通常は、これほどのソーシャルディスタンスをとって過ごすことはありません。
心理学実験のなかには、被験者の承諾を得て一時的な隔離の状態をつくり、その心理的影響を調べるものもありますが、社会全体の規模で・これほどの長期間にわたってソーシャルディスタンスの制約を課した実験などできるものではありません。
そういう意味では、私たちは「社会全体でソーシャルディスタンスをとりあうと何が起こるのか」を目の当たりにできる、非常にレアな機会に遭遇しているといえます。
では、ソーシャルディスタンスによってどんな心理的影響が起こっているのか。
先日、しんざきさんがリモートワークが急に始まった時に起こる変化について、興味深い文章を綴っておられました。
急にリモートワークが始まった時起きる、キツい変化を目の当たりにしている。
ところが、ここで予期せぬ事態が。
「不要不急」って言われるのを嫌がるというか、「いや、この業務は必要ですから出社させてください」って言われることがめちゃ多かったんですよ。
(中略)
ただ、この時改めて思ったのは、「皆、自分の仕事が不要かも知れない」という認識に耐えられないんだなあと。
「必要とされている」という認識は働く上で本当に大事なんだなあ、と。
更にそこから、「自分の仕事には、実質的にはどんな価値があるのか」ということをもっと明確にしてあげないといけないなあ、と。
今までもちょくちょく話していたつもりとはいえ、こういう事態下でちゃんと定着していなかったというのはマネージャーである私にとっても反省点です。
リモートワークが始まってみると、会社に行きたがる人がいたり、自分の仕事が不要かもしれない認識に耐えられない人がいたり。
これらのことから察するに、案外多くの人が職場という場やface to face の人間関係から多くの心理的影響を受け取っていて、自分のアイデンティティやレゾンデートルをも受け取っていたのではないでしょうか。
そしてソーシャルディスタンスによってそれらが受け取りづらくなった時、オンラインのコミュニケーションだけではその欠落を補いづらい人が少なくない、ということでもないでしょうか。
一般に、職場は疲労やストレスの源とみなされがちですし、それもそれで事実ではあります。
ブラックな職場の場合、そうした側面がとりわけ強調されることでしょう。
しかしある程度ホワイトな職場の場合、私たちが職場から受け取っているのは疲労やストレスばかりではありません。
顔のみえる関係をとおして承認欲求や所属欲求の充足を受け取り、そうしたことのなかでアイデンティティやレゾンデートルをも受け取っているものです。
ホワイトな職場のホワイトな社会人同士は、挨拶や何気ないやりとりをとおして無意識のうちに充足しあっているものです。
わざわざ「おまえは素晴らしい同僚だな!」と指さし確認する必要も、額縁に入った社訓を大声で読み上げる必要もありません。
いつもの挨拶や業務のやりとりがあって、いつもの信頼関係が成立さえしていれば、気付かぬうちに心理的充足の足しになっているのです。
こうした職場での心理的充足はあまりにも当たり前になっているため、普段はほとんど意識されません。
しかし、リモートワークのような、それらが充たされにくいワークスタイルに急に変わってしまうと、物足りない感じや不安といったかたちで充足の欠落が意識されることになります。
リンク先の文章の筆者であるしんざきさん自身は、
しかしアレですね、皆そんなに会社好きか?
私なんか、なんなら半年くらい自宅にこもって、家で仕事してても全然痛痒を感じないんですが。
今も、タスクの集中さえなければ割と自宅万歳な感じです。
とおっしゃっていますが、こういう人はまだまだ少数派なのではないでしょうか。
しんざきさんはインターネットのベテランなので、回線さえ繋がっていれば全然へっちゃらでしょうし、インターネット慣れている読者の方もそのように感じるやもしれません。
ですが世間には、まだまだ心が回線でつながりきらない人、face to face なやりとりが必要な人、会社という場所が必要な人もまだまだたくさんいます。
そうした、近しいコミュニケーションを必要としている”クラシックな人々”にとって、リモートワークは意外にキツいのではないかと私は想定しています。
リモートワークに限らず、夜の街を歩けなくてがっかりしている人、イベントに参加できないことがフラストレーションになっている人も多いことでしょう。
そうした心理的充足の不足がすぐさま人間を脅かすものではないとしても、長期間にわたればメンタルヘルスにボディーブローのようにきいてくることでしょう。
ソーシャルディスタンスが私たちに与える心理的影響、というより心理的充足が困難になることによる弊害が明らかになるのは、おそらくこれからではないでしょうか。
イタリア人のように歌おう、オンラインでつながろう
それでも、ソーシャルディスタンスに対してなすすべがない、というわけでもありません。
3月中旬、イタリアで急速に感染が広がり、ソーシャルディスタンスが徹底されるようになった時、イタリア人たちがバルコニー越しに歌いあう姿が報道されました。
日常的にハグやキスをするイタリア人にとって、ソーシャルディスタンスによる制約と充足の欠落は、日本人が考える以上に厳しいものかもしれません。
が、彼らは彼らなりに、ソーシャルディスタンスを保ちながら繋がりを維持して、この難局を乗り越えようとしているのがみてとれます。
今日の日本社会では、イタリア人のようにバルコニー越しに歌ったり合奏したりするのは、難しいでしょうけど、オンラインコミュニケーションを用いるのは比較的容易です。
最近はオンラインミーティング用のアプリが話題になり、webカメラのようなオンラインコミュニケーションのツールが売れに売れているそうですが、たいへん健全なことだと思います。
今まではLINEしか使ったことがなかった人も、この機会に、いろいろなオンラインコミュニケーションに挑戦してみるのもいいかもしれませんね。
元来の人間が、群れて毛づくろいコミュニケーションをする生物だったことを思えば、ソーシャルディスタンスという毛づくろいコミュニケーションを封じてしまう状況も、これはこれで長期化すれば私たちのメンタルの重荷になってくるでしょう。
その重荷を軽くするためにさまざまに工夫し、なんとか、この難局を乗り切っていきたいものです。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
(Photo:GoToVan)