距離適性とはなにか

タイトルに「短距離型」と書いた。距離適性についての話である。

距離適性、というのは一般的な言葉だろうか。おれにはよくわからない。

よくわからないので検索エンジンにかけてみるが、おれがいつも競馬のことばかり調べているせいか、競馬のページばかりひっかかる。

 

というわけで、距離適性は主に競馬について使われる言葉だ、ということにしよう。

その意味はというと、見ての通り、距離の、適性だ。

 

競馬を知らない人に少し競馬について教えよう。

馬はいつも同じ距離を走っているわけではない。

ざっくり今の日本の中央競馬の平地競走についていえば、最短の距離は1,000mであり、最長の距離は3,600mだ。

 

平地競走? コース上に障害の置いていないレースのことだ。

今の? 中央? まあ、そのあたりは気にしなくてよろしい。

一応は競馬ファンとして正確性を期したいだけの自己満足だ。

 

まあともかく、馬はいろいろの距離を走る。

そして、馬の個性によって1,000mが得意な馬もいれば、3,600mが得意な馬もいる。

 

これは極端な話で、実際のところ競馬ファンは「この馬が得意なのは1,400mまでなので、1,600mになると厳しいが、今回のメンバーなら……」など、もっと短いレンジで日々頭を悩ませている。

頭を悩ませたところでよく当たるとは限らないのだけれど。

 

いずれにせよ、1,200mで無敵のチャンピオン・ホースがいたとしても、3,000mでは格下の馬にコロッと負けてしまう。そういうものだ。

 

距離のレンジは広がるが、人間だってそうだろう。

全盛期のウサイン・ボルトがマラソンを走っても……いや、結構走れるのかな、でも、ともかく、各国代表クラスに歯が立たないだろう。たぶん。それが距離適性だ。

 

して、前置きが長くなってしまったが、「距離適性」とはそういうものだ。

そしてそれは、肉体的なことに限られることだろうか。

 

頭の距離適性、脳の距離適性、心の距離適性、そんなものもあるんじゃないのか。

いろいろの能力についての距離適性、そんなものが。おれはそう思った。思ったのだからしかたがない。

 

文章を書く距離適性

なんだろうか、それは。たとえば、今、おれは文章を書いている。文章にも距離適性があるはずだ。

 

俳句の十七音でこの世界をずばり切り取り、言い当ててしまう人もいる。

一方で、辞書みたいな分厚い小説や思想書で、世界を作り上げてしまう人もいる。

これについては、競馬や陸上競技と違い、両立できる人はいるかもしれないが。

 

え、タケシバオー? 気になったら検索してくれ。

陸上競技にもいる? じゃあこっそり教えてくれ。

 

まあともかく、文章についても短距離向きと長距離向きがいるんじゃないかという話だ。

あなたも、たとえば小説の読者として、「この小説家は中編の切れ味はすごいが、長編となるとどうも退屈だ」とか、「この人はまさに短編の名手だな」とか思うことはないだろうか。

 

そして、どうでもいい話だが、おれが思うにおれの適正距離は、かなり短いところにあるんじゃないかな、と思う。

人が読んでどう思うかではなく、書く方のことだ。

 

現代の、ネットの、文章として、短いところ。

代表的なのはTwitterの「つぶやき」ということになるだろう。基本、140文字。

 

そして、おれが使っているソーシャル・ブックマーク・サービスとなると、100文字にまで減る。

おれはだいたい仕事をサボ……休憩して100文字の世界であれやこれや書いていることが多い。

ピタッと100文字にすることに快感を覚える。

 

が、ちょっと待ってくれ、さすがにこれはゲームに近い。

短く文章をまとめる練習にはなるかもしれないが、文章というには心もとない。

 

まあ、仕事でちょっぴりコピー・ライティングするのに役立っていはいる。

そうだ、文字に長体をかけたり(意味は調べられたい)するよりは、文章をスマートに削るほうがいい。

 

で、もうちょい長い文章となると、ブログということになるだろうか。

調べてみると、おれは2004年からブログを書いている。算数が苦手なので何年とは言わない。

で、1エントリあたりの平均文字数は……調べられるか、そんなもん。

 

でも、そんなに長くないのは確かだ。

なぜわかるのか。いま、おれがこうして文章を書いているからだ。というわけで、このあたりで。

 

……とはいかない。理由は察してほしい。勘のいい読者は好きだよ。

 

記憶の距離適性

記憶にも距離適性はある。

おれはひどく物覚えが悪い。加齢によるものではない。

子供のころからそうだった。たぶん、そうだ。

 

苦手な数学の公式なども、テスト寸前に公式を見て、覚えた。

テスト開始と同時に問題も見ないで、覚えたばかりのそれを問題用紙に書いた。そんなことばかりしていた。

もちろん、身につくはずがない。

 

予習も嫌いだった。どうせ覚えられないから。

授業中は寝ていることが多かった。

復習もしなかった。べつに覚えていないから。

 

……どうやっておれは高校を卒業したのだろう? 大学の入試を通ったのだろう。

もちろん、夏休みの宿題を計画立ててこなすなんてことはできなかった。いつも、ギリギリだ。

 

趣味でも、だいたい覚えられない。覚えていられない。

たとえば、おれにだって、心のマイベスト小説というものはある。

が、「あらすじを教えてよ?」と言われても言葉に詰まる。詰まって窒息する。

 

ただ、「これはすごい、よかった! 人生の本だ!」ということだけ覚えていて、中身はスコーンと抜け落ちる。

べつにおれが、あらすじがあってないような話ばかりを好むせいでもないだろう。

ストーリーというものが、覚えられないのだ。

 

ストーリーが覚えられないのは、映画でもドラマでも、アニメでも漫画でもだいたい一緒だ。

物語が覚えられない。筋書きが覚えられない。

 

なのでおれは、若いころに一時期はまった新本格ミステリなど、今読み返しても新鮮に驚けるはずだ。

マイベストSFだって、「こんな発想があるとは!」と思うに違いない。

 

フィクションに限った話でもない。

図書館で借りてきた本を読んでいて、「あれ、これは……?」と思って自分のブログを検索してみたら、以前にも借りて読んで感想まで書いていたりする。そんなこともあった。

それは、よりによって脳科学の本だった。ガザニガ先生ごめんなさい。

 

しかし、再読することはない。

覚えてもいないくせに、新しいものを求めてしまう。そのあたりが、ダメなのだ。

身についていないのだから、再読するべきなのだ。

が、どうしてもそれは嫌なのだ。時間の無駄にすら思えてしまう。

 

この性質が、どうもいけない。

そのせいで、おれの中身はいつでも空っぽだ。

空っぽだからって夢を詰め込む年齢でもない。

なんだろうか、人生で積んできたものがない。中身がない。

 

思い出の距離適性

記憶と思い出のなにが違うのか。

まあ、「思い出」の方がちょっとエモいということにしよう。

どこそこに遊びに行ったとか、そこでなにがあったとか、なにを食べたとか……。

 

これも、弱い。

とくに、何年前とか、何歳のときとか言われると、まるでわからない。

時間的なことについては、まったくの空だ。

おれの脳のその箱にはなにも入っていない。

 

これは引きこもっていたことによる「カレンダーの消えた人生」によるところもあるが、どうもそればかりでもないようだ。

 

出来事、エピソード自体は、言われれば思い出す、ということもある。

が、それがいつだったかわからない。順序もわからない。

直截的に「そんなになにも覚えられないのに、生きていて何が楽しいのか」と言われたことすらある。すごい。

 

でも、言われれば思い出すし、なんというのだろうか、細かいものをわりと鮮明に覚えてはいる。

いや、覚えている場合もある、か。

とても短いことだ。短くて、細かい思い出だ。そうだ、短距離の記憶だ。

 

でもって、例にもれず、嫌なことを鮮明に、細かく、きっちり覚えている。

ぼんやりと全体的に嫌な小学校、中学校、高校、大学(中退)時代だったという意識はある。

 

でも、思い出されるのは嫌なことのフラッシュバック。

そして、なぜかいい思い出というのは、無いんだよな。

 

ザクッと主に嫌な瞬間が細かに刻み込まれて、そればかりが頭の中に転がっている。

「あのころはそれなりにいい友人たちがいたな」とか、「それなりに充実してたな」という時期があるのかもしれないが(たぶんある……はず)、そういう中期的、あるいは長期的な記憶というのは、すっかり抜け落ちている。

 

おれは、なんで生きているんだ?

まあ、それを書き留めておくために、日記(ブログ)なんぞを書きつづけているのかもしれない。えらい。

 

短距離適性を活かしたい

しかしなんだろうか、あらゆることについての短絡さ、これをなにかに活かせないものか。

なにせ、100m走が得意ならモテるし(小学生の発想)、競走馬だって短距離で大活躍すればスターホースだ。

 

しかしなあ、なんだろうね、なんかないかね。あんまりないんだよね。

先に書いた、「あっという間に、決められた文字数に短く文章をリライトする」なんてのは、ちょっとした特技だが、ちょっとした特技くらいのものだ。

 

まあしかし、リライト、人の文章に手を入れるのは好きだ。これは短距離に属する。

そこにある文章を並び替える、ぶった切る、単語を入れかえる。

瞬発力に属することだ。なんとなくそう思う。

 

一方で、自分で長い文章を紡いでいくのは、これはちょっとつらい。

たとえおれが大学を「友人ができない。あと、フランス語の活用を覚えられない」という理由で中退していなくても、いずれ論文というものが書けなかったのは確実だろう。

 

そういえば、一年生のころに課せられた海外文学の感想文のようなものの真ん中あたりに、「文中に出てくるセントレジャーを走る馬のように、書いていて途中で疲れてしまった。しかし、まだ課題の文字数に達していないのでひとふんばりしなければならない」というようなふざけたことを書いたら、案外それを名指しで褒められたのを思い出したりする。短距離の思い出だ。

セントレジャー? 勝手に調べてください。

 

おっと、どうやって活かすか、という話だった。

そうだな、たとえば、本でなく絵だ。

絵をパッと記憶するのは苦手じゃない。

展覧会から帰ってきて、タイトルと画家名だけが書かれた目録だけを見れば、部屋のこういうところに配置されていて、絵の内容もかなり思い出すことができる。

 

……なんの役に立つのか。

 

もっとなにかこう。

なんだろうね、そうだ、記憶にとらわれないんだ。

それでいこう。未来志向だ。

 

そういう意味では、おれはある分野では当て感(当て勘……格闘技用語)が悪くないと自分では思っている。

おもに、パソコンやらなんやらの、新しいアプリケーションなりなんなりについて、べつにプログラミングの技術もないのに、初見で「ここをこうやったら、こうなるんじゃないですかね?」みたいに、すいすいと使えてしまう。

新しいガジェットの操作についても、そういうところがある。

 

べつにデジタル・ネイティヴという世代でもないが、なんか、そういうのはある。

……ということにしておいてください。

目の前にものがあれば、なんとかなりそうな気がしないでもない。

 

そうだ、人間、過去を記憶するのが得意な人間もいれば、初見のものに対応する瞬発力がある人間もいる。

とっさの機転だ。人間の多様性万歳。

そう考えてみるのはどうだ。そういうことにしたい。

 

そうだろうか?

 

結局、生きるってのは長距離走なんだ

しかしなんだろうか、おれという人間はあれだな、瞬発力があるというより、短絡的、という方が合っている。

その短絡さによってここまで人生の低いところを生きている。

こんな人間に人生設計やキャリア形成なんて無理だからだ。

 

短絡的というのは、即物的といっていいのかもしれない。

あれがあった、これがあったという「こと」を覚えるのが苦手だ。

小説の筋などというのもそれに当たるかもしれない。

 

一方で、おれは「もの」の方が好きなのかもしれない、と思う。

ものはいい、そこにあるからだ。わかりやすい。だから、即物的。

 

おれが写真撮影を趣味の一つとするのも、現前の景色を「もの」に閉じ込めることができるからかもしれない。

そんでもって、写生は嫌だ、時間がかかる。

写真は短距離走だ。あくまで低次元の趣味としての話だ。

 

ひょっとしたらおれには極めて軽薄な「オブジェ」志向があるのかもしれない。

あるいは、脳の仕組みが即物的だから「もの」が好きなのだ。

ちょっと話が逸れたか。

 

目の前にある「もの」は、好き。

一方で、体系的な知識を持つこと、人生を考えること、計画性をもってことにあたることはどうにも長距離のにおいがする。

なんか苦手だ。それがだめなんだ。

 

とはいえ、おれは好みの銘品に囲まれた貴族的な生活をできるわけでもなく、ただひたすら雑然とした狭いアパートで窮々と生きている。

小説を読んでも、映画を見ても、ちょっとしたら中身を忘れてしまうし、人と思い出を作るのも苦手だ。

 

これがおれという人間だ。

ちょっと、いや、かなり人生に失敗してしまった人間の末路だ。

得意なのはせいぜいとっさの機転といったところで、「とっさの機転検定」があるわけでもない。

 

だれにも証せないし、そもそも本当におれにそういう能力があるかどうかもわからない。

虫みたいなものだ。

ただ、つつかれたら走り出す。へんな液を吐き出すかもしれない。いや、へんな液を出すこともできない。

ひょっとすると、双極性障害(躁鬱病)という、移り変わりの病気がそうさせているのかもしれないが、発症を認められる以前からこうだったので、なんとも言えない。

 

この社会は、長距離とは言えないまでも、中距離くらいをこなす人間に向いて作られている。

体系的に知識を積み重ねることのできる人間。

継続して努力することのできる人間。

ことを覚えていられる人間。

思考があちらこちらに飛び回らず、じっくり考えられる人間。

 

そういう人間が、きちんと人生設計して、きちんと生きることができる。

そうでない人間は、こうなる。

 

おれはおれの短所を抱え込んで、いったいあと何メートル走ればいいのだろう?

ちょっと絶望的な気持ちになる。

その気持ちくらいは、長く心に抱いていられる。

 

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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