大学を中退してひきこもる

おれは二十年まえくらいにひきこもっていた。

大学二年の夏休み明け、どうにも馴染めない学校に、もう行けなくなってしまった。

いや、かなり強く、「もう学校はどうでもいい」となった。

 

今思えば、這いつくばってでも大学に行き、大卒の資格を得るべきだったと思う。

とはいえ、おれはもう幼稚園から始まる集団生活というものに耐えられなくなっていた。

 

そういうわけで、おれはひきこもりになった。

当時はニートという言葉はなかったと思う。

ただ、言葉のイメージするところでは、ひきこもりというよりニートがしっくりくる。

 

べつに部屋のなかから出てこないということもなかった。

親兄弟と話さないということもなかった。

べつに、ふつうに「なんにもしないやつ」として家庭内にいた。

もちろん、親兄弟がどう思っていたかはしらない。

 

そして、親から小遣いをもらって平日の地方競馬などして、ぶらぶらと暮らしていた。

おれの心は実に平安だった。

もちろん、親兄弟がどう思っていたかはしらない。

 

親兄弟、というが、弟も大学に行ったあとにニートになってしまったのだが。

ニートになりやすい血統とか環境ってあるのだろうか。

おれも弟も中高一貫の私学を出て、このざまだ。

 

カレンダーの消えた人生

というわけで、おれは自分の生活を満喫していた。

ただ、気まずくなるということもあった。

テレビのニュースなんかで「現代のひきこもり問題を追う」というような特集が流れたときだ。

 

そのなかで、印象に残っているフレーズがある。

ひきこもり当事者の言葉だった。

あるいは、そういうタイトルの本を出したという話だったかもしれない。

それは、「カレンダーの消えた人生」だった。正確ではないかもしれないが、そう覚えている。

 

実に実感のある言葉だった。

日々、競馬やゲーム、あるいは黎明期のインターネットにただただ時を費やし、盆も正月もない。進級も卒業もない。

 

逆に言えば、それまでどれだけ人生のカレンダー通りに歩いてきたのか、という話にもなる。

決まった歳に進学し、決まった歳に就職する。

盆や正月を休む。それ以外は学校に行く。土日は休み。

 

べつにそれが「型にはまったつまらない生活、人生」と言うつもりはない。

言う資格もない。

ただ、おれはそこから外れてしまったな、という実感だけがただただあった。

 

とはいえ、おれは改心するつもりもなく、この家と土地を相続すれば遊んで生きていけないか、などと人間のクズ的願望をもって、ただただ日々を流していった。

 

グレイトフル・デイズの終わり

そんなおれのグレイトフル・デイズも、親が事業に失敗して終わりを迎えた。

ひきこもろうにも、家がなくなってしまったからだ。

 

そのときのことはよく覚えていない。本当に覚えていない。

おれがどうやって家から出たのか、どうやって引っ越し先を見つけて、どうやって転がり込んだのか。

人間には嫌な記憶を消失させる力があるのかもしれない。

 

記憶が再開するのは、ワンルームのアパートで、洗濯機がなく、ユニットバスで、100円ショップで買った洗濯板で洗濯をしていたあたりだ。

その後、洗濯機を買うことはできた。

洗濯機は便利だ。人類文明にサンクス。

 

ただ、おれが一人暮らしを初めたのは何歳のときだったのか、西暦何年だったのか、おれはまったく把握していない。

そうだ、おれはカレンダーを失っていたのだ。

 

気づいたら

その後、いろいろあって、零細企業に居場所を求め、気づいたらおっさんになっていた。

「気づいたら」というのは、本当に「気づいたら」だ。

ひょっとしたら、順調に学校を卒業して、順調に就職できた人にとってもそうかもしれない。

結婚したり、子供ができたりしても「気づいたら」はあるかもしれない。

 

それは、おれにはわからん。

おれの人生は今のところ一個であって、巻き戻しもできない。

あり得たほかの人生を歩むことはできない。

ま、今のところもなにも、全人類そうなのだけれど。

 

とはいえ、おれの「気づいたら」は、本当に「気づいたら」なんだ、という実感を伝えたい。

べつに仕事の内容は変わらず、新入社員もなく(人を新たに雇う金のない零細企業なのです)、一番の下っ端として二十年近く経ってしまった。

まったく、成長もない。変化もない。

カレンダーだけがめくられていく……。

 

おれは時間の流れというものにまったく疎くなってしまって、さらに言えばなにをしていたかという記憶を留めることにも疎くなってしまった。

つきあっていた女性から「きみはなんにも覚えていないのね」と何度も言われた。

細かな情景を覚えていることはあっても、それが一年前か、二年前か、もっと前か、わからない。覚える気もない。

 

もっとも、2020年に関しては、その数字のきりのよさと、世界が変わってしまった厄災によって、めずらしく記憶に残るかもしれないが……。

 

棒のごとくか円環のごとくか

高浜虚子の有名な句に次のようなものがある。

「去年今年貫く棒の如きもの」

カレンダーがめくられて、今年が去年になり、来年が今年になってしまっても、自分というものは棒のようにつながって途切れてはいない、という意味だろうか。あまり自信はないが、おれはそのように受け取っている。

 

はたして、おれは棒のようなものとしてカレンダーを突き破って生きているのであろうか。

なにか、違うような気もする。

去年も今年もカレンダーを失ってしまっているのだから、貫く棒もないのではないか。

それとも、棒だけがぽつねんとあるのか。

 

カレンダーを失ったおれからすると、時間の流れが棒のようにまっすぐではないような気がする。

時間の流れは円環のように思える。

同じようなものが繰り返されて、大きな変化はない。

大きな変化があっても、やはり時間は同じように繰り返されていく。

 

べつに突飛な意見ではないだろう。

春夏秋冬、この繰り返しの中を人間は過ごしていく。

月というものを繰り返していく。

曜日というものを繰り返していく。

それは円環のようだ。

 

ただ、普通の人にとっては、ばねの表面をなぞるようにぐるぐる回りながら上昇していく。

昨日の自分を捨て、新しい自分になる。

年齢を重ねていく。

経験も増えていくし、能力も上昇する。

 

もちろん、ぐるぐると回りながら落ちていく人もいるだろう。

 

で、おれはどうかというと、たった一つの円環を延々と走っているような気がする。

走っているというか、歩いているというか、這っているというか。

なんの進歩もない。

かといって、いきなり一文無しに戻るような急直下もない。同じところをぐるぐると。

 

それはおれがカレンダーを失ってしまったときに始まったのだと思う。

べつに選んだわけでも、強制されたわけでもない。

なんとなく、そうなってしまった。

そしておれは、無限の円環から抜け出せない。エンドレスエイト。

 

それでも時間は進むのだ

が、時間の方は進んでいるのだ、あなた。

今のところは一方向に進んでいる。

誰が決めたのかしらないが、そういうことになっている。

現実は『テネット』ではない。

 

時間が進むとどうなるのか?

それはおれが人間として老いていくということだ。

こればかりは避けられない。

人類の平均寿命は伸びていることと思うし、昔より老人が健康になっていることとは思うが、老い自体は避けられない。

 

しかし、カレンダーを失ったおれ、人生の道から途中下車したおれには、この老いを受け入れがたく感じている。

受け入れがたく感じていると感じている。

 

だから、四十路をすぎてなお左耳に三つのピアスをして、髪を染めて、スーツを着るでもなく、よくわからないおっさんとして、ずったらずったら伊勢佐木町や寿町を歩いている。

もう、若くはないことはわかっている。

わかっているが、積み重ねてきたものがないので、ひょっとしてまだ成長の余地が残っているのではないか?という妄念がないわけでもない。

 

そんなはず、ないだろう。

おれは、背が低い。学年でも一番のちびだった。

けれど、年齢を重ねれば、人並みに背が高くなると思っていた。

服のサイズもSではなくなるときがくるだろう、と。

 

そんな感覚だけは、今も残っている。

結局、おれは背が低いままだった。

ただ、この頃というと、「ああ、このズボンが履けなくなった」というような、中年の哀しみを味わうことになった。

 

ああ、酷いものよ、時間の流れ。

おれはカレンダーを失ったひきこもりの心地のまま、気づいたらここまで来てしまった。

 

知っているか? 一度ひきこもってしまった人間というのは、まっとうな人間に戻ったように見えても、やっぱり性根にひきこもりの心がある。

アルコール依存症において使われる比喩「一度漬物になってしまったら、生野菜には戻れない」というやつだ。

いや、サンプルはおれ一人だけれど。

 

時間切れのそのときまで

というわけで、自分のなかのカレンダーがなくなろうが、なんだろうが、時間というやつは一方的に、圧倒的に過ぎていく。

そして、その過ぎ方はどんどん加速していく。

 

油断するな、おればかりじゃなく、あなただってそうだ。

ジャネーの法則から自由になれると思うなよ。

二十代のあなた、それなりに早く三十代になってしまうぞ。

三十代のあなた、あっという間に四十代だ。そういうものなんだ。

 

それでも、カレンダーのある人生を送っている人はまだましだろう。

自分の人生のステージを把握し、先を見据え、計画を立てて、老いや死に向かっていける。

 

おれのようなやつ。これは困った。

気づいたら持ち時間を使い切って、秒読みが始まっている。

年齢なりの場数も踏んでいないし、学ぶべき経験もないし、ましてや歴史から何かを学ぶ能もない。

 

ただ、時間は待ってくれない。

待ったなし、それが人生。それがこの世界。

否応なしに秋は冬になり、冬は春になる。

日曜日が終われば暗い月曜日の始まり。

それから抜け出すことはできるのだろうか?

 

おれは、抜け出したいと思う。

馬鹿なことを言っている。

それでも、カレンダーのない身だ。

ちゃんと段階を踏んで生きている人からしたら自由でもある。くだらない負け惜しみだ。

 

それでも、おれは時間の流れから自由な境地に至れないか、そんなことを夢想する。

老いや死から自由になれないか。

あたかもそれがないような自由、無、それはあるのか、ないのか。

 

とまれ、残された時間は長いようで短い。

ひょっとしたら短いようで長いかもしれない。

時間切れで投了するときになって、それがわかるのだろう。

 

そんなことを考えるおれの視界の端に、デジタル時計が無機質に時を刻んでいくのが見える。

一秒、一分、一時間……。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Remco van der meer