国民的衣料品店のセルフレジ
国民的な衣料品店がある。あるだろう。みんな着てるやつだ。
全国津々浦々にあるのかどうか、おれは全国津々浦々を知らないので言えないが、まあ、あんたが思い浮かべた大チェーン店だ。
そこが導入したのがセルフレジだ。
おれにはなんの略かしらないが、RFIDタグというものを用いている。
ごそっと商品を置くと、瞬時に品物の点数と価格が表示される。
決済方法をタッチパネルで選ぶ。
クレジットカードならクレジットカードを突っ込んで決済される。現金を選べば、現金をぶちこんでもいい。
やけに長いレシートが出てくる。
商品を袋に入れるのも自分の仕事だ。
このごろじゃ袋も有料だ。袋がなければ、バッグに突っ込む。
きれいにたたむもたたまないもあんたの勝手だ。
そしてあんたは、なんかこれでいいのかしらん?と思って店を出る。
なれてしまえば、これでいい、と思って店を出る。
国民的コンビニエンス・ストアのセルフレジ
国民的なコンビニエンス・ストアがある。いくつかある。
そのなかでもトップかな?と思ったとき、あんたが思い浮かべたやつが、たぶんそうだ。
おれが金曜の会社帰り、いつものように国民的な夕刊スポーツ紙を買うためにその店に寄った。
そうしたら、なんとレジがひっくり返っていた。
決済方法や現金投入の機械が客側を向いていたのだ。
おれは最大限の警戒をしながら、携帯のなんとかペイを準備して、レジに安ワインと国民的な夕刊スポーツ紙を持っていった。
店員さんはいる。
バーコードをスキャンする。
「あ、袋ください」。
店員さんが商品をスキャンすると、目の前のタッチパネルに決済方法が表示される。
おれは国民的ロボットアニメの(……もうしつこいですか?)のニュータイプのように、自分の決済方法を二段階のボタンを押して選択する。
即座に携帯端末を指定の場所にタッチして決済が終わる。
緊張のなかのひと仕事を終えたおれは、無言で袋を受け取って出口に向かう。
べつにレジにコミュニケーションは求めていないけど
さて、おれはべつにここで、「セルフレジには人間のぬくもりがない」とか、「人と人とのコミュニケーションが失われる」と言うつもりはない。
一方で、店員さんが単純作業から解放されて、より創造的な仕事に取り組めるだろうと言うつもりもない。
もちろん、人間の労働が機械に置き換わることによって生じる経済効果や雇用について論じる能力もない。
けれど、一匹の生活人として、こいつはなんかあるぞ、という思いがある。
なので、上にあげた三つに触れてしまうかもしれない。なんかあるのだから、仕方ない。
なんか、とはなんだろうか。
おれはそのコンビニのレジの人に「どうも」だの「ありがとうございます」だのボソボソ言うこともなくなった。
心のどこかで、なんかおれがあなたたちの仕事をやってるんじゃないのか、と思うようになったからだ。
全自動セルフレジの衣料品店ではなおさらだ。そもそも言う相手がいない。
機械に向かって「はい、どうも」もないだろう。
店を出るときに「ありがとうございました」と声をかけられても、飲食店のように「ごちそうさま」というのもおかしい(ほんとうにおかしい)。
ちょっとした、違いではある。ちょっとした、変化だ。
それでも、なんかあるんじゃないのか、という思いがある。それはなんだろうか。
商品とマネーとその他のなにか
あらためて考えてみよう。
店がある。なんか売っている。それに値札がついている。
おれはそれを買おうと思う。精算するところに持っていく。
場合によってはケースのなかの「これをください」と言う。
おれは金を払う。店員はおれに品物を渡す。
金と、商品の交換だ。
そこに、それ以外になにかあるのか。
なにかがある。
お店の人は「ありがとうございます」というし、客は客で金を払ったのに関わらず「はい、どーも、どーも」みたいな返礼をする。
飲食店だったら「ごちそうさま」と言ったりする。
べつに、しなくてもいい。
でも、まあ、したりもする。
それは、なんなのだろうか。……よくわからない。
いや、店主なり店員さんが、己の食い扶持の足しになる商売を成立してくれた人に感謝の念を表明するのは当然かもしれない。
では、食い扶持を提供した側が「どうも」という理由は。
「それは、人間のコミュニケーションとして当たり前では?」とおっしゃるかもしれない。
というか、おれも今、足らない頭をひねって考えてみて、そんなところじゃねえかと思う。
が、「そんなところ」が失われようとしているわけだ。
セルフレジ、無人レジ。
そりゃまあ、画面に「ありがとうございます」くらい表示されるかもしれないが。
あらためて言うが、おれはべつにここで、「セルフレジには人間のぬくもりがない」とか、「人と人とのコミュニケーションが失われる」と言うつもりはない。
ただ、変化が起こっている、その最中だと思うのだ。その変化とはなんだろうか。
おれに接客の経験はないので
して、思うに、おれは接客の仕事をしたことがない。
衣料品店で、「こちらのトップスには……」とか言ったこともないし、コンビニのレジの向こう側で公共料金の支払いを受け付けたこともない、つゆだくの牛丼を作って「おまたせしました」と言ったこともない。一切ない。
おれに、そちら側の心理を論じるすべはない。想像もできない。
というわけで、一匹の生活人、ということになる。
おれはただ客として、それに立ち向かう。
たとえば、関東最大の鉄道会社の駅に付設されているコンビニの完全無人レジで夕刊スポーツ紙を買うとき、おれはその新聞のバーコードの位置を知っている。
慣れた日本人店員ならなにか端末をピッと押すだけだが、不慣れな外国人店員などが、バーコードをスキャンする姿を見ていたからだ。
滞ってはいけない、戸惑ってはいけない。
すべて機械のように、精確に、決済を済まさなくてはならない。
間違っても、見張っている(?)店員さんがきて、サポートを受けるようなことがあってはならない。
それは恥だし、迷惑だ。後ろに並んでいるほかのお客さんに迷惑だ。店員さんにも迷惑かもしれない。
恥と重圧
恥、迷惑。負の感情が出てきた。
ただ、コンビニでおにぎりを買うのに、そういう感情がついてまわるようになってしまった。
おれは恥をかくのが嫌なので、ひっくり返ったレジで、ほとんど最速じゃないかというくらいのボタンさばきをする。
店員さんが、「この人もコンビニ店員だったことがあるのではないだろうか」と思えるスピードだと自負している。
が、おれはそれが少ししんどい。
たぶん、店員さんが決済方法を選択して、「タッチおねがいします」というより早い。すごく早い。
早くしなくてはならないという重圧があって、それを遂行する。
結果、早くレジが終わる。でも、少ししんどい。
人生というものから見たら、ほんのわずかなちっぽけな重圧。
そして、ほんのわずかなちっぽけな技術。
それがなんだというのか。なんだろうか。
できない人も、いる。いるはずだ。
というか、セルフでないレジで、こちらが「なんとかペイで」と言っているのに、別のペイのボタンを押してしまう店員さんもいる。
「あ、ちがうのが光ってますよ」とか言う。そんなこともある。
べつに、おれはそれに対して怒り狂ったりしない。不快に思ったりしない。
ほとんど無感情。そんなこともあるだろう、と思う。冷静に指摘するだけだ。
なのに、自分ごととなると、どうしてあんなに重圧を感じるのだろうな。
あ、さっき「ちっぽけ」って書いたけど、実のところ内心バクバクです。
ちっぽけな自分のちっぽけな感情は、緊張がとまらない。病気なのか。病気かもしれない。
でも、多かれ少なかれ、皆様におかれましても、セルフレジで「ミスってはいけない」という緊張感はありませんでしょうか。
たぶんあるだろ? あるよな? あってくれ。……って、なんで懇願しているのかわからないけれど。
というわけで、レジがひっくり返って回転した世界において、客が恥と重圧を背負うということがわかった。
わかったといったらわかったのだ。
ならば、いままで、その恥と重圧を店員が背負っていたのか。そうなのかもしれない。
コンビニで間違ったタバコを持ってきて「それじゃねーよ!」と怒鳴られたりすることもあったかもしれない。
もっとも、それをいちいち引きずるのか、一日に何百人もの客を相手にしていたら、気にもならなくなるのか。
そのあたりは、先に述べたように経験がないのでわからない。
客が背負わなくてはならないもの
なにも、客が背負わなくてはならなくなったものは、心理面だけではない。
先の服屋でいえば、タッチパネルで袋を買うかどうかからはじまり、買った服を畳むのもこちらの仕事になった。
そこには、経済というか商売の面もあるだろう。
レジに人間を並べておくより、機械が安上がりだ。
いちいち店員が服をきれいに畳むことによるレジ行列の遅延をなくし、客の回転がよくなる(行列を厭うて店を去ることがなくなる)……など。
そして、店員の数は減らしてもよくなる。
減った人件費で、服の値段を安くできる。
あるいは、現状を維持できる。
われわれが労働を肩代わりするぶん、ものを安いままにすることができる。
それは、いいことなのか、どうなのか。
雇用が減ることはいいことなのか、悪いことなのか。
正直、本当にわからない。
給料も上がって、物価も上がっていくこと、あるいは物価も上がるが、給料も上がっていくことが望ましい経済発展だということは、おぼろげながらわかっているが、では、安い方へ向かう、安い方に固定されるのはいいことなのかどうか。
どうにもよくわからない。
セルフレジの導入によって職を失う人、あるいはその職には就いていなかったが、いずれ就く可能性があったという人。
その人たちの居場所がなくなる。
「そんなことは昔もあった。馬車がなくなっても、馭者は新しく生まれた職種で得たのだ」という声も聞こえてきそうだ。ラッダイト運動なんて無意味だ、と。
そうなのかもしれない。
コンビニでホットスナックを加熱する仕事をしている人が、優秀なプログラマーとして高給を得る可能性もあるだろうし、安いのに高機能なシャツを畳んで袋に入れていた人がデータサイエンティストとして国際的な活躍をするかもしれない。
セルフレジを開発・修理するエンジニアになるかもしれない。
……そうなのか?
それがないとは言わない。
言わないが、その可能性は低くないか。
そして、その席は少なくないか。服屋のレジより、コンビニのレジより。
要するに、もう人間は不要なのかもしれない。
もうちょっと丁寧にいえば、これだけの数の人間は。
おれとレジ、二人いたのが、おれと機械の協働によって、一人で済んでしまう。
人間はおおよそ半分でいい。そうなるかもしれない。
あらゆる職が機械にとってかわられる。
四角い箱を背負って他人の食べ物を運ぶために自転車を漕ぐ人たちも、ドローンにとってかわられるかもしれない。
戦闘機を操縦して敵機を撃墜する仕事も、無人機にとってかわられるかもしれない。
となると、人間、自分が食うものを、畑を耕し、海に釣り糸を垂らし、そうやって得ながら生きていくしかないのか。
それも悪くないのだが。
こんにちはも、さようならも、ありがとうも言わなくなって
というわけで、農業と物々交換に立ち返るまでの間(既定路線なの?)、われわれはこんにちはも、さようならも、ありがとうも言わなくなって生きることになる。
すれちがって生きていく。
……と、ここにきて二つぶっこむけれど、もう、客としてありがとうも言わなくなってることって、とっくにあるじゃないか。
自動販売機、そしてネット通販。
しゃべる自販機もあるだろうし、ネット通販で買い物をすればお礼の文字列が画面にならぶ。
もう、おれたちは、慣れっこだったんじゃあないのか。そういう気もする。
もちろん、その向うには、自販機に商品を補充する人も、商品を梱包して発送する人もいる。
しかし、買い物の場において、客一人、店員なし。慣れているはずだった。
それが、ちょっと違う場、店員さんがいて当たり前の場でもそうなっていく。そういうことなのか?
そうなったとき、社会はどうなるのか。
コミュニケーションはどうなるのか。
雇用はどうなるのか。
経済はどうなるのか。
おれが生きている間にその答えは見られるのか。
おれはあまり自分が長生きしない方にベットして生きているのだが、これについてはいくらか見ることができるような気がする。
日本で一番大きな服屋がそうしたなら、二番目に大きな服屋もそうするだろうし、日本で一番のコンビニがそうすれば、二番目もそうするだろう。そうなっていくのだ。
そうなっていって、かろうじておれが発していたコンビニ店員への「どうも」も言わなくなって、いや、言う機会が失われて、いったい社会はどんなふうになるのだろうか。
人と人とのつきあいというものは、SNSの中に限定されるのだろうか。
興味は尽きない。いや、興味があろうとなかろうと、そういう世界の中で生きていくことになる。それだけだ。
ただ、そのとき、おれやあんたの職があるかどうかもわからないのだけれど。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
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