最近、本を読むことについての論が時々掲載されている。

そのなかでも、雨宮紫苑さんの4月13日の「「頭を使わなくてもいい本」がどんどん増えている気がする」という稿にはいろいろと考えさせられた。

以下、それに触発されて考えたことを少し書いてみたい。

 

雨宮さんは、「本をよむ」というのは、⦅著者の知識や経験を知ることで何かの気づきが得られる》とか、《小説やエッセイや詩集を読んで、作者の作った世界に浸る》ことなのだと自分では思っているが、最近、単なるネットの記事を集めただけの本であるとか、まったく平板なマンガやライトノベルのようなものがどんどん増えてきているのをみて、これはちょっと困った事態なのではないかということを述べられている。

以下書くことは基本的にその論に沿うものとなっていくと思うが、微妙に異なるとところもでてくると思う。

 

まず自分のことを紹介しておくと、来年、後期高齢者入りする人間で、マンガもライトノベルも読んだことがない。

鬼滅の刃もエヴァンゲリオンも名前を知っているだけで、ゲームもほぼしたことがない。

フェイスブックもツイッターもやっていない。

 

ただ本を読んだり、音楽を聴いたり(それもクラシック音楽)しているだけという、かつての教養主義の尻尾を濃厚にひきずっている人間である。

だから、以下、いくつかの分野をほとんど知らない人間の偏見を濃厚に含んだものになっていると思う。

 

まず、読書とは一人でするものであると思っている。

読書会などというのは、読書とはまったく違う行為であると信じている。

本を読むのは、自分だけの《世界への見方》(最近、「世界観」という言葉をあちこちでみるが、そんな大袈裟なものではなく、世界の手触りというか感触のようなものを作り上げていくためのものだと思っている。

 

一方、マンガやラノベを読むひとでは、多くのひとが読んでいる本を自分も読んだということを通じて、ある種の共同体(「毀滅の刃」を読んだひと共同体?)に自分も参加したという仲間意識を持てるようになれることが、読書の大きな目標になっているのかもしれない。

 

「エヴァンゲリオン」は、破滅の危機に瀕した世界を少年少女達が救うという話のようで(間違っていたらごめんなさい)、こういう想定はラノベなどでも多くみられるらしい。

 

「ハリー・ポッター」をラノベというと怒るひとがでてくるだろうが、現実社会でみたされず不全感を抱えて生きているひとが、この主人公たちに感情移入をし、一時は自分が世界の運命を左右できる人間になったような充実感をえられるというのがこういう物語が存在する最大の理由なのではないかと思っている。

ラノベを読むだけでは満足できなくなったひとはこういう方面にむかうのかもしれない。

 

村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」「海辺のカフカ」「1Q84」なども、こういう世界観というのだろうかと通底するところがあるとわたくしは思っている。

 

しかし、それが安直なラノベにならないのは、氏が「神の子どもたちはみな踊る」や「東京奇譚集」をもまた書くひとであるからなのであろう。

 

仕事で必要にかられて読む本はここでは本ではないとする。

医者であるわたくしが、医学関係の本を読んでも、それは読書ではない。

ついでに、電子書籍を読むのも読書の定義から外す。その理由は後で書く。

 

仕事のやりかたなどを論じた本はどうだろうか?

たとえばここで時々論じられるドラッカーの著作などである。

 

ドラッカーも神様ではないのだから、その書いていることを実践してもうまくいかないこともたくさんあるに違いない。

その場合、それを読んで騙されたと怒るひとがいるだろうか?

そういう人もいるだろうが、ドラッカーの著作を読むのは、わたくしにとっては明白に読書の体験である。

氏の歴史意識にふれ、それこそ世界観にふれ、氏と対話するという体験だからである。

 

氏の本で、圧倒的に面白かったのは「傍観者の時代」で、次に「経済人の終わり」「ポスト資本主義社会」であろうか?

 

「イノベーションと企業家精神」といったほうはどうも苦手である。

 

半自伝である「傍観者の時代」ではフロイトを目撃したウイーンでの幼少時代から稿を始めている。

わたくしはアメリカにはほとんど関心がなく、もっぱらヨーロッパに関心が集中している片寄った人間である。

第一次世界大戦から第二次世界大戦の間のウイーン、ブダペスト、ハンブルグ、ケンブリッジなどで生まれた知的な遺産の周辺にずっと関心をもち、惹かれ続けている。

 

わたくしがドラッカーに感じる懐の深さというのは第一次世界大戦前後から第二次世界大戦までのヨーロッパで開花した(あるいは爛熟した)文明とそこで育くまれたものを身につけて、それを背景にアメリカでも活躍した人間の厚みなのだろうと思う。

 

一方、「昔だったら本を読まなかった人」に向けた出版物も確実に増えてきている。

結果として「すらすらと読めて頭を使わなくてもいい本」が増えてきているように見えるということもあるだろうと思う。

 

今、ネットのコメント欄をみていても、特に投稿するまでもないのにと思う平凡な見解が圧倒的に多い。

そこでは、「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」(ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」)というようなことは念頭にもなく、そもそも語りえないことなどないと思っているかもしれないわけで、何についてでもぺらぺらと語ってしまう。

 

ネットの黎明期の2006年に梅田望夫さんが「ウエブ進化論」(ちくま新書)を書いて、《ネットに投じられている玉石混交の膨大なコンテンツから「玉」を瞬時に選び出す技術が出来て、今までは埋もれていた、これまでは発信してこなかった面白い人たちの意見やものの見方が世に伝わる仕組みができて来たこと》に明るい未来を展望していたが、実際には膨大な石がお互いに非難しあったり、少数の玉を罵倒するような殺伐とした世界にネット世界がなっていったことに絶望して、この世界についての意見を述べることから手を引いてしまった。

 

そういう現在のネット社会では、ヴィトゲンシュタイン後期の「哲学探究」07章の「ザラザラした大地へ戻れ!」という方向もまた、ほとんどないわけである。

世界はすべすべとしている。

 

以下、話がさらに些末になっていくことをお詫びするが、これからヴィトゲンシュタインについて書くことのほとんどは、清水幾太郎氏の「倫理学ノート(岩波書店 1972)」によっている。

この「倫理学ノート」からは他にも非常に多くのことを教えられたが、その一つがムアという風変わりな人物とその著書「倫理学原理」である。

 

「倫理学ノート」の第一章は「ケインズ、ロレンス、ムア」と題されている。

そこでの記述を見るかぎり、「倫理学原理」はまったく無味乾燥な本としか思えない。

 

ムアは現在の哲学の主流である分析哲学の開祖とされているらしいが、最近の哲学書の異様なくらいのつまらなさの原因の一端がそれで理解できるように思えた。要するに頭だけ。

清水氏はそれを生命のない世界と呼んでいる。

この当時のケインズはまた完全にムアの側の人、頭の人である。

彼等の属したいわゆるブルームズベリ・グループは今なら“上級国民”といわれるような人たちで、世間を上から目線で見下す、困ったお坊ちゃまお嬢様方でもあったわけである。

 

一方のロレンスは炭鉱夫の倅、文字通りの下層階級の出で、血とミスティシズムの人、ムアと真逆の人である。

とにかくその言っていることは滅茶苦茶で、たとえば「無意識の幻想」(南雲堂 1966年)から引けば、「我々の根源意識の座は、太陽叢、すなわち胃の背後に位置する大いなる神経中枢である。」 医療者としてはこんなことを言われても困る。

 

しかしそれでも何かそこには真っ当なものがある。

それはロレンスが頭の人ではないからで(つまり太陽神経叢の人)、「蒼白きインテリ・・・つまり頭の人」の正反対に位置する人だからである。

ロレンスのようなひとは本来なら本とは無縁の人であるはずなのだが、どういうわけかロレンスは抜群の知性をも備えていたので、詩や小説や評論を次々と書いた。

 

ロレンスには彼が生きた時代は根っこのところから腐っているとしか思えなかったので、それを告発するために、書かずにはいられなかったのである。

現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受け入れようとしないのである。大災害が起り、われわれは廃墟の真っただなかにあって、新しい棲息地を作り、新しいささやかな希望をいだこうとしている。それはかなり困難な仕事である。いまや未来に向かって進むなだらかな道は一つもないから、われわれは遠まわりをしたり、障害物を越えて這いあがったりする。いかなる災害が起ったにせよわれわれは生きなければならないのだ。

「チャタレイ夫人の恋人」の巻頭である。

ロレンスは第一次世界大戦後のヨーロッパを念頭にこれを書いているのだが、今われわれが生きているコロナの時代を描写していると思うひともいるかもしれない。

 

われわれは今「どうしたらいいのか」ということについて喧々諤々と議論をしている。

しかし「どうしたらいいのか?」という問いがたてられるのは、何か解決策があるはずということを暗黙の前提にしている。

「何の解決策もない。どうしようもない、われわれは快刀乱麻を断つような対応策などは何も持っていない。だから、その場その場でとりあえず起きてきていることに対応していくしかない」というようなポパー的な回答は想定されていない。

 

一方、ムアの友人でもあったらしく、またポパーとの喧嘩?(エドモンズら「ポパーとウイトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎」ちくま学芸文庫 2016年)でも知られているヴィトゲンシュタインは第一次大戦後に生前唯一出版された「論理哲学論考」を世に問うている。

 

「世界は実情であることがらの全てである。」「実情であること、即ち事実とは、諸事実の存立である。」 「事実の論理像が思想である」「思想とは有意義な命題である」「命題は要素命題の真理関数である」などというわたくしにはまったくちんぷんかんぷんのことが書いてあるのだが、その最後には例の有名な「話をすることが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」がある。

 

これも今のコロナの時代をいっているとも思えるが、わたくしからみれば浮世離れしたというか、頭でっかちとしかいいようのない本である。

しかし、この本は当時の哲学界を震撼させたのだそうである。

自分では哲学の問題はすべて解決してしまったと思ったヴィトゲンシュタインは、その後は小学校の先生をしていたのだが、そこでの体験から考えを変え、後期の「哲学探究」の方へと舵をきっていったと清水氏はいう。

 

「哲学探究」では「私たちは進みたいと思う。それには摩擦が必要なのだ。ザラザラした大地に戻ろう!」といっていることを清水氏は指摘している。

難解で知られるヴィトゲンシュタインの哲学であるから、清水氏がいっていることの正否を判断することはわたくしには到底できないが、それでもこの「ザラザラした大地」というのはとても大事な言葉なのだと思う。

 

30分で読める本というのはまったくすべすべしていてひっかかりがない。

そういう本というのは読んでもあとに残るものがなにもない。

 

雨宮さんが「作者の作った世界に浸る」ということについて述べているのを読んで、内田樹さんが「村上春樹にご用心」(アルテスパブリッシング 2007)のなかで、太宰治の「桜桃」についていろいろ書いていたことを思い出した。

「子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。」がその冒頭であるが、この文章の真ん中にある「何」を問題にしている。

 

内田氏は、ここに「何」が入ってくるだけで、文章が一変してしまうという。

この「何」があることで、この文は著者の独白ではなく読者をも巻き込む、読者との応答の文へと変わるという。

内田さんはその変貌を「交話的メッセージ」への変化と呼んでいる。

「ねえ、読者諸氏よ! あなた方もそう思うでしょうけれど」という呼びかけの文へと変わるというのである。その機能がこの「何」にはあるという。

 

だが、あまり本を読みなれていないひとが「桜桃」を読むと、「何」を読み落としてしまうかもしれない。

単に意見を述べている文章と、あることについて読み手と会話を試みている文章の区別がつかないことになる。

 

平板で抵抗のない文と、読者との交流がある「ザラザラした文」の区別がつかない。

雨宮さんが感じているのは、最近は、読者との交話を求めない、ただ淡々と著者が事実と思うことの叙述に終始している「スベスベした本」が増えてきているということなのではないかと思う。

そういう本は抵抗がなく、読むには特に頭を使わなくてもよいから、あっという間に読める。

 

詩人の荒川洋治さんに「文学は実学である」というとても強い文がある。

この世をふかく、ゆたかに生きたい。そんな望みをもつ人になりかわって、才覚に恵まれた人が鮮やかな文や鋭いことばを駆使して、ほんとうの現実を開示してみせる。それが文学のはたらきである。

だがこの目に見える現実だけが現実であると思う人たちがふえ、漱石や鴎外が教科書から消えるとなると、文学の重みを感じとるのは容易ではない。

文学は空理、空論。経済の時代なので、肩身がせまい。たのみの大学は「文学」の名を看板から外し、・・・文学の魅力をおしえない、語ろうとしない。

文学は、経済学、法律学、医学、工学などと同じように「実学」なのである。・・・(文学作品を)知ると知らないでは人生がまるきりちがったものになる。」

荒川さんはそう主張する。(「文芸時評という感想」木魂社2005年 最近では「文学は実学である」みすず書房2020年)

 

荒川さんのように強い言葉で文学を擁護する人は文学者でも最近ではめったにみなくなっているけれども、「目に見える現実だけが現実であるであると思う人たちがふえて」きているのは事実で、だから荒川さんが孤軍奮闘することになる。

ミラン・クンデラは「小説の技法」(岩波文庫 2016)で、笑うことがなく、ユーモアのセンスに欠ける人を指すアジェラスト(苦虫族)という言葉を紹介し、そういうアジェラストこそが小説の敵であると言っている。

 

本を読むひとは、世界には実に様々なものの見方考えかたがあることを知っているので、人が一生で知ることができることはそのほんの片鱗でしかないこともよく理解している。

だから、何かを知っても自分の世界がほんの少し広がったと思うだけである。

 

雨宮さんもおそらくその一人であるような「本をよむ」側の人には、単なるネットの記事を集めたような本や、まったく平板なマンガやライトノベルで満足してしまう人や「「アジェラスト」には共感できない。

しかし、「本を読む人」が現実の世界、実業の世界では必ずしも有能であるとは限らないし、「世界を単純にみる人」のほうが仕事を迷うことなく遂行できるということもあるかもしれない。

 

文科系と理科系の人間は昔からお互いを馬鹿にしあって来ている(C.P.スノー 「二つの文化と科学革命」みすず書房 1960年)。

文科系は理科系の人間を人の気持ちも理解できないロボットであると軽蔑し、理科系は文科系を日進月歩で積み重なってきている科学的知見についていけない時代遅れの人間と憐れむ。

 

わたくしは自分が理科系なのか文科系なのか自分でもよくわからないが、文科系の本を読んでしばしば感じるのが、進化についての初歩的な理解さえあれば、いくらなんでもこんなことは書かないだろうということである。

もちろん、進化を論じるひとも決して一枚岩ではなく、例えばドーキンスとS・J・グールドではまったく肌合いが違う。

 

わたくしから見るとドーキンスは理科系秀才だがアジェラストで文科系の感受性をあまり持ち合わせていない。

で、少しでもユーモアを解する人なら絶対に書かないような「神は妄想である」(早川書房 2007)といった本を書く。

 

一方のグールドは理科系・文科系双方に豊かな感受性を持つ人だが、理科系の知見のみで突き進むと、われわれが膨大な年月をかけて積みあげてきた倫理感や道徳観をこわしてしまうのではないかという懸念を強く抱いていて、それで時々(わたくしから見ると)とんでもない本も書く。(「神と科学は共存できるか?」日経BP 2007))

 

さらにその両者の中間には、昆虫少年がそのまま大人になったようなE・O・ウイルソンもいて、あっけらかんと人間も動物にふくめる「社会生物学」という大著を書いて、大論争(社会生物学論争)に巻き込まれた。

 

面白いのは上の論争や対決の根にあるのは「神」あるいは「宗教」をめぐるものであることで、いまだにキリスト教の影は欧米(特にアメリカ)に色濃く残っていて、科学が自立して科学であることを許さないということである。

 

それに対して日本の生物学者たちはこの論争については常に局外にいて、ほとんど何の関心もしめさなかった。

西欧にはまだ色濃く残っているキリスト教の影が日本の科学の世界では(幸いなことに)ほぼ絶無であるからであろう。(日本というのは不思議な国で、万世一系の天皇制と進化論が平気で共存してきた。)

 

生物学から人間を見るやりかたはまだまだ歴史が浅いから、ギリシャ・ローマ以降の膨大な蓄積を持つ人文系の人から見ると、ちゃんちゃらおかしい単純な知見に見えるわけで、ドーキンスなどはT・イーグルトンからいいようにからかわれている。(「宗教とは何か」青土社 2010年)

 

精神医学が理科系であるかは微妙であるが、人文系の人には、いまだに精神医学というとフロイトあるいはユングという人も多く、これもちょっと困ったことだと思っている。

「進化論が30分でわかる本」などというのがあるのかどうかしらないけれど、世の中には30分ではなかなか言い尽くせないこともたくさんある。

 

わたくしにとっての読書の最大の楽しみは、ある本を読んでいて、「あ! これは以前読んだ〇〇さんの☓☓という本に書いてあったことと関係があるのではないか?」という極めて漠然とした「気づき」というか、ほとんど体感に近いものが生じる瞬間である。

 

しかしその《感覚》というのは曰く言い難いきわめて漠然とした淡い何かであり、ほとんど身体感覚ともいうべき微妙なものなので、ほっておけばすぐに消えてしまう。

したがってすぐにでもその〇〇さんのⅩⅩという本を読み返さなくてはならない。

明日、図書館にいって確かめようと思っても、その時にはすでにその身体的な感覚は失われてしまっている。

だから、読み終わった本も捨てずにとっておかなければならないことになる。

 

本を読む最大の楽しみは、自分ひとりだけの《本と本との相関図》が頭のなかで(あるいは体の中で)できてくることである。

そうすると、一見するとまったく関係ないと思われる本が隣同士に並んでいる自分だけの独自の本棚がきてくることになる。

だが、そのためには本を身近に置いておくスペースの確保が必須となる。

 

本を読む楽しみを享受するために一番に必要なのは、読んだ本(あるいは買っただけでまだ読んでいない本でも)をおさめておくスペースを確保することである。

しかし、本というはとても嵩張るものなので、それが難しい。

 

わたくしだけのことで一般化はできないと思うが、電子書籍で読むと、このような微妙な身体感覚がどういうわけか、まず生じてくることがない。

まったく非科学的なはなしであるが、わたくしの場合はそうである。

電子書籍なら本棚確保スペースの問題がなくなると思って、キンドル発売早々飛びついて買って1年くらいは使ってみたのだが、結局使わなくなってしまった。

 

友達が多い社交的な人は本などよまなくてもいいのかも知れない。

非社交的で友達付き合いは苦手という人が本を読むことになるのかもしれない。

本ばかり読んでいると、現実の世界への感覚が乏しくなるということも十分ありえることである。

 

わたくしは花々にも動物たちにもいたって関心が乏しい人間だが、世の中には、実に多くの花や鳥をあっという間にみわけて識別でき、それらを愛でてやまない人もいる(どういうわけか圧倒的に女性に多いような気がする、しかしロレンスもそういう人だった)。

そういう人はわたくしとはおそらく別世界の人である。

わたくしの自然への無関心が本を読んだために生じたとは必ずしも言えないかもしれないが(むしろ男女の脳の差である可能性が高いようにも思うが)、わたくしが多く持つコンプレックスの一つとなっている。

 

『本とは繰り返し読める本のことである』そう定義すれば、雨宮さんがいう「単なるネットの記事を集めただけの本とか、まったく平板なマンガやライトノベル」は、繰り返して読むには堪えないのだから。

そもそも本ではないことになる。

 

とはいっても、現在、どこの出版社も経営は火の車で、そういう出版社がなんとか持っているのはただただマンガとかラノベの売り上げによるらしい。

であるならば、わたくしにとっても、マンガとかラノベが売れるのは大いに歓迎ということになる。

 

わたくしは、本とは繰り返し読める本のことでもあると思っているが、一方で、一回で読み捨てにする本であっても、マンガのシリーズ本を全巻そろえてそれを眺めるのが無上の楽しみという人また多くいるはずである。

とすれば、両者が共存共栄していけば、それでいいようにも感じる。

 

列車に乗るとすぐに本を読み始め、車窓の景色にはまったく無関心というひとがいる。

すぐに会社の書類のチェックをはじめるひともいる。

スマホのゲームをはじめるひともいる。

だが、一切、そういうことをせず、ただ社外の景色を眺めて少しも飽きないというひともいる。

実はそういう人が一番豊かな人生を送っているという可能性も十分にあるだろうと思う。

 

さらに「新しい御馳走の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである」(ブリア・サバラン『美味礼讃』)ということもある。

 

サバランさんはあなたが普段どんなものを食べているかを教えてくれれば、あなたがどんな人間かを当ててみせる、といっているらしい。

わたくしなどきわめて情けない人間に分類されるであろうと思う。

 

しかし本を読む人である渡部昇一さんは、誰だったかの「あなたの蔵書をみせたまえ、あなたがどんな人間かをあててみせよう」といった言葉をたしか「知的生活の方法」(1976年 講談社現代新書)で紹介している。(この本の後の方に様々な書斎、書庫の設計図が紹介されている。わたくしのような本の置き場に窮している人間には垂涎の的である。)

しかし、わたくしの根拠のない想像であるが、渡部さんは、グルメの方面にはいたって不調法だったのではないかと思う。

 

一生を呑んで食べて恋をして面白おかしく過ごすのと(その例として、タレイラン? ダフ・クーパー「タレイラン評伝」 中公文庫 1979)、額に皴をよせて難しい顔をして本を読んで過ごすのと(カント?)どちらが幸せか?

 

多くのひとがその両方はもちろん、片方さえできないまま生涯をおえるのだろうと思う。

その中で少しは本を読めてきたことは、まあまあの人生を過ごしてきたのかなと自分では思っている。

他人からは負け惜しみといわれるだろうとは思うが。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:jmiyaza

人生最大の体験が学園紛争に遭遇したことという団塊の世代の一員。

2001年刊の野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされてブログのようなものを始め、以後、細々と続いて今日にいたる。内容はその時々に自分が何を考えていたかの備忘が中心。

ブログ:jmiyazaの日記(日々平安録2)