反出生主義者は考える

おれは反出生主義者を自称している。

べつに「反出生主義検定試験」があって、「あなたは2級に合格しました」という話もないのだから、自称も他称もないのだろうが。

 

そんな反出生主義者のおれではあるが、日々、「反出生主義とはなんだろうか」と考えている。

本当に毎日? と、問われると、「いや、今日は『イジらないで、長瀞さん』のことばかり考えていました」ということもあるかもしれない。

こんなところで自分の趣味を晒すこともない。

 

それでも、考えている。

とくに、反出生主義に反対する意見を見たりすると、「ああ、そういうことではないのだけれど」と思うときに、よく考える。

もちろん、おれはだれか師匠について反出生主義の流派に属しているわけでもないので、「それは違うのだ」と言い切ることもできない。

どこか歯切れが悪くなることもある。

 

それでもおれは、その日のおれなりに考えていることを書くこともあるし、押し黙ることもある。

押し黙ってなにが悪いのだろうか。

べつにおれは政策決定者でもなければ、なんらかの指導者でもない。

コロナ禍で仕事がなくなりそうな底辺のおっさん高卒サラリーマンにすぎない。

 

とはいえ、反出生主義はいくらか世に知れてきた言葉であろうし、おれとしてはこの今の人間社会にとって重要な意味を持つと考える。

だから、ちょっと現時点での課題のようなものを書き留めておきたい。

 

反出生主義は二つに分けるべきか

森岡正博という人が『生まれてこないほうが良かったのか? 生命の哲学へ!』という本を出した。

本邦の日本人による反出生主義に関するはじめての単著かもしれない(「ユリイカ」の特集はあった)。

 

おれは、この本の、森岡さんの考え方にあまり賛同するところはなかった。

なんか、違うんだよな、という思いが強かった。

べつに反出生主義に反対する意見が述べられているから、というわけではなかった。

なにか、おれの考えている反出生主義と主に扱っているものが違うな、という気がしたのだ。

 

が、今になって振り返ると、森岡さんが主に取り扱いたかったものと、おれが日頃考えていることは、ぜんぜん別のものかもしれないのだ。

 

森岡さんは反出生主義を二つに分けた。

本書では、反出生主義のうち、自分が生まれてきたことを否定する思想を「誕生否定」と呼び、人間を新たに生み出すことを否定する思想を「出産否定」と呼ぶことにしたい。

この二つは密接に結びついているが、私が本書で重点的に検討してみたいのは是者の「誕生否定」の思想についてである。すなわち、「私は生まれてこないほうが良かった」という考え方である。p.14

おれが自分で気づき、「この考えはありではないか」と思ったのは「出産否定」の方なのである。

森岡さんが「重点的に検討したい」という「誕生否定」については、あまり重きを置かないのである。

 

というのも、「私は生まれてこないほうが良かった」という考え、心理、心情、気持ちは、あくまで「私」の問題であって、主義的なものだろうかというところがあるのである。

突き放しているように感じられるかもしれないが、「私は生まれてこないほうが良かった」というのは、あくまで「あなた」のものでしょう、ということだ。あるいは、あくまで「おれ」のものでしょう、と。

 

と、ここで問題になるのは、「人間を新たに生み出さないほうがよい」という考え方は、「私は生まれてこないほうがよかった」と考える人間に、より多く発想されるのではないか、ということだ。

 

なるほど、考えてみると「密接」だ。

おれにしたってそうである。

もしもおれが、いろいろの条件に恵まれ、それなりに幸せな人生を送っていると自分で心底感じているならば、「これ以上新たな人間を生み出して、新たな不幸を増やさないほうがいい」と考えなかったかもしれない。

 

おれがおれについて不幸を感じていなかったら、シオランに行き着かなかったかもしれないし、べネターの本を読むこともなかったかもしれない。

この不幸への予測、ベットは、不幸な人間と自らをみなす人間によって行われる、特有なものかもしれない。

そうであるとすると、そうではない人間に、反出生主義は届かないかもしれない。要検討、だ。

 

優生思想との隣接について

また、べつに悩むこともある。

優生思想と反出生主義の隣接である。

 

これを混同、混合している人もいるが、それは違うと言いたい。

反出生主義は「あらゆる新しい誕生」を否定するのである。

おれは冗談で「人生を三回くらい遊んで暮らせる資産を残せるならば、子供を生んでもよい」などと言うこともあるが、基本的にはすべてアウトだ。

 

それは、いくら金銭的な資産に恵まれていても不幸というものは避けられないものであるということによる。

お金があっても生の苦しみから逃げ勝てるとは言い難い。

おれが問題にしたいのは、生そのものの苦なのだ。

 

で、この問題で出てくるのは、たとえばこういう話だ。

「出生前診断で障害を持つとわかった胎児を堕胎してよいのかどうか」。

これは難しい。

 

もしも、「障害による苦が明らかであるならば堕胎するべきである」と言ってしまうと、優生思想に寄与してしまう可能性がある。

そうではないのだ。

すべての人類の生産を止めるべきなのだ……。

 

だが、もし現実にそういう立場の妊婦から問われたら、どう答えるべきだろうか?

おれにはちょっとわからない。

わからない理由は、上に書いた理由のほかに、「どこからが人間なのか?」という問いに対する答えを持っていないからだ。

 

このあたりはおれの勉強不足、認識不足といっていい。

どこから人間なのか。受精卵? 妊娠何ヶ月の胎児?

これはおれの不勉強だ。

 

反出生主義を離れて、堕胎の問題についていろいろな立場、見解があるであろうことは知っている。

だが、そこを追究しなくてはならない。

反出生主義は優生思想では「ない」のだ。だから、これも要検討だ。

 

「安楽死」との隣接について

反出生主義について唱えると、「だったらてめえが勝手にとっとと死ねばいい」という意見が述べられることもある。

それは違う、と言いたい。

が、「誕生否定」の立場になると、避けて通れない問題のようにも思える。

 

おれは当初、「人間には自殺する自由もあるのだから、べつに自死の制度など必要ないのではないか」と思っていた。

が、人間、自死するにも一筋縄にはいかない。

生きるのにも苦労する一方で、死ぬのもたいへんだ。

自死には失敗がつきものだし、より思い障害、自分が自分で死を選び取れないような障害を負うことすらあるのだ。

 

とすると、「安楽死」……と括弧付きで言うのは、現行の、身体的な病気により、非常な苦痛を伴い、人間としての尊厳を求めての自死というものとは、ちょっと別物と考えるからだが、そういう自死の願望についてどう考えるべきか。

 

おれは「出産否定」寄りの反出生主義者として、自死を肯定はできない。できないのだ。

なぜならば、おれは反出生により、この世の不幸の総量を減らしたいと願う人間だからである。

おれが考えるに、自死しなくてならなくてはならないという状況、心境は不幸である。不幸を増やすことは本意ではない。

 

とはいえ、身体的な病苦による自死の願いのほかに、心理的な自死の願いがあるということも否定し難い。

それは「あなたの問題」、あるいは「おれの問題」なのかもしれないが、ある考え方として取り扱う場合、無視できない話ではある。

 

安楽なる自死、選択肢としての自死。それによって、不幸なる人生から脱却できるならば、それは不幸の総量を増すものではないのかもしれない。

だが、そうだろうか。おれにはよくわからない。これも要検討だ。

 

反出生主義者は今生きている人間の幸福を望む

このように、反出生主義者としてのおれは、日々、いろいろと考えなければいけないことがあるのである。

それよりも、てめえの明日の食い扶持を考えろよ、というツッコミを受けながらでもある。

 

とはいえ、おれの根本にあるのは、「これ以上人類の不幸の総量を増やしてはならない」という思いだ。

 

新たに生まれてくる赤ん坊が、子供が、不幸にまみれるのは耐え難い。

ましてや、今、生きている人間の老後のための労働力として試算するなど、これほど非人間的なことがあるのか、という話だ。

 

そんな非人間的な試算をするくらいならば、いったん人間の生産など止めてしまってよい、と考える。

人間の生産が止まることによって、ある世代の、あるいは自分の老後は悲惨なものになるかもしれない。

 

だが、それは甘んじて受け止めるべきことだろう。

もう、不幸にも、自分たちは生まれきてしまっているのだから。

そして、新しい人間の生産に必要なものを用意できないのだから。

 

今生きている人間の幸福は切実な問題だ

考えるに、ともかく、今生きている人間の幸福というものが大切だ。

今生きている人間が不幸や苦痛のなかにあって、新しく生まれる人間にそれを覆すことを託すのがフェアだろうか。

おれにはそうは思えない。

とりあえず、今生きている人間が幸福にならなくてはならない。

 

幸福とはなにか?

これもいろいろたいへんな問題をはらんだ問いだろう。

とはいえ、生存の持続に心配することなく生きられること、さらにはいくらかの余裕を有すること。

そんなところだろうか。

 

マズローのピラミッドのどの階梯か、ダグラス・ケンリックのピラミッド(『野蛮な進化心理学』)のどの段階か。

ケンリックのは、あまりに子孫を残すという行為に重きを置きすぎている感じはするが。

まあ、いずれにせよ、「反出生主義者」というレッテルから少し意外に思われるかもしれないが、おれは人類の幸福を考えている。願っている。

 

人類の、幸福だ。

もちろん、世界の中では恵まれている方の国であるこの日本でも、いろいろの不幸が生じている。それは問題だ。

だが、これを世界ということにしてみると、さらに悲惨な生活、人生というものがある。

 

比較にならないほどの貧困や苦痛がある。

比べてみてどうという話ではなく、ともに不幸であるのに変わりはないが、やはり日本は恵まれているほうではあろう。

おれは、その日本も、あるいはもっと悲惨なる世界からも、不幸を駆除したいのだ。

せめて、今、生きている人間の幸福を行き渡らせたいのだ。

 

無論、おれにそんなことをできる力はない。

なにもできない。なにもできないなりに、そう考えているだけだ。

夢想者にすぎない。その夢想者が考えるに、すくなくとも、今生きている人間に幸福が行き渡った末に、この世に余裕ができて、新しい生命を迎えても大丈夫となれば、新しい人間の生命を生産することにも反対しない。

 

が、それは楽な道のりではない。

ほとんど不可能といってもいいかもしれない。

だとすれば、やはり蛇口を止めて、人間の、不幸の再生産をやめるべきでもいい。人類は滅んでもよい。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Ben White