おれは数字が苦手である。もちろん、その先の数学も苦手である。

となれば、経済が取り扱う数学というものもまったくわからぬ。

わからないが、現代社会を生きるのに、経済というものを少しは解さなければいけないという思いにもかられる。

 

というわけで、図書館で経済あたりの棚を見ていて目に入ったのがこの本である。

不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)

不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)

  • ハリー・G・フランクファート,山形 浩生
  • 筑摩書房
  • 価格¥1,650(2025/06/03 08:37時点)
  • 発売日2016/09/12
  • 商品ランキング129,898位

とハリー・G・フランクファートによる著書である。

 

「格差は悪なのか?」と言われると、なかなか挑発的なような気もする。

ぱらぱらめくってみると、次のような文章が目に入った。

道徳性の観点からすると、万人が同じだけ保有するというのは重要ではない。道徳的に重要なのは、万人が十分に保有することだ。

まあ、そりゃそうだよな。

そう思って、おれはこの薄い本(翻訳部分と解説が拮抗している)を読んでみることにした。

翻訳者の山形浩生いわく、この本はピケティの柳の下のドジョウだが、そのドジョウも自ら訳したのだと。

 

格差とはなんだろう?

というか、格差とはなんだろうか。

正社員と非正規社員の格差もあるし、年収200万円台の人と500万円台の人にも格差はある。

男女の格差もあるし、国による大きな格差もあるだろう。それらも格差だ。

 

でも、とりあえず、おれが思い浮かべるのは、地球上における2千数百人の富が46億人の富に匹敵するというレベルの「格差」だ。

 

おれは一人暮らし中年として家賃五万円の木造アパートに住んでいるが、同い年の人間がどこぞの湾岸エリアのタワーマンションを所有して、家族とともに住んでいる、というくらいのものではない「格差」を想定したい。

 

無論、格差は金ばかりの問題ではないという意見もあるだろう。

金銭的に貧しくとも、親の文化的資本の違いであるとか、もっと直接的に言えば、遺伝される才能(今の社会に適した才能)というものもあるだろう。

 

まあ、そこはとりあえず、おいておく。

ビル・ゲイツとそこらへんを歩いているおれやあなたやその他のおっさん、おばさんの格差みたいなものとしておく。

 

ケーキの平等

とか言っておいて、いきなりケーキの平等の話に飛ぶ。

アイザイア・バーリンは次のように書いたという。

ここででの想定は、平等には理由などいらず、不平等のほうこそ理由がいるのだ、というものだ。(中略)もしケーキを持っていてそれを10人で分け合いたいと思ったら、みんなにきっちり10分の1ずつあげた場合には、特にそれを正当化する説明は、少なくとも自動的には要求されない。だが私が均等な分割の原理から逸脱したら、それなりの特別な理由を挙げる理由を挙げるように求められる。

ケーキを切れない非行少年たち……という話もあるが、それはそうとして、とにかくケーキを分け与える場合には、それが平等である以外には特別な理由があるべきで、本来は同じ量だけ与えられるべきだという論であろう。

基本的には、同じ量のケーキを割り与えられるべきだという。

 

これについて、著者のフランクファートは反論する。

この種の説明は多くの人によって魅力を持つ。実際、これは初歩的な常識で裏付けられると広く考えられている。だが実は、バーリンが述べている想定はまちがっている。平等性は、不平等性に対して何ら本質的な道徳的優位性を持たない。

この条件でバーリンは、ケーキを分かち合う人々が、均等な分け前を正当化する形で似ているのか、ちがう大きさのケーキを正当化するような形でちがっているのか、何も知らないということだ。これらの人々について、関連情報をまったく持っていいないのだ。

すなわち、ケーキを分かち合う人々についての、個々の事情についてなんにもわかっていないじゃないか、ということだろう。

 

おれが考えるに、たぶん、人によっては少食だから少なくてもいいだろうし、ダイエット中だから多くなくていい、アレルギーがあるからそもそもケーキはいらない、そんな人もいるということだろう。

おれはこの比喩について、そんなふうに考えたのだが。

 

で、著者はアイザイア・バーリンの考えを「不偏不党性による平等」といい、それぞれの人による事情、敬意を無視したものだという。

 

おれは、どうも、それはまっとうな考えなように思える。

個々人の事情を無視した、平等主義というものだ。

 

「主義」とはなにか。

おれは大学受験のための予備校の現国か小論文の講師が言っていたことを思い出す。

「主義という言葉が出てきたら、それを一番重要なものとするという考え方だ」と。

 

おれはその単純で簡単な解説に感じいった。

「なになに主義」という言葉を見るたびに、そう言い換えてみた。

わかりやすい。自由主義、自由をもっとも重要とする。平等主義。平等をもっとも重要視する。

 

それらが組み合わされたりするし、標榜するそれとまったく違うじゃねえかという例もあるとは思うが、とりあえず、それを言う主体はそれを目的としているということだ。

 

平等主義とその否定

となると、格差を否定する平等主義は、平等であるところを第一に考え、それをお目的とする考え方となる。

悪くない考え方だとは思う。

だが、第一の目的、究極の目的かどうか言われると、ちょっと待ってくれと言いたいところがある。

 

平等とはなにか。「EQUALITY」と「EQUITY」で画像絵検索すると出てくる、よく知られた画像がある。

それも考えどころだろう。

とはいえ、いずれにせよ平等というものが、最後の目的かどうかというと、どうだろうか。

 

それは、この本の著者であるフランクファートが指摘するところでもある。

平等はそれ自体として価値があるわけではなく、重要なのはそれぞれの個別性のなかにおいて十分な扱いを得ることではないか、と。

 

これについては、わからないでもない。

求めるところが少ない人間にとっては、べつに巨万の富はいらないのだ。

 

これについては、おれについてもそうだ。

おれは、この現代日本という状況下において、それなりの労働をして、それなりの対価を得て、それなりの持続性をもって、少なくとも明日の食べ物、明日の住処を心配しないで生きていきたい、ということだ。

 

それは、日本よりもっと貧しい国の人にしてみれば、たいへんに恵まれた人間の戯言にすぎないのかもしれない。

そう言われればそうだろう。とはいえ、おれはたまたまこのような国に、たまたまそれなりの情況で生まれてしまったのだ。

おれに選択の余地はなかった。

 

この個別性というものは、今のところ人類から避けられないもののように思う。

生まれてくるところは選べないし、国や地域による格差は現実として存在する。

この選択、もっとくだいた言い方で言えば「ガチャ」から、人類は今のところ逃れられてはいない。

 

とはいえ格差の解消により恵まれぬものは得るべきだ

究極のところ、平等主義というものは、目的にならない。おれはそう思う。

個々人の求めるところに応じて、得られるものが十分であればよい。冒頭で引用した「万人が十分に保有すること」が重要だ。

 

が、しかし。現実的にはどうだろうか。

これは訳者である山形浩生が解説で指摘するところでもあるが、著者の考え方はいささか現実離れしている。

哲学の領域のものであるといえるだろう。

形而上的すぎるというかなんというか。

 

現実問題として、あまりにも富を得ている人間から、あまりにも富を得られてない人間に、その富は分け与えられるべきだろう。

 

平等主義が個々人の個別性を無視しているという意見はありうるし、同意もするが、現実問題としてはどうだろう。

あまりにも富を得すぎた人々が、いくらかでもその富を分け与えることによって、どれだけの人間が救われるだろう。

 

どうにも、「トリクルダウン」というものが、うまくいってねえな、という感じもする。

富めるものはのはさらに富み、貧しいものはもっているものまで奪われるという、タラントンの例えが現実化しているような気がする。

このあたり、おれは単なる無学の貧乏人であって、「気がする」しか言えないのだけれど。

さあ、有識者はどう主張するのだろう。

 

ともかく、哲学的、形而上学的な領域において、平等主義というものは本質的ではないし、平等を最終目的として追求するべきものではないとしても、現実としてはどうなんだい。

 

このあたりは、長い解説で訳者が述べる疑問点でもある。

 

そこのところを考えると、やはり現状の格差なるものはすごく大きなところから、あるいはちょっとしたところまで問われるべきものであって、ちょっといったん富というものを均すことも大切じゃないかと思うのである。

 

平等よりも大切なものとは

で、目前のものとして格差を否定し、平等を重視しつつ、べつになにか追い求めるべきものがあるのだろうか。

 

おれが考えるに、「自由」の二文字である。

自由主義、といってもいいだろうか。

そこには、貧困からの自由もあれば、思想の自由もある。

格差からの自由もあるだろう。

フリーダム、リバティ、そのあたりの使い分けはよくわからない。

ともかく、人間は自由であれ、と思うところがおれには大きい。

 

優雅で感傷的なアナーキストである大杉栄はこう書いた。

思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

おれは自由の二文字が好きだ。

平等も嫌いではないけれど、それは自由に至る過程のように思う。

究極的には自由を求める。

自由は安心をもたらす。そのように思う。

 

あなたはどうだろうか?

 

 

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安達 裕哉(あだち・ゆうや)
ティネクト株式会社 代表取締役/ワークワンダース株式会社 代表取締役CEO
Deloitteにてコンサルティング業務に従事後、監査法人トーマツの中小企業向けコンサル部門立ち上げに参画。大阪・東京支社長を経て、2013年にティネクト株式会社を設立。
ビジネスメディア「Books&Apps」運営。2023年には生成AIコンサルティングの「ワークワンダース株式会社」も設立。
著書『頭のいい人が話す前に考えていること』(ダイヤモンド社)は累計82万部突破。2023年・2024年と2年連続で“日本一売れたビジネス書”に(トーハン/日販調べ)。
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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

 

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