独身中年の不審者度
『見知らぬ人はすべて「不審者」、行き過ぎた通報も…平日昼間に出歩く中年男性の僕が困惑した理由』という赤木智弘氏の記事を読んだ。
平日の昼間に中年男性が一人でうろついていると、「不審者」扱いされる現実があるんじゃないか。
声優の落合福嗣氏なんて、平日に娘と公園で遊んでいただけで通報されたぞ、という話だ。
防犯としての「挨拶」を教育している例もあるし、なんでもかんでも「事案」になってしまう世の中ってどうなん? 偏見があるんじゃないの?……というような内容かと思う。
これに関して、おれも当事者の一人ということになる。
というか、通報する側である子供連れの親、あるいは子供そのものといったものも当事者であって、社会のほとんどの人間が当事者といえるかもしれない。
とはいえ、やはり中年独身男性で単独行動も多いおれは、「不審者」の対象たりうる一番の存在であって、我が事と思わざるを得ないのである。
出かける前の儀式
おれも常に、自分が不審者と思われないようにしよう、思われた場合はどうしようということを考えている。見た目にもそれなりに気を使う。
一応は、土日休みの九時五時仕事をしているので、平日の移動中は「通勤中です」、「会社から帰るところです」で済むだろう。
とはいえ、おれは双極性障害(躁うつ病)の持病があって、朝から抑うつにおそわれて、お昼ごろに出社する場合もある。
そのとき、不審者と思われたらどうするか。
その場合、障害者手帳を提示して、「抑うつ状態で朝に弱く、今から出社です」と答えようか。
あるいは、相手が近所の人の場合は、「このコロナのご時世なんで、時間差出勤なんです」とごまかそうか。いや、嘘はつかないほうがいいかもしれない。
休日だって同じことだ。おれは図書館までそこそこの距離を歩いていくが、その間に通報されたらどうしようか、職質されたらどうしようか。
「今から図書館に行くところです。その証拠に返却する本がバッグのなかにあります。図書館利用カードも財布にあります。すべてお見せします」。そう答えればいいだろうか。
……などと、脳内でシミュレートしないと、おれは外に出られない。
これは当てこすりでも皮肉でもなく、単なる事実である。
ただ、脳内で行われていることなので、証拠を出せと言われても出せないのだけれど。
一応断っておくが、おれは一時「強迫性障害」の診断を受けたこともあるし、病名のかわった今も、ちょっと精神の状態がよくないと、朝の出勤時に「コンセントの抜き忘れ」、「鍵のかけ忘れ」などが気になって、何度か部屋に戻るということがある。それは明言しておこう。
とはいえ、おれがあらゆる一人行動のときに、通報や職質のケースを想定しているのは事実だ。
とくに自分でも危ないと感じるのは、公園で一人、花の写真など撮っているときだ。
「写真は自分の趣味の一つです。その証拠に長年続けているブログがあります」といって、スマホを取り出して、自分のブログの「写真」カテゴリを見てもらえば大丈夫であろうか。
それよりも、デジカメで撮影した写真を見せて、変な写真がないことを確認してもらうことが先だろうか……。
あるいは、偶然にも一人で歩いている子供とすれ違うときなども緊張する。
なにかの間違いで防犯ブザーを鳴らされたらどうしようか。
とはいえ、踵を返すのももっと変な挙動だ。できるだけ距離をとって何事もないように祈るしかない。
あるとき、小学生から「こんにちは!」と声をかけられて、あっけにとられてなにも反応できなかったことがあるが、今考えると、あれは彼のほうが防犯活動していたんだな……。
こういう不安、女の人と一緒にいるときは、いっさい感じることがない。
男女二人連れというものの心強さというものがある。行動範囲が広がると感じる。
これが家族連れなどとなれば最強だろう。
あと、ちょっとしたおれのライフハックというか、気のせいかもしれないことを一つ。
茶髪にピアスでチャラいチンピラの雰囲気を醸し出していたほうが、ある意味での「危険なやつ」扱いされないような気もする。
これはべつの意味で危険をはらむ可能性はあるが、まあそのあたりは各自判断されたい。
ちなみにおれは職質を受けたことも、通報されたこともない。
ほろ苦い思い出
ところで、こういう話になるとどうしても思い出してしまうことがある。
おれが小学生のころの話だから、三十年くらい前になるだろうか。
まだ、実家というものがあったころの話である。
その実家には、父方の祖父母と、叔父が同居していた。
叔父は父の双子の弟で、幼児のころ大病をして、内臓に重い身体障害を負い、軽い知的障害も負った。
重度の障害者として、福祉施設(授産施設というのかな)で働いていた。
とはいえ、一見して障害者とはわからず、読み書きが苦手なことはなんとなく子供心に察してはいたが、普通に会話もできたし、単なる「おじさん」だった。
その叔父が、ある日、おれに言った。
「あそこの道で歩いていたら、おまえと同じくらいの子がいたから、おまえの同級生かと思って声をかけたら、こわがられてしまった」。そんなことだ。
おれはちょっと悪い予感がした。その悪い予感が当たった。
叔父が声をかけたのは、近所の同級生の女の子だった。叔父の勘は当たった。
が、これが「声かけ事案」(当時そんな言葉はなかったように思うが)として、教師に伝わることになった。
学級会のようなところで「これこれこういうことがあったので、注意しましょう」という呼び掛けになった。
手をあげて、「あの、それは自分の叔父で、べつに悪意はなかったんです」……とは言えなかった。
自分の家族が「声かけ」の正体であることも、その叔父が知的障害者であることも、とてもじゃないが明かせることではなかった。
おれがいじめの対象になるかもしれないし、なにより恥ずかしいと思った。思ってしまった。
もし、おれがもう一度小学生のあのときをやり直すとしたら……、多分同じように沈黙したことだろう。
やはりそれは、無理なのだ。叔父には悪いと思ったが、どうしようもないことだった。
ただ、いまだに頭にこびりついている後悔のようななにかであることもたしかだ。
「不審者」として生きる
しかしおれは、おれや叔父を「不審者扱いしないでほしい」とは言わない。
おれはおれ自身についてそれほど信頼しているわけではないが、子供に変なことをすることはないと思っている。
叔父は七十歳をこえる今日まで、他人とトラブルを起こすことなく温和に生きてきた。
が、それを見ず知らずの人がどうやって判断できるというのか。
叔父に声をかけられた同級生の子は恐怖を感じたのだろうし、その感情を否定することはできない。
その恐怖を自分の親や教師に伝え、同級生に危険を伝えたいと思って、だれが責められるだろうか。当たり前の話である。
同じように、子を持つ親というものは、我が子というものが最高最上の存在であって、子供のためにはどんな危険もおかすだろうし、あらゆる危険から我が子を守ろうともするだろう。
公園で子供を遊ばせていたら、正体のわからない中年男(おれ)がずったらずったら近くを歩いている。
進化心理学的にも、おれをぶん殴っても我が子を助けようと思ってしまうのは仕方ない。
ぶん殴るまでいかないまでも、我が子を遠ざけ、念のため、今後のために警察に通報するのも当然のことだろう。
なにかがあってからでは遅いのだ。
おれが本当に変質者だったらどうする。無差別の通り魔だったらどうする。
子供の心に深くて治らない傷を与えられる可能性もあるし、生命を奪われる可能性もある。
正体のわからない人間を不審者とみなし、それに対処するというコストに対して、我が子の生命を守ることができるというメリットははるかに大きい。
賭けに失敗したところで、べつに大きなリスクやデメリットがあるわけでもない(まあ、さすがにいきなり殴りかかったら話はべつかもしれないが)。
「不審者がいる」という通報に駆けつけた警察官になじられることもないだろうし、むしろ治安のために感謝すらされるだろう。
子持ちの親と、一人の中年独身男。その非対称はいかんともしがたい。
そして、おれが中年独身男、キモくて金のないおっさんになったのは、選びたくてそうしたわけでもないが、そうならざるをえない程度の人生を送ってきた結果だ。
偶然にすぎないとしても、その程度の性能しか持って生まれてこられなかった、おれの責任である。
これは、甘受しなければいけない仕打ちであって、こういう図式を中年独身男が受け入れなければ、世の中の治安は守られないし、子供たちも守られない。
おれは「この地獄のような世界に生まれてきてしまった同胞」に最大限の幸福が与えられるべきだと考えている。
まだ存在していない人間は、そのまま生まれてこないほうがいい、という発想と裏表なのだが、その話はまた別として。
そうなると、まだ無力である子供という同胞の幸福に、その両親の幸福。それを足したら、一人のおれは譲るべきなのだ。
少々、生活において不都合なことがあったり、ちょっと嫌な思いをするくらいは、甘受しなければならない。
べつに、「何もしていないのに監獄に入れられるくらい我慢しろ」とまでは言わない。
ただ、社会監獄のなかで牢人として監視されるくらいは我慢しなくてはならない。
幸福の量の差があるのだから仕方がない。幸福の側に立つだけの努力と能力が足りないのだから自己責任だ。
とはいえ、少しは想像を
とはいえ、少しの想像があれば、少しだけ救われるところもあるように思える。
子持ちの側が、独り歩きの独身中年に対してだ。
子供を遠ざけてもいいし、通報してもいい。
でも、そこに「ひょっとしたら悪い人ではないかもしれないけれど」という想像をひとさじ混ぜておいて欲しいのだ。
ひょっとしたら、おれの叔父のように悪気のない知的障害者かもしれない(知的障害であることによって余計に危険とみなすことも、人の子の親として正常な判断かもしれないが)。
子供自身はもう、べつに何も考えなくていい。目に見えるものはすべて警戒の対象でいい。
心の中は、拘束される直前のラヴレンチー・ベリヤの走り書きのように「警戒、警戒!」でいい(なんてわかりやすいたとえだろうか)。
というか、むしろこの世がベリヤだらけだ。そういう前提でいい。
この世がどれだけ悪意に満ちて、危険であるか、それだけを教え込まなければならない。
我が身を守るためなら、ためらわずに防犯ブザーを鳴らすように指導するべきだ。
ただ、大人は少しだけ、想像してほしい。それによってなにが救われるだろうか。
敵意の目を向けられ、警察を呼ばれる。それは変わらない。
しかし、そうされる側としても、そうした人がひとかけらでも「もしかしたら間違いかもしれないけれど、仕方ないことだ」という意識を持ってくれていたら、と思えたならば。
そう思えたならば、少しは救いがある。
昼間ひとりで歩いている中年男について、「やつらは敵だ、殺せ」という意識だけで満ち溢れている思うならば、それでおしまいだ。こちらとしても、「よろしい、ならば戦争だ」ということになる。
それでは生きている人間の幸福の総量が減ってしまう。それはよくない。
なので、子供に危害を加えるつもりはないけれど、仕方なく一人でいるのでそう思われてしまうしまう人について、「仕方なく一人でいるだけでない悪意のない人かもしれないけれど、こちらも仕方なく通報せざるを得ないのだ」と思って欲しいし、できればそれを日頃から表明してほしい。
そうでなければ、通報されても死にきれない。いや、通報だけで死にはしないけれど。
そして警察官には……警察になにか望んでも無駄か。その切断もよくないか。まあいいか。以上。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by arvin keynes