手袋

もう、春だ。暖かくなってきている。それなのに、手袋の話をする。

 

冬、ラジオのパーソナリティーがこんなことを言った。

「以前は冬となればみな手袋をしていたのに、今はスマートフォンのせいか、あまり手袋をしていない」。

 

おれはそれを聞いて、思い当たることがあった。

コロナウィルスがやや低調になった秋だか冬だか、女の人と買い物に行った。

女の人は「手袋を買いたい」と言った。手袋を探した。

 

が、なんというか、手袋があまり売られていないのだ。

手袋売り場がない、少ない、そんなふうに感じた。そのときも、そんなことを言った。

「あれ、手袋ってこんなに売ってないものだっけ」。「なんか、選べない」。

 

あくまで、関東、南関東のラジオと、南関東に住むおれたちの話である。

それは明確にしておくべきだろう。だが、少なくとも南関東においては、そんな実感があった。

 

あれ、みんなスマートフォンの操作を優先して(スマートフォン対応の手袋もあるが、あれって使いにくいよね)、手袋をしなくなったのか?

 

実感というあてにならないもの

実感? これはあてにならないかもしれない。

たまたま、ラジオのパーソナリティーがそう感じて、たまたま、手袋があまり売られていないショッピングモールにおれと女が行ってしまったのかもしれない。

 

そのあたりの本当の数字は、どこかに上がっているものだろう。

どこかというと、たとえば「全国手袋小売業連合」みたいな組織があって(そんな組織があるか知りません)、その売上の推移みたいなものが公開されているかもしれない。

あるいは、国のなんらかの省庁が、なんらかの統計をとっているのかもしれない(国の統計があてになるかどうか知らないけれど)。

 

そういうところから、「実感」とか、そういったいい加減なものを排した精確な数字が得られるかもしれない。

が、それだけでいいのだろうか。「実感」とかそういったものは、人類の歴史において、無視されていいのだろうか。そんな思いにもとらわれる。

 

いつから若者はジーンズを履かなくなった?

近頃の若者はジーンズを履かない。そんなことも言われる。

たしかに、言われてみれば、ジーンズを履いているのはおっさんやじいさんばかりだ。そんな気もする。

大手衣料品企業の、桑田佳祐を採用したジーンズのCMもあまりかっこいいとは思えなかった。

 

自分も、べつにファッショナブルな人間でもないし、なにより若者でもないのだけれど、ジーンズを履く(そもそもジーンズでなく「デニム」とか言うべきか?)ことを減らしたりしている。

いくら『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』のブラッド・ピットのジーンズ姿が異様にかっこいいといっても、ブラッド・ピットはブラッド・ピットだけであって、みながブラッド・ピットなわけではないのだ。おれもブラッド・ピットではない。

 

というわけで、ジーンズの売上は落ちている。そのような記事を読むこともある。

これも全日本デニム業協会というようなところから(実在するかどうか知りません)、売上の推移が上がっているかもしれないし、国の省庁が統計をとっているかもしれない。

 

まあ、たぶん、ジーンズは売れなくなっているのかもしれないが……。

中学のころの担任教師が常にジーンズで、「本当の作業着とはジーンズである」と力説していたっけな。

まだ履いているのだろうか。いや、とっくに定年退職しているか。

 

「実感」が記録されるということ

おそらくは、後世の学者やなにかは、なんとか協会の統計や国の資料をもとに「○○年ごろから□□年ごろにかけて、これこれこういうような変化があった」というように読み解くことだろう。

おそらくは、現代の学者やなにかも同じようなことをしているのであろう。

 

が、おれにはそれがやや不満なのである。

なぜならば、かつて書籍を残せたようなひとかどの人物以外の、一般大衆と呼ばれるような人たちが、日々の生活を残せるようになっているからだ。そこにあるのは、「実感」だ。

言わずもがな、それはインターネットの普及によってもたらされたものだ。

 

ブログ、SNS、なんでもいいが、個々人の細かい日常が、これといった目的もなく、「実感」として放流されている。

むろん、いくらか「盛った」ものであったとしても、名もない人間の生活がそこには記されている。

 

あてにならないものかもしれないが、だれかが、生活について、書いた。

Twitterなど、「昼飯になにを食べている」なんてくだらない、なんて言われていた時期もあったと思うが(今は結論の出ない論争でさわがしいようだが、それはあまりおもしろい使われ方だとは思わない)、それこそが貴重なのだと思っていた。

 

少なくとも、おれはそう思っていた。

10年後、50年後、100年後、そういった生の情報に当たれることは、どれだけ価値のあることかという思いである。

 

100年前、文献を残せない人間の生活をたどるのはちょっとむずかしい……のではないか。

そういったものを記録していた人もいるだろうが、サンプル数は少ないはずだ。

そういった個人の小さな記録を追う歴史学者なんかもいるのだろう。たぶん。でも、希少価値があるから追っている。

 

が、今やネットの時代、みながとは言えないにせよ、どうでもいいような人間の食生活が放流され、保存されるような時代ではないのか。

どうでもいいような人間の食生活とは、たとえばおれが「今夜もキムチ鍋を食べました」というようなものである。ときどき、肉や野菜の値段に触れているかもしれない。

 

「今日は味噌を入れ忘れたので味に深みがなかった」とか書くかもしれない。

それによって、「この時代に食べられていたキムチ鍋というもののレシピのなかには、味噌を用いるものもあったのか」とわかるかもしれない。いや、レシピサイトが残っていれば、それでいいのだけれど。

でも、そんなんで、朝鮮半島と日本の違いがわかるかもしれない。

 

AI様よ

「そんな細かい、どうでもいい情報を誰がいったいいちいち拾うのか」という話もあるだろう。

なるほど、まとめられた統計情報以外の、バラバラの情報をすくい上げるのは大変だ。

 

が、AI様ならどうだろうか。

個々人がバラバラに記した、手袋も、ジーンズも、鍋も、すべてすくい上げて、この時代の姿を浮かび上がらせてくれるのではないか。おれはそのように思う。

 

浮かび上がらせてどうするのか、なんの役に立つのかというと、おれにはストレートな答えが出ない。

しかし、「なんか、残せるものは残しておいたほうがよくね?」という思いはある。

たとえば、おれが何を食べていたかということが世界平和に貢献する可能性はゼロに等しい。

 

しかし、たとえばロシアのウクライナ侵攻について世界中の人間がどんな情報に接し、どんな感じ方をしたか表明することは、無駄ではないかもしれない。

世界平和というお題目がなくとも(あるべきだが)、ネット時代の国家間戦争における情報戦というものについての、なんらかの知見が、のちの軍略家に知識を与えるかもしれない。いや、それはあんまりよくないな。

 

まあ、そんなことに比べたら、おれが鍋になにを入れていたかを、食糧生産の参考にしてくれるほうがいい。

21世紀の日本の今日を再現するドラマがあったとして、それの参考になったほうが平和でいい。

 

まあ、そういうわけで、名もない人間たちがネットに放流する情報というものは、いずれ価値が出てくるかもしれない。

人間は歴史に学ぶものだということは、今後も変わらないであろうし、その学びのためになる。

 

もちろん、「ため」なんかのために、日記を書く必要なんてない。

書いてただ自分ひとりのために、自分自身の生活や人生の整理にしてもいい。

ちょっとした読者のためになればいいな、というだけでもいい。

なんだっていい。だから、食ったものだけでいいからネットにアップしろ。

 

そしたら、たぶん、ネットを片っ端から飲み込んで整理、分析するAI様が、なにかいいことにしてくれるはずだから。

もっとも、どうせなら、100年後のだれか個人に、今のおれのありのままの生活、心情を読んでもらうことを想像するほうが楽しいかな。

 

しかし、消え去っていくネットの情報

とはいえ、おれが放流した情報が100年後もネットを漂っていると想像するのも、すこし厳しいものがあるかもしれない。

まだ、インターネットの黎明期、いや、黎明期よりちょっとあと、Wikipediaあたりが充実してきたころ、おれはこう思ったものだ。

「ネットの情報というものはその改訂も含めてすべて保存されていく。膨大な情報量が保存されていくのだ」。

 

無邪気な妄想に過ぎなかった。

「無料ホームページサービス」が閉鎖されたら、そこにあった色々の思いや考えが込められていた「個人ホームページ」はなくなってしまった。

なかには本人や誰かによってコピーされたものもあるだろうが、多くのものが失われてしまった。

 

同じように、あるブログサービスが閉鎖されたら、やはり多くの人々の日々の生活や思考の情報が失われてしまった。

書いていた人の中には、「ログイン方法もわからなくなっていたが、あんな黒歴史は消されてよかった」と思うかもしれない。

まあ、そういう人の情報までなんでも残せとは言わない。

 

そうだ、ネットの情報には、残されないほうがいいというものもある。

いわゆる「デジタルタトゥー」というものだ。

拡散されてしまった悪意ある情報、個人や団体についてのデマ、だれかの消したい過去、そんなものは、当人によってコントロールされるべきであるかもしれない。「忘れられる権利」だ。

 

ただ、それが残されるべき公共的な価値があるかどうか、そのあたりは個々のケースにおいて判断されるべきだろうし、その大まかな線引きというものは時代とともに移り変わるものと思う。

 

ただ、おれが「残れかし」とここで主に述べたのは、もっとどうでもいい情報についてだ。

匿名の人間の、とくにどうでもいい「最近、コンビニの肉まんが小さいような気がする」とかいうつぶやきだ。おにぎりも小さくなっているかもしれない。

そのあたりを、企業の公開情報や政府の統計情報と突き合わせて、本当の時代の姿が見えてくるかもしれない。おれは、そんなことを望む。

 

が、厳しいかなと思えるのは、たとえば個人が使用していたサービス以外の、たとえばガジェットの情報を伝えていたようなサイトも、サービスが停止されると、更新ばかりでなく過去ログまで消されるという現実を目にしてのことだ。

 

もちろん、過去の記事に責任を持ち続けることはできないだろうし(責任の主体がいなくなってしまっているかもしれない)、サーバにデータを置いてインターネットに公開するということにコストが発生することもわかる。

だが、消えてしまうのだ。心情として、もったいないという思いが先行する。

 

結局のところ、紙なのか? それとも……SF大作『三体』の読者ならべつのなにかを想像するかもしれない。

とはいえ、おれは刻みつづけるだけだし、100年後にもネットの片隅におれの書いたものが漂っていればいいなと思う。

できれば、だれか人間が発見して、なにごとかについて共感すらしてほしいと思うのだ。

 

 

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(2024/3/26更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Philippe Jausions