浄土真宗

おれの母の家系は浄土真宗であった。とはいえ、べつに熱心な信者というわけでもなく、お葬式になったら、決まっている浄土真宗のお寺に頼む、というていどの話である。

 

母はよく言った。「南無阿弥陀仏を唱えなくてもいいとすらいう浄土真宗は、すごく気楽でいいじゃないの」と。

父方の宗派はよく知らない。だが、父が親鸞を支持していたのは知っている。

父は何宗でもない、吉本隆明信者であった。だから、『最後の親鸞』などを読んで、親鸞の教えに接近していたとは思う。

 

おれはといえば、鈴木大拙の禅の話から、ちょっと横に逸れた浄土真宗の話に興味を持ち、やはり吉本隆明の『最後の親鸞』や『信の構造』、『悪人正機』などを読んで、「おれは浄土真宗かな」と思うていどの信仰か、信仰でないかの思いを持っている。

 

信仰か信仰でないか

浄土真宗における、信仰か信仰かでないかというのは、なんとも言えない話である。

ここからは、おれの拙い理解による話である。

 

浄土真宗においては、阿弥陀如来の誓願というものがあって、阿弥陀如来は衆生を救うのである。

そこにこちらからのはからいはない。ただ、もう阿弥陀如来が救うのだ。

こちらからの自力はない。善いことをしたら、とか、たくさん寄進したから、とか、そんなことは関係ない。阿弥陀如来が救ってくれると決めたのだ。

 

これこそ、本来の意味での「他力本願」である。進んで悪いことをする(本願ぼこり)こともないが、かといって、この世で犯す髪の先ほどの罪も、宿業によるものであって、ともかく自力の入り込むことはない。

 

妙好人(後述)の浅原才市いわく次のとおりである。

「たりきには じりきもなし たりきもなし ただ いちめんの たりきなり」

「さいちよい、へ、たりきをきかせんかい。へ、たりき、じりきはありません。ただいただくばかり」

 

宗教と政治

さて、このごろ、政治と宗教、宗教と政治についてのかかわり合いが社会的な大問題として取り沙汰されている。

この場合の宗教は、いわゆる「新興宗教」であり、強引な勧誘や、多額の献金などが問題となっている。

これはもう、「宗教」というくくりではなく、なにか反社会的な動きなのではないかとも思わされる。

 

が、果たしてそう言い切れるのであろうか。伝統的な宗教ならば政治と関わることはないのであろうか。

というのも、自分が本棚で『親鸞と日本主義』という本を見つけたからである。

 

浄土真宗、親鸞と第二次世界大戦下における「日本主義」が接近していた?

ちょっとだけ思い当たらないところはないけれど、そういうところもあるのか? そんな思いでこの本を手に取った。

中島岳志『親鸞と日本主義』である。

著者の中島岳志も吉本隆明の生の言葉を聞き、『最後の親鸞』を読み、やがては『歎異抄』を座右の書にしたという。

 

しかし、日本主義者に多い日蓮の信奉者(田中智学、北一輝、石原莞爾、井上日召ら)とはべつに、親鸞を信奉する人間が日本主義に傾倒することに著者は気づいた。

それが本書の課題である。日蓮主義者は一種の設計主義者であり、法華宗のなかにある自力の思想こそ問題であるはずだが、親鸞の他力の思想とどこで日本主義が結びつくのか……。

 

三井甲之と蓑田胸喜と『原理日本』

著者がまず着目したのは三井甲之だという。

三井は東京帝国大学在学中から伊藤左千夫から指導を受け、『馬酔木』に歌や評論を出すとともに、やがて編集にも関わっていった歌人であった。

 

が、その名は『原理日本』という狂気的に左翼、革新右翼を攻撃する雑誌の同人としても知られる。

『原理日本』の創刊メンバーは、三井をはじめとして、その影響を受けた親鸞の信奉者であった。

三井は「芸術的創作」を「阿弥陀経」に読み替え、さらに「日本」への読み替えを行う。

国民協力の平等感を
国家社会政策に実現し、
集中と分散と分析と総合と探究と独創と個人と社会と国家と
はて無き海の八重波の同じきうしほにとけ入る如く
小草の葉末にそよぐ微風の
力をあつめて
人の組織を無限の自然に
とけ入らしめよ。
一切の差別は
ここに消え
のこる名はただ原理『日本』。

すべては「日本」に溶け込み、単一かつ唯一の存在に帰命していく……。

この詩の発表によって、三井の思想は確たるものとなった。計らいを超えるという親鸞の「他力本願」と日本語による「うた」の世界を接続し、すべてを「原理『日本』」に没入させる論理を確立した。

「阿弥陀経に代ふべきはロダンの芸術の如きである」と述べていた三井の思想は原理日本へと変わっていく。

 

この三井に大きく影響を受けたのが、蓑田胸喜である。

滝川事件、天皇機関説事件などでも知られる蓑田胸喜もまた、親鸞主義にひかれていった。

学習院大学教授であった哲学者、紀平正美に対する批判に次のような文言が見られるという。

「学匠沙汰」といふことを親鸞はまた「はからひ」ともいつてをるのであるが、それは今日の言葉に翻訳すれば「概念遊戯」である。博士教授の学説はマルクス等の末流社会主義者の理論と共にこのこちたき「学匠沙汰」でありはかなき「はからひ」である。

「はからい」を否定し、「実人生の内的直接表現」、そしてそれこそが芸術と宗教が一体となるところであると蓑田は考えた。

彼は、マルクス主義者や国家改造を企む革新右翼の論理の中に「はからひ」を見出し、それらを自力の思想として攻撃した。彼の考えでは、とにかく「祖国日本」の「絶対他力」を念じ、すべてを委ねることが重要で、ちっぽけな理性で世界を改造するなどという考えは邪悪以外の何ものでもない。

マルクス主義や革新右翼の「自力」批判を親鸞の考えに託している。

戦前戦中の日本主義の大きな流れのなかに、親鸞の考えを取り入れたとする者たちがいたのは確かなことだ。

 

三井甲之は、こうも述べる。

われらの宗教は祖国礼拝である。『日本は滅びず』と信ずるが故にわれらのはかなき現実生活も悠久生命につながらしめらるるのである。それが摂取不捨である。摂取して捨てざるが故に阿弥陀仏といふ、即ち摂取して捨てざるが故に祖国といふ。

われらの宗教が「祖国日本」になっている。

三井は「南無阿弥陀仏」を「南無日本」「南無祖国」「祖国日本」と読み替える。「絶対他力」は「弥陀の本願」ではなく「日本意志」であると説く。三井にとって、個人の意志を日本の意志と同一化させ、そこに帰命することが「われらの宗教である」。

 

本書において繰り返し提示されるのがこのような「読み替え」である。

読み替えてしまったのだから、その元になる宗教は関係ないのでは? と思うところもあるかもしれないが、だれか一人というわけでなく、その思想に少なくない人間が共感したことは見逃せない。

そして、その思想が政治においても影響力を持ったことを。

 

『出家とその弟子』の倉田百三

『出家とその弟子』は、タイトルくらいは知ってるが、現代において読んだことがある人はどのくらいいるだろうか。

おれも読んでいない人の一人である。とはいえ、『出家とその弟子』は大正、昭和初期の大ベストセラーだったのである。

 

その著者の倉田百三は、若い頃は自らの「性欲という利己主義」に悩み、哲学にあたり、キリスト教にあたり、『善の研究』にあたり、なおかつ実生活での女性問題にも悩み、生きてきた。

 私はあくまでも善くなりたい。私は私の心の奥に善の種のあるのを信じている。それはつくり主が蒔いたのである。

 

このような倉田の考え方はなんと言えばいいのだろうか。

おれが中学のころ教師に習った言葉を思い出す。「人間というものは性悪もなく、性善でもなく、向善なのである」と。

「向善説」という言葉は検索してもあまり引っかからないが、あの教師にとってはなにかベースとなるものであったと思う。

それゆえに、印象深く自分のなかに残っている。

 

とはいえ、このような「善に向かう」というのも、親鸞の思想においては「自力」といえる。

人間存在自体の悪を認め、弥陀の本願にすべてをゆだねるのが他力本願だ。

 

倉田ははじめ、親鸞への違和感を抱きつつも、紆余曲折あって、『出家とその弟子』を書きお紆、な余曲折あって、病み、そして参禅生活を始め、「悟る」。

 其処には天地と彼我とは端的に一枚であつた。其処には宇宙そのものが厳存し、しかもそれは呼吸をし、目をみ開いてゐた。呼吸をして活きてゐた。ぱつちり目をみひらいて自覚してゐた。私は思はず声をあげて絶叫した。向こふの農家から烟が立ち登つた。それは自分が吐き出したのだ。――かう感じた時は私は走り出してゐた。私は寺に帰り、つき上げて来る法悦を抑へ、静かに禅堂に打坐して入室の時を待つた。宇宙が呼吸をしぱつちりと目をみ開いてゐる。これぞみ仏だ!

この「悟り」を野狐禅、増上慢と言うことも簡単だろうが、どうだろうか。

人間には、このように思う瞬間があるのではないか。

それは簡単に否定できるだろうか。おそらく、できない。できないが、それを他者が簡単に絶対視するわけにもいかない。

いずれにせよ、彼のなかに宗教的な大いなる体験があった。それだけである。

 

が、それだけでは済まない。

 だからこそ自分は、自己が至った地点まで人類を引き上げなければならない。すべてが「一枚」となる世界、すべての主体が「弥陀の本願」と一致する世界を現前させなければならない。天意に準拠した政治を確立しなければならない。
そう考えた倉田が注目したのは、イタリア・ドイツで勃興していたファシズムの潮流だった。彼は、マルクス主義を「物質主義」として排撃し、ファシズムこそが日本の目指す宗教的境地であるという主張を展開した。

こうなってしまうのが不思議でもあり、必然であるようにも思えてしまう。

あとの時代から見たら、なんかとんでもない方向に行っているように思えるが、たとえば今、おれたちは、この時代をそんなふうに客観視できるだろうか?

 

転向と教誨師

 一九三三年六月十日。
各新聞は元共産党中央委員長・佐野学と元共産党中央委員・鍋山貞親の共同転向声明をいっせいに報じた。日本共産党の「輝ける指導者」だった二人の転向は、社会に大きな衝撃を与えた。

「共同被告同志に告ぐる書」で知られる大転向である。

これにより、多くの共産主義者、それも幹部級が転向していった。内容についてはWikipediaでも読んでください。

 この転向者の論理には、一つの特徴があった。
それは、多くの者がマルクス主義を放棄・方向転換するにあたって、親鸞の信仰に帰依していったということである。彼らの中のかなりの人数が、獄中で『歎異抄』や真宗の僧侶・学者の著書を読み、親鸞の教えに傾倒していった。

して、この転向の雪崩にも、親鸞の教えが絡んでくる。

それは「教誨師」という存在による。

 

明治以降、そもそも教誨師というのは、真宗大谷派、真宗本願寺派の僧侶が布教と伝道のために始めたという。

 

教誨師は厳しい取り調べや拷問のなかでよく話を聞いてくれ、関係が密になっていく。

そこで、徐々に宗教者として布教をはじめる。そこには、共産主義者たちを転向させようという意向もあった。

 

とはいえ、そんな教誨師を嫌った人間もいる。

亀井勝一郎。どんな人物かはやはりWikipediaでも読んでいただきたい。

亀井は、囚人につけこむ教誨師のやり方を「牢獄の真の悲惨」、「宗教の名においてなさるる最大の罪悪」とまで言った。

 

が、この亀井もやがて共産主義を捨てさり、転向する。そして、仏教に引き込まれていく。

そのきっかけは、奈良で仏像を見たことだというのだから、仏像もあなどれない。

そして、親鸞と出会い、大きな衝撃を受ける。

そして、『親鸞』という著書を記す。が、戦中に書かれたそれは、戦後になって大幅な削除が行われた。

削除されたのは近代合理主義批判であり、自然法爾と神ながらの道の一致であった。

 亀井にとって、国学の世界観こそ親鸞の思想に他ならなかった。
国学は、治者と被治者が神意によって一体化したユートピアを描き出す。神ながらの素朴な心が通い合うことで、私心を超克した幸福な関係を呈示する。亀井は、この国学的ユートピアの中に、「自然法爾」の世界を見出した。

ここにきて、「国学」というキーワードが登場する。

 いま我々の戦つてゐる戦争は、その深奥についていへば、近代がもたらした病的な精神形態に最後の結着を与へる、云はば人間自立主義の崩壊を宣する戦争であると云つてよからう。理知の暴威を否定する戦争である。

ここにも、理知を「はからい」として否定する思想がある。

戦争における狂気、反理性的な部分について、時代の空気や同調圧力、ともかくおかしくなっていた、というイメージも抱きがちだが、このように思想や理念として「理知」を否定するものが背景にある場合もある。忘れてはならない。

 

『歎異抄』を広めた「念仏総長」

さて、親鸞といえば『歎異抄』。

現代でも『歎異抄』についての本は多い。とはいえ、『歎異抄』が古くから広く知られていたわけではないという。

 しかし、これほどまでに『歎異抄』が広範に知られるようになったのは近代以降のことである。「精神主義」で知られる清沢満之が再評価し、宗門や弟子たちの間に浸透することになった。そして、清沢に学び、一般社会に『歎異抄』を広く知らしめたのが、暁烏敏である。

暁烏敏(あけがらす・はや)。この名ははじめて知った。

どのような人物かはWikipedia……と言いたいところだが、本書で取り上げられている戦時中の日本主義者としての姿はWikipediaには書かれていない。

 

彼もまた、他力本願と神ながらの道を同一視する。

 親鸞聖人は、自力を捨てて本願他力に帰するといふことをはつきり仰せられています。これは言挙をしないといふ我が神ながらの道であります。

「言挙げ」とは、あえて言葉にして言い立てること。神道においてはよくないこととされる。言挙げできるのは神のみである。

 ここで自力への懐疑という親鸞の宗教思想は「言挙をしない」という神ながらの道に回収される。知恵や才覚を超えた「弥陀の本願」に帰依する絶対他力の教えは、ひたすら天皇の大御心に随順する臣民の規範へと転換される。

またもや出てくる置き換えだ。

そして、暁烏敏は浄土真宗という教団としてのあり方に大きく関わる。浄土真宗は「真俗二諦」という立場をとっていた。

「真俗二諦」とは「真諦」としての仏法的真理と「俗諦」としての世論的論理を区別し、その両立を図る考え方である。これは近世において世俗権力との折り合いをつけるために定着した論理で、真宗教団にとっては護教的側面をもっていた。

とはいえ、戦時下にあって、このような態度が国家に認められるだろうか。

「俗」として国に、神道に従うという姿勢を見抜かれ、批判されては立つ瀬がない。

 

そこで、というわけでなく、信念として暁烏敏が主張したのが「真俗」を一諦として理解する上のような一元論であった。

その主張がなされた教学懇談会では、暁烏敏の意見が支配的になる。

 

そこに賛成したなかに曽我量深の名前などある。

 死ぬときはみな仏になるのだ。国家のために死んだ人なら神になるのだ。神になるなら仏にもなれる。弥陀の本願と天皇の本願と一致してゐる。

ほかに、金子大榮の名前なども見られる。会議はファシズムに、超国家主義に向かい、そう結論づけられる。

 

しかしまあ、曽我量深に金子大榮である。おれが仏教書の古本を漁っているころに、慣れ親しんだ名前である。

彼らが日本主義に積極的に加担していたとは、まるで知らなかった。一つの驚きであった。

 

彼らに影響を与えたのは清沢満之であって、その精神主義ゆえに現代にも通用するところがあって、おれなどにも読めたのであろう。

とはいえ、それは日本主義に接続するところがあったともいえる。

 

本居宣長

して、著者が最後に述べる見解は、またこれ意外なものであった。

そもそも、近代の日本国体論の元になった国学のなかに、浄土宗の教えがあったという説だ。

 国学の論理を構築したのは本居宣長である。宣長は、日本人の精神にしみついた「漢意」を除去し、日本古来の「やまとこころ」に回帰すべきことを主張した。そして、事物に一切の介在なく直面することで「もののあはれ」を知ることができると説いた。

本居宣長。仏教も「漢意」(からごころ)として否定的であった。が、生まれた家が代々熱心な浄土宗の信徒で、少年期から青年期に大きく影響を受けたという。

そして、その国学の根底には浄土宗の教えがあった。そう阿満利麿が論じているという。

 宣長が一貫して排除しようとしたのは「漢意」である。これは中国に特徴的な思考のあり方で、より厳密には人間の賢しらな計らい全般を指す。一方、日本古来の「やまとこころ」は、一切の私智を超えた存在で、すべては「神の御所為」とされる。宣長は人間の小賢しい思慮を超えた超越的な力を重視し、その力に随順することこそが人間の生き方であると説いた。これにより人間の素朴な感情を善悪の倫理的な判断を超えて、そのままに肯定することができるという。

これまで論じられてきたところから、この思想のあり方がどう置き換えられてきたかは明白だろう。

 幕末に拡大した国体論は、国学を土台として確立された。そのため、国体論は国学を通じて法然・親鸞の浄土教の思想構造を継承していると言える。「自力」を捨て、「他力」にすがるという基本姿勢は、「漢意」を捨て、神の意志に随順する精神として受け継がれている。
ここに親鸞思想が国体論へと接続しやすい構造が浮上する。浄土教が国体論に影響を受けているのではない。国体論が浄土教の影響を受けているのである。法然・親鸞の思想構造が、国体論の思想構造を規定しているのである。

というわけで、親鸞の思想が日本主義に接近しやすいという背景には、逆に国体論のなかに浄土宗の思考構造が組み込まれていたのではないか、という話だ。

このあたり、非常に刺激的で興味深いのだが、本書においては最後に少し述べられているだけであって、さらに知りたい。

阿満利麿の本を読めばいいのだろうか。

 

政治と宗教、そして戦争

というわけで、政治と宗教の関係の一例として、親鸞の思想と日本主義について見てきた。

最初に意外な組み合わせ、と思ったが、実のところ、ずっとまえに「おや?」と思ったことがあった。

それは鈴木大拙の『妙好人』という本を読んでいて見つけた文言である。

妙好人とは浄土宗、浄土真宗で、在俗にあって、その素朴な信仰の深さから人々の尊敬を受けた人たちである。

他力宗の生命は実にいかめしい学匠達や堂堂たる建築の中に在るのでなくして、実は市井の人、無学文盲ともいわれ得る、賤が伏屋に起臥する人達の中に在ることを知った。

と、鈴木大拙は書いた。あ、ちなみに鈴木大拙は世界的な禅の人です(適当なまとめ)。

とはいえ、「他力宗」やほかの宗教への関心もあって、このような本をまとめている。

この「序」には、先ほど出た曽我量深も「他力宗第一流の権威者」として出てくる。

 

鈴木大拙、あるいは禅宗と日本主義、あるいは戦争となると、これまた一冊の本になるくらいのものだろう。

とはいえ、ここでおれが気にしたのは、他ならぬ妙好人の言葉として採取されたものである。あ、ちなみ鈴木大拙自身によるものではなく、付録として掲載されていたものである。

その妙好人は小川仲造。検索すると出てくるのでお読みいただきたい。で、おれが当時気になったのが次の言葉である。

此度も身こそろしやにゆかずとも、銃はろしやにむけまする、心の国が一大事。

御国の為に、法の為、ここが御恩の報じどき、すすんで、てつだい、いたしましょ。

明治三十七年二月日露戦争につき、
国債応募のよろこび
よろこべよろこべもろともに、
ほとけが陛下と御出世か、
大臣軍人みな神か。
ろしやのあくまをごうぶくし、
せかいのわざわい、はらはんと、
とうとい御徳があらはれて、
あさ日が山ばにおあがりで、
せかいに光りがかがやいた。
よろこべよろこべもろともに、。
おじひのなかまに、いれられて、
けつこうな申しこみができました。
こころはろしやにはこびます。
ここが御おんのほうじどき、
どなたもどなたも御一同に、
すすんでてつだいいたしましょう。
ていこくまんざい、まんまんざい。

第二次世界大戦ではなく、日露戦争当時の言葉である。

しかし、おれはここになにやら、危うさを感じた。妙好人とは、学識者でもなく、修行を積んだ僧でもなく、むしろアウトサイダー的な存在である。

その素朴さ、純朴さに「他力宗」の真髄が見られるといっていいかもしれない。

 

が、これはどうだろう。「ろしや」に心の銃を向けている。帝国万歳と言っている。

 

おれはこれを、彼らの素朴さ、純朴さゆえに、まわりの人や時代の空気になじんでしまったものかと思っていた。

もちろん、そういう面もあるだろう。とはいえ、国体論のなかに「他力宗」があり、「他力宗」のなかに日本主義に接近する要素があったとしたら、妙好人がその方面からの影響を受けていた可能性も排除できないのではないか。

 

このように、浄土真宗のような宗教にあっても、政治と無縁ではいられないということがある。浄土真宗だからこその、ことだろうか。

 

このところ問題になっているのは新興宗教だ。だが、伝統宗教であっても、やはりなんらかの危険性はある。

宗教に危険性がある、というのではない。人間には危険性がある、といってもいいだろう。

 

『親鸞と日本主義』に出てきた日本主義者たちも、彼らの人生というものを真面目に悩み、そしてある思想に行き着いたりしたのだ。それは、今も昔も大昔も変わるまい。おれもいつどこでなにかにはまり込むかわからない。

 

突然、カート・ヴォネガットの言葉で終わろう。

「人生にご用心!」

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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