書くということ
おれは2022年の1月1日に、自分のブログで「今年は小説を書く」と宣言した。何人かの読者から期待されもした。おれはやる気だった。
しかし、2022年、おれは小説を書くことができなかった。書こうとすらしなかった。一文字も書けなかった。まったく。
……などと書くおれはなんなのか。なんだろうな。ネットの片隅にいる日記書きだ。
それなりに長く書いてきた。書くことは好きだ。ずっと好きだった。
おれは日本語を書くことが得意だと思って生きてきた。身の程に合わない大学に入れたのも、小論文一本で勝ち取ったものだと思っている。だからフランス語の活用が覚えられなくて中退することになったけど。
でも、たとえば、そこらへんを歩いている人を十人くらい集めたら、そのなかで二番目くらいにものを書くのはうまいという自負もある。
もっとも、百人集めたら二十番目、千人集めたら二百番目ということになるのだが。あ、計算合ってるかどうかわからない。算数は小学校以来、理解できていないので。
というわけで、自分についてはなにも誇れるものはないが、書くことについてはちょっとだけ自信がある。
これについて文章で言及するということは、非常にあやういことは承知だ。
なぜならこれも書かれたものだからだ。誤字脱字てにをはの不具合主語述語の不対応、あるかもしれない。あるだろう。でも、たまには言わせてくれ。
そうだ、自分で思いこんでいるだけではない。おれはなんとなく人に「物を書ける人間だ」と思われてきたように思う。インターネットなんてものがなかったころから。
小学生のころ、同級生の母親に「文集で読んだ君の作文はおもしろかった」と言われた。ほとんど見ず知らずの人に文章をほめられるのは初めてだった。
中学では、担任がはじめたクラスノートというものがあった。クラスメートが一行でも一枚のイラストでもいいから、なにか書い回していくノート。
おれはなにか日記のようなものを書いた。変な絵も書いた。あまり親しくない級友から「いつも楽しみにしている」と言われた。悪くない。
おれの書いたものを読んだことがないであろう祖母からは、「黄金頭くんは、小説家に見える」とよく言われた。これはちょっと、よくわからないが。
そこそこ名のしれた雑誌の編集長をしていたという父からも、「おまえは小説家にでもなれ」と言われたことがある。
父自身も文章がうまかった。人格的に破綻していたが、父の読む本のセンスと文章のセンスは信用できた。ちなみに、まだ生きているが、二十年以上会っていない。次に会うのはどちらかが死体になったときだろう。
まあ、よくわからないが、人にほめられることの少ない人生のなかで、唯一と言ってほどほめられたのは、ものを書くことについてだった。ほかにもほめられる技もないではないが、それはここでは書けない。
で、おれは、当たり前のようにネットに文章を垂れ流すようになった。
おれは書くようにできていた。なんの見返りもなく、書く。読む人がいなくても、書く。いまはブログの広告収入があったり、「ほしい物リスト」からお酒を贈ってもらえることもあるが。
しかし、そんなものがなくとも、おれは書いていただろう。それは確信できる。
なぜ小説を書こうと思ったのか?
さて、なぜおれは小説を書こうと思ったのか。それはよくわからない。
いつごろからそう思っていたのかもわからない。中学のころか、高校のころか、あるいは大学を中退してニートになっていたころか。おれは人並みに本も読んでいたし、いろいろなジャンルの小説も読んでいた。
いつしか「おれにも書けるんじゃあないか」と思うようになっていた。おれはいずれ小説を書く。小説家になる。そう思うようになっていた。
ニートになって、なおかつ実家が夜逃げで一家離散したりしたけれど、「おれは書けるし、どうにかなるんじゃないのか」とぼんやり思っていた。
思っていただけで、なにもしなかった。
「なるようになれば、なれるだろう」くらいのものである。
三十代になって、「あれ、ならんのか?」と気づいた。小説を書くには、小説を書かなければならないのだ。しかしおれは小説を書かなかったのだ。
「これはいかんな」と思ったおれはどうしたか。とりあえず、「小説の書き方」のような本を何冊か読んだ。
いわゆるライトノベルの作家になるためのマニュアルのような本も読んだ。あるいは、おれにとって一番の小説家である高橋源一郎の『一億三千万人のための小説教室』のような本を。
しかし、おれは小説を書けなかった。そういった本はためにはなったし、面白くもあった。しかし、小説を書けなかった。
あたりまえだ。小説を書かなければ、小説を書けないのだ。文字を入力すると絵が生成される技術はあっても、本を読んだだけで小説が生成されるという技術は、今のところ存在しない。
なぜ、書けないのか。なぜ、書かないのか。そうだ、いくらテクニックの本を読んで、もしもそれが身についたとしても、書くことがなければ書くことがないからだ。
空白、空白、空白。
あれ、おれ、小説書けないのか?
小説書けないのか?
いや、しかし、なにかやろうと思えば、そりゃ、本気を出せば、なあ、ちょっと、思うがままにペンでスラスラ、いや、キーを叩けばな、やる気になればな、ほら、書けるに違いないだろ。
そうだ、おれは生来なまけぐせがある。何事に対してもやる気というものがなかった。
自分から人生のなにかを決断したということは、これといってない。いや、一つや二つくらいはあるが、恥ずかしいのでここには書けない。
だからあれだ、自分を追いつめるのだ。窮鼠猫を噛む、これである。窮鼠になれ。ビー・ア・ハングリー・マウス。いや、違う。窮鼠は食うために猫を噛むわけじゃない。それはどうでもいい。だからともかく、おれはおれを追い込むことにした。
そして話はこの文章の冒頭に戻る。「今年はなにか完成させる」と宣言する。
これは悪くない。何人かの人はこれを目にする。なんとなく、やらなければならない。やるといってやらないのは情けない。やるなら今しかねえ。自分にノルマを課すのだ。これならやれる。やってやる。
……と、思っていた時期もあったのだけれど、やらんのよな。おれは双極性障害(躁うつ病)なので、たまたま元旦に躁の波がきていたという可能性もある。いや、障害を言い訳にはしない。
でも、ちょっと言い訳させてほしい。抑うつの波が来て、反転して軽躁状態になる。それが通り過ぎると、もうなにかぜんぶ攫われてしまうのだ。
え、躁ならノリノリになって書けるんじゃないかって?
それが、あかんのだ。おれの軽躁というのは、頭が空回りして、歯を食いしばり、歯ぎしりをして、なんかカーっとなって、それで終わりなのである。精神的な高揚感とかやる気とか、やる気が行き過ぎて奇行に走るというところまでいかない。そのていどなので、一晩で生活費を使い切るとかいうこともないのだが。
というわけで、ギリギリの零細企業でギリギリの生活を送りながら、精神の波に溺れつつ日常生活を送っていると、まあ書けんのだ。
あ、言い訳になってるな。言い訳だ。
たとえばおれがこの一年間に書いたすべての文字を集めたら、短編小説一本くらいの量にはなるだろう。おれがなにかわからないものを書いている時間をすべて集めても、短編小説一本くらいは書けるだろう。だが、おれはそうしなかった。できなかった。それだけである。
そもそも小説を書きたいのか?
さて、どうしたものか。とにかく宣言作戦は失敗に終わった。というか、冷静にならなくても、そういうのはあまり意味がないようにも思えてもくる。
おれは人の期待を裏切ることもわりと平気なのである。恥の多い人生なので、べつに恥を恥とも思わない。やらなかったからといって、お金を取られるわけでもない。
もちろん、書いてみて、結果が出なかったら恥ずかしいという想像はある。とはいえ、そんなものは書き切ることのできる人間が考えることだろう。
まず、おれは一文字も書いていない。これは堂々と言い切れる。作品用の新規ファイルを作って、「さあ、書くか」と試したことすらない。
というか、そもそも、おれは小説を書きたいのか、という話になる。そもそも、だ。
ただ小説家になりたいというだけのワナビー、この可能性がある。その線は大いにありうる。なにか賞をとってちやほやされたい。できたらお金持ちになりたい。いまどき小説家が食えるのかどうかわからないけど、いくらかでも競馬の種銭になればいい。そういう下心はある。大いにある。
下心、と書いたが、べつにそれが悪いわけじゃあない。
欲望駆動形で名を成した人もたくさんいるだろう。なにかを生み出すのに、ただ純粋な気持ちだけが必要なんてことはぜんぜんない。そんなのは嘘っぱちだ。……って、なにも生み出していない人間が言っても説得力ないですか。はい。
でも、欲望だけじゃあダメなのも確かだ。書かなければ書けないからだ。
なにもしないで期待だけしているのは、「空から親方が降ってこないかな」と思うのと同じだ。いや、降ってくるのは女の子だ。いやいや、素性不明の女の子が降ってきてもしかたない。
降ってきてほしいのは金だ。あと、ちやほやされたい。モテたい。欲望に忠実になれ。おまえは欲望の犬だ。欲望に向かって吠えろ。そして走れ。
あ、走れないから困っているのであった。
おれは、走れないのか?
さて、いつもどおりなんの目的地も考えずにここまで書いてきたが、あらためて整理してみよう。たまにはおれも整理くらいはする。
・おれは文章が得意なような気がする
・だからおれは小説家になれるような気がする。
・小説家になって、ちやほやされたい。
・しかし小説を書かないので小説が書けないので小説家にはなれない。
どこに問題があるのだろうか。いや、小説を書かないのが悪い。書いてみなければなにも始まらない。
でも、なにを書いていいかわからない。わからないので書けない。そもそも小説ってなにを書けばいいんだ?
というか、世の小説家という人たちは、いったいぜんたいどこからなにを持ってきて、あんなものを書いているのか?
やばい、想像できない。アイディアというものがない。まったくない。空白、空白、空白。
……あれ、おれは小説に向いていないのでは?
どこに向かって走るのか?
というわけで、走れる、走れない以前に、そもそも走る方向が間違っていたのかもしれない。ちょっとだけ作文のうまい小学生が、なんか勘違いしたまま中年になってしまった。
じっさいに書こうともしなかった。書くと宣言したところで、その実、頭の中にはなんにもなかった。これはどうしようもないな。
どうしようもないということは、おれの人生においてだいたいの部分を占めるのだが、書くことについてもどうしようもないのか。
せいぜい、社会の底辺の零細企業で人のメールの代筆をしたり(とりわけ慎重かつ攻撃性が必要な文章を書かされる)、文章の校正をするくらいが関の山か。関の山ってどこの山だ? よくわからない。あとは、何十人かの読者に向かってブログとかいう時代遅れのものを書くだけか。
それも悪くない。悪くないが、夢もない。学識も、仕事の専門知識も、これといって極めた趣味もない。だから、ないないづくしで書くこともない。
書くことがなければ、もしも文章力というものがあっても役に立たない。せいぜいこのように書くことがないということを書くくらいにしかならない。
これは困る。いや、本当に困っているかどうかすらあやしい。
そもそも小説を書くということに対して、それほど執着がないということが明らかになってしまった。それほど、どころか、まったくないといってもいいだろう。なにせ、一文字も書かないのだから。
正直なところ、書くということは自分が持っている唯一の武器のように思っている。
思っているが、文章力を活かせるんじゃないか勝手に思っていた小説には向いていない。向き不向きと同時に、方向性についても、だ。
おれの文章は少しお金やお酒になるけれど、たくさんのお金にもならないし、すごくちやほやされるものにもならない。
わかってしまうと面白くないな。やはり、なにか書きたい、一つのものをものにしたいという思いは捨てないことにしよう。
小説がつかめるその瞬間がきたら、それを逃さないようにしよう。こなかったらそれまでだ。
べつにそれでいい。少なくとも、おれが頭で考えて、理屈でひねり出せるようなものではない。創作というのは、そういうものだろう、たぶん。これも言い訳か。
でも、なにか一つのアイディアが、きっかけが、種があれば、小説だって書けるんじゃないだろうか。
ただ、その種がなんなのか、見たことがないからわからない。空想や妄想はできる。浅い眠りのなか、気に食わない夢の展開を何回もリテイクすることもある。でも、それは種じゃない。
だれか最初の一文字を与えてくれ、と言いたくもなる。ひょっとしたら、それを引き受けて、受動的に書くことも可能かもしれない。いや、それも甘いか。
たとえば、「空から親方が降ってきた」と書いたら、そこから話を発展させるくらいじゃなきゃだめだろう。それは大工の親方か? 相撲の親方か? 相撲の親方だったら、受け止めきれずに圧死してしまうのではないか? おれには想像がつかない。創造ができない。
でも、いつかできるかもしれない。おれひとり勝手にそう思うことは悪いことじゃない。
ここに書いたことがすべての創作者にばかにされようが、けなされようが、知った話ではない。これはおれの話だ。おれだけの話だ。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
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