「君の名は」や「天気の子」を手掛けた新海誠監督の最新作が公開されたのでみてきた。

映画『すずめの戸締まり』公式サイト

最初に言っておくと実に素晴らしい映画である。

エンタメとしても実によく完成されており、ぜひとも映画館でみるべき作品だと自分は思う。

 

宣伝で「集大成にして最高傑作」と謳っているが、確かにこの作品は新海誠監督作品でよく言及される秒速5センチメートルを「まっすぐいって、右ストレートでぶっとばす」でやっている。

たぶん普通にみていると全然読み解け無い作品でもあると思うので、以下でネタバレ含めあれこれ解釈を加えていこうかと思う。

 

<以下ネタバレあり注意>

 

あなたはこの物語の後ろ戸に気が付きましたか?

本作は日本神話始まりの地である宮崎から物語を端とし、現代日本の中心地である東京を経由した後に、日本最大のトラウマの地である東北へと物語が進む。

 

この作品が日本神話を下地にしている事は明らかだが、それは何も雰囲気にとどまらない。

この作品は後ろ戸ならびに常世と、裏側にも世界がある事を表示しているが、実はその裏側はストーリーにもそのまま組み込まれている。

 

結論から先に言ってしまおう。この作品は表面上のストーリーに混じて、実は裏側でも一つのストーリーが流れている。

 

その裏側のストーリーを配置された様々なモチーフをカギに読み解くと、この物語は前半である宮崎~東京で男女の失恋話が描かれており、後半の東京~東北への旅は失恋を乗り越えて結ばれる男女の物語が描かれている。

以下、それを順順に説明していこう。

 

閉じ師は英雄のモチーフである

この物語でユニークなのが閉じ師である宗像 草太だ。

彼は東京で大学生をやりつつ、パートタイムで閉じ師という活動も行っており、それにより日本各地を旅する事を余儀なくされている。

 

閉じ師がこの物語のキーとなっている事は間違いないのだが、これが何のモチーフかといえば日本神話でいうところの”英雄”である。

 

日本神話において”英雄”は様々な場所へと旅する事は普通の事であった。

そして英雄は各地で様々な問題を解決し、恋愛をして、子を成す。

こうして各地で英雄の子が生まれ、そこで英雄の血を持った子供が育つ。

 

こういった現象は日本昔話だと鶴の恩返しでも描かれている。

一節によるとあの物語における鶴とは女人の象徴であり、彼女らは優秀な旅人を家に迎い入れ、そこで優秀な遺伝子を取り入れて、子孫繁栄を目論む女系一族なのだという(たぶん愛媛の宿はコレ)

 

改めて考えてみて欲しいのだが、宗像 草太は主人公補正がかかっているとはいえ、ちょっとモテすぎである。

その事は主人公である岩戸 鈴芽が彼の暮らすアパートに訪れた際に最も明らかにされる。

 

彼はおそらく至極普通に暮らしているだけなのだが、それなのに店員として働いている老女にも若女にもモテモテだ。

おまけに女だけでなく男(友人である芹澤 朋也)にもである。

これは彼から英雄としてのある種のカリスマ性が放出されている事の演出だ。

 

そもそも、最初の冒頭からして凄い。

普通に歩いているだけで若い女子高生は誘惑されて、かつその後に宮崎の地の扉を閉じた後にその女の家にスルッと上がりこんですらいる。

 

もちろん、これは彼が腕を怪我したが故の措置なのだけど、こういう偶然の痛手ですらキッカケに変えうるのが”英雄”としての才能だ。

彼はこういう異常ともいえる天性の才能でもって各地を英雄として巡回し、そしてその度に各地で女人と恋をするという生き方をする種族の末裔である。

 

この時点では「いや…ちょっとそれは深読みしすぎだろ」と思われる人もいるかもしれないが、そういう人もこれから先の説明を読めば十分に納得してくれると思う。

ひとまず、話を先に続けるとしよう。

 

ダイジンはなぜ宗像 草太を椅子に変えたのか

宗像 草太はこういう不思議な魅力でもって女の子といい雰囲気になるという特異な才能を持っている。

 

主人公である岩戸 鈴芽も、普通にしていたら包帯手当の時にでも手籠にされていたのかもしれないが…ここで元・要石であったダイジンが絶妙なタイミングで出現し、宗像 草太を椅子へと変えてしまう。

この事により、宗像 草太は絶対に女人に手を出せない存在となってしまう。

 

椅子となった宗像 草太は寝るたびにコロンと転ぶが、これは寝る≒SEX・立たない≒勃たないのメタファーだ。

こうして貞操帯のようなものを装着された状態で、岩戸 鈴芽はダイジンに導かれて閉じ師の仕事がどのようなものなのかの実情を知らされていく。

 

まず愛媛の女子高生の時点から色々な意味で凄い。

宗像 草太のカリスマだけが発揮された状態の岩戸 鈴芽は、みかんを上手にキャッチしただけで突然いい雰囲気になる。

それだけではなく、岩戸 鈴芽は学校の扉を閉じた後は一宿一飯の恩義すら返される有様である。

 

他にも突然宿が商売繁盛になったりと、彼・彼女らは”なにか特別なもの”を持っているとしか思えない描写が続く。

この物語で後ろ戸は最初から最後まで暗に男女の仲を匂わせる描写ばかりが続く。

 

最初の宮崎は”温泉街”、そして次の愛媛は”学校”だ。

おそらくなのだけど、あの後ろ戸が開いていた学校で愛媛の女子高生は男子と恋仲になり、そこで色々な手痛い経験をしたのだろう。

 

そこでうごめく無意識のエゴがミミズとなってグツグツと沸騰していたわけだけど、それを岩戸 鈴芽と宗像 草太は思い出に心を馳せて共感した上で鎮魂し、後ろ戸を締める。

 

こうして心の痛い部分に共感して貰えた愛媛の女子高生は、その対価として当然のように一宿一飯の恩義を返すわけだけど、もしこれが宗像 草太だけ戸締まりをやっていたら、おそらくなのだけど一時的ではあるが”恋仲”になっていたはずだ。

 

親がどんなに言い聞かせても、子供はいう事なんて聞かない

なぜダイジンはこの地に岩戸 鈴芽をわざわざ導いたのか?

それは岩戸 鈴芽に「閉じ師として生きている宗像 草太にくっついていったら、お前はこういう浮気者と生涯を共にする事になるのだぞ?」と目の前に現実を突きつけているのである。

 

これが深読みのし過ぎではないだろう事は、次の扉が開く地である神戸での描写からも明らかだ。

ここで岩戸 鈴芽はシングルマザーに手引かれて、父親不在でもって子供の相手をする事がどれだけ大変な事なのかを体験させられる。

 

「私、子育て無理かも…」と一瞬にして感じさせられるぐらいに子供の相手が大変である事を知らされる中、真夜中の遊園地で次の扉が開く。

この遊園地は間違いなくシングルマザー・カップルがかつて恋をした場所だ。

わざわざ観覧車という、男女のカップルが恋をよく感じられる場所を扉にしている事もこの解釈を後押しする。

 

この地でダイジンが言いたい事はもちろん「閉じ師として生きている宗像 草太にくっついていったら、お前はシングルマザーに近い生活を余儀なくされるのだぞ?」という事だ。

 

だが、そんなダイジンの忠告ももちろん無視して岩戸 鈴芽は宗像 草太を”尻に敷く”姿を視聴者にみせ、自分は大丈夫だと強く主張する(ちなみに、もし仮に宗像 草太が椅子でなかったらスナックで働く従業員ミキと懇ろになっていただろう)

 

東京で恐らく一度、岩戸 鈴芽と宗像 草太は破局する

こうして再三のダイジンの忠告を無視して岩戸 鈴芽は宗像 草太を追っかけて、東京の地へと踏み入れる。

恋で目がくらみまくった彼女は東京で夢のような暮らしを想像していたのだが、英雄としての閉じ師活動を辞められない宗像 草太の行動原理についていけず、恐らく東京にて盛大に破局を迎える(別れる)

 

ここで宗像 草太が要石となるのは偶然でもなんでもない。要石とは恐らくなのだけど岩戸 鈴芽の心が”そこ”に根ざすという印である。

最初の宮崎の地に留まっていたのは、ダイジンが要石としてしっかりとあの地に根ざしていたからで、それが外れたから岩戸 鈴芽は宮崎の地を出る事ができた。

 

東京の地にてダイジンは「自分はもう要石ではない。要石としての役割は宗像 草太に移した」と言っていた。

これは何もイジワルでそうしたわけではなく、本当に役割が移ったのだ。だからこの時点ではダイジンは要石に”なれない”。

 

ダイジンの正体

そもそもダイジンとは何か。

1つ目のヒントは神戸のスナックにて渋めでステキだと言われている点にある。これでダイジンが男性である事が示唆されている。

2つ目のヒントは当て字で、実は小説版ではダイジンは”大尽”という当て字が示されている。

 

直読みそのままで、大きく尽くすだが、岩戸 鈴芽にそれまでのあいだ大きく尽くしてくれていたモノ…そして要石が2つあるという3つ目のヒントを組み合わせると、ダイジンの正体は父性であろう。

 

これは個人に内在するモノというよりも、恐らくなのだけど土地に根ざしていたモノのように思う。

以前は子供というものは個人が育てるモノというよりも、授かった宝として土地で育てるものだと相場が決まっていた。

現代だと父性は個人にしか宿らないもののように感じてしまうけれど、本来は父性というのは共同体が持つものであった。

 

宮崎の地に根ざしていた父性でもって岩戸 鈴芽は宮崎という地で”育ててもらえていた”わけだが、その楔を引き抜くキッカケを与えたのは宗像 草太その人である。

 

宗像 草太が持つ父性に導かれ岩戸 鈴芽は土地を離れる事ができたわけだけど…親というのは複雑なものだ。

特に子供が誰かと男女の仲として付き合うともなると、まるで手塩にかけて育てた自分自身の身が引き裂かれるような辛さがある。

 

だからダイジンは宗像 草太の事が嫌いで、彼をイスとして不虞者にした上で二人に「お前ら本当にやってけんのか?」と問うために、彼・彼女を猫の姿でもって導くのだ。

 

岩戸 鈴芽・宗像 草太は一度別れた上で、再びくっつく

繰り返しになるが二人は一度東京で破局する。なぜそう思うのかというと、理由は2つある。

 

1つ目は東京のミミズを抑えた後の岩戸 鈴芽の描写だ。

彼女はそれまでは身なりがキレイで、パッと見ただけではとても家出少女なんかにはみえなかったのに、東京の後ろ戸を閉じた後は見事に傷だらけの誰がみても家出少女そのままの出で立ちとなる。

 

あの身体的な傷表現は彼女の傷心を現しているのだが、実はもう一つかなりキワドイシーンがある。

シャワーで足裏の血を洗い流すシーンだ。

 

冒頭で宮崎の最初の後ろ戸の水辺に岩戸 鈴芽が立ち入る際、多くの人はこう思ったはずだ。

「なんでこいつ、水の中に入るのに靴脱がないの?」

 

これは1つには震災による心の後遺症(これについては後述する)があるのだが、実はもう一つ非常に大切なメタメッセージがある。それは岩戸 鈴芽が生娘であるという事の暗喩である(脱衣していないというメタメッセージ)。

 

この物語はそれなりに暴力性があるにもかかわらず、血はたった二箇所しか出ない。だから血が出るときには必ず意図がある。

1つは宗像 草太の腕の傷で、冒頭で書いた通り彼はこの傷をキッカケにして岩戸 鈴芽と本当だったらねんごろな関係になるはずだった(結局、ダイジンに阻止されるのだが)

 

この事から、この物語では血が肉体関係を示す事が暗示されるのだけど、その血が次に出るのはボロボロになった岩戸 鈴芽の姿である。

 

彼女は東京でミミズを封じる際に靴を脱ぐ(脱衣する)。

そこで宗像 草太とメチャクチャな修羅場を迎え、最終的には深層心理に要石として宗像 草太(父性)を打ち込む形で、己のエゴを抑え込む事になる。

 

この行為を通じて、岩戸 鈴芽がボロボロになり、かつ脱衣した結果の血をシャワーで洗い流すのだから、これは間違いなく処女喪失シーンのメタファーだ。

彼女は東京で宗像 草太壮絶な恋愛をやり、壮絶に破局するのである。

 

わざわざ何で一度手を離したか

もう1つの東京での破局を示すのが常世から宗像 草太を救い出すあのシーンである。

 

東北の地でも岩戸 鈴芽はエゴの世界である常世で宗像 草太の手を一度つかんだものの、手放している(その後はより強い力で引っ張り上げているのだが)

これは一度は自分の手で彼を掴んだものの、様々な苦難で「手を離さざるをえなかった」事のメタファーだ。そう考えないと、どう考えてもわざわざ手を離すだなんて細かい演出をわざわざ描いて混じる意味が無い。

 

岩戸 鈴芽と宗像 草太は一度破局を迎えつつも、しっかりとお互いが自分自身の深層心理にまで潜りこみ、その上でお互いが必要な存在だと心の底から確信したが故に、復縁する事に成功した。

 

その破壊と再生を描いたのがあのシーンの意味だと思う。

物語最後で岩戸 鈴芽が一緒に車で帰らずに閉じ師として宗像 草太が働きに出る姿をキチンと送り出せたのは、そういう精神的な成熟の現れなのだと僕は思う。

 

閉じ師をなぜコッソリやる必要があるのか?

宗像 草太は作中で

「閉じ師がかつては他にもいた事(前回の関東大震災は複数人で抑えたと言っていた)」

「閉じ師のような大切な活動はコッソリやるんだ」

「本業は本業でしっかりやる」

と閉じ師(英雄)としての活動は暗躍するものである事を示唆していた。

 

どうして英雄活動なのに、コッソリやらねばならないのか?

それは現代では既に英雄活動は既に公には許されない行いとなってしまったからだ。

 

実際のところ英雄活動に限らず本妻と現地妻のような関係は日本では以前は普通に行われていた。

例えば一流企業の総合職の転勤やキャリア官僚や医師の地方出向というように、日本では鬼の居ぬ間に洗濯という、地方ではっちゃける行為は”そういうもの”として通用していた(だから本妻を抱えての出向は手弁当と呼ばれて馬鹿にされていた)

 

この物語では岩戸 鈴芽から父親の香りが本当に皆無だが、恐らくなのだけど岩戸 鈴芽はそういう流れで母との間に生まれた子だ。

彼女も宗像 草太と同じく、いわゆる普通の一夫一婦性の家庭師の出身ではない。

 

また、宗像 草太からは母親どころか父親の香りすら皆無だが、これも祖父が閉じ師(英雄)の一環の中で作られた縁無き子となった彼を引き取って育てたが故の事なのだと思う。

これらは現代では正しくない家庭関係であり、不幸なものだとされがちだが、そもそも歴史を紐解けば私達の誰もがそういう流れに一度や二度は居た事だろう。

 

現代は”正しい規範”から外れたものを忌み嫌う傾向があるが、そういう”正しさ”に過度にこだわりすぎる事が本当によい事なのかというのは、実際問題として確かにある。

 

不倫や無責任な孕ませを積極的に肯定するわけではないが、そもそも生物としての血の流れというのはそういう流れと絶対に切り離せない。

 

それは重々承知した上で、じゃあどうすればいいのか。それが”コッソリ”やれという事なのだ。

だから本業は本業でちゃんとやって(本妻)、閉じ師のような大切な活動はコッソリやる(現地妻)ものなのだと宗像 草太は言ったのである。

 

欠けた者達の奏でる旋律

この物語の登場人物は色々な意味で欠けている。

例えば岩戸 鈴芽。彼女がおかしい事は冒頭シーンの水辺にポツンの浮かぶ後ろ扉に”靴を履いたまま”立ち入るシーンや「死ぬのが怖くない」という発言からも読み解く事ができる。

 

あの後ろ戸は言うまでもなく震災によって発生した津波による心情心理を描いている。

普通の人なら水辺に靴を履いたまま入るだなんて事は絶対にしないし、死ぬのだって怖いはずなのだが、岩戸 鈴芽にはその感覚が欠落している。

 

何故か?それは彼女が震災でもって常識を破壊されたからだ。震災ならびに津波という極限状態下にあるのなら「靴も靴下も脱がずに扉まで進む」のが普通だ。

 

問題なのは、劇中はもう震災中ではないという事にある。

岩戸 鈴芽は震災から12年もたったのに、未だに過去に向き合えず、心が震災に囚われている。

だから彼女はどこかちょっと”おかしい”。

 

そんな壊れた彼女は壊れているからこそ閉じ師としての宗像 草太を他の現地妻達とは異なり一夜限りでは無い形で愛してしまうし、常世(あの世)が見えるし、普通の女性達と違って後ろ扉を通じて少し過去に共感してもらえた位では癒やされない。

 

彼女自身が心の底から回復する為には、自分自身の過去とキチンと対峙しなくてはならない。

そのために岩戸 鈴芽はポンコツ車に乗って、懐メロを流し(昔の事をタラタラ未練がましく思い出す、傷心旅行のモチーフだろう)、恋人の友人と義母と共に己のルーツへと向かう。

 

黒いダイジンの正体

先ほど僕は要石とは岩戸 鈴芽が””そこ”に留まるシコリのようなものであり、ダイジンとは父性のモチーフだと書いた。

「それじゃあ黒いダイジン、ウダイジンって何なの?」と思った読者も多かっただろうが、いうまでもなくそれは母性である。

恐らく育ての母としての乳母(うば)にかけてウ・ダイジンなのだろう(だからダイジンはサ・ダイジンではない)

 

ウダイジンは東北の地で2つある要石のうちの一つとして、岩戸 鈴芽のエゴであるミミズを必死になって抑えていてくれたわけだが、それと同時に黒塗りにされ岩戸 鈴芽の心から丁寧に消されていた(絵日記にもあるように、この映画では黒塗りは隠されているものである)

 

こうしてトラウマとして裏に隠されていたウダイジンだが、ウダイジンの姿は12年にも及ぶ義母である岩戸 環の献身的な支えと、閉じ師である宗像 草太との恋を通じて人間的に強くなった岩戸 鈴芽の心にようやく目に見える存在として立ち上がる。

 

こうしてトラウマに立ち向かえるようになった岩戸 鈴芽に対して、義母である岩戸 椿芽は母性無き”女”として姿で対立できるようになる(思い出してほしいのだが、彼女はLINEで50回以上も通知するぐらいには母性に囚われていた)

 

そうして義母・岩戸 環は母親としての役割から解き放たれる。そしてウダイジンは岩戸 環を母親としての役割から”解放”する。

だから今まで思っていても絶対に言えなかった事を義母・岩戸 環はあのとき言えたのだし「あなたは誰?」と岩戸 鈴芽はウダイジンに言えたのだ。

 

こうして人間として成熟した岩戸 鈴芽は父性と母性という大人(ダイジン)の資格を己に備えてる事となり、暴れる己のエゴを安定される楔として機能するようになる。

宗像 草太に頼らずとも自分自身で父性を備え、義母・岩戸 環に頼らずとも分自身で母性を備える事ができたからこそ、彼女は要石としての宗像 草太を引き抜く事ができたのだ。

 

こうして深層心理で暴れまわっていた岩戸 鈴芽のエゴは”安定”する事ができるようになったわけだが、彼女自身はようやくトラウマから離れて一人の人間として自立する事ができるようになる。

 

こうして父と母、2つの性でもって己のエゴに本当に意味で楔を打ち込む事に成功した岩戸 鈴芽は親離れに成功し、一人の個人として独立し、本当の意味で好きな人とパートナーとして結ばれる。

この物語は未熟だった女性が失恋を通じて立ち上がる物語なのである。

 

眼の前の現実を現実をキチンと真正面から見据えて淡々とやり続けるしかない

そうして彼女は自分自身と向かい合うことになる。

黒塗りにされていた記憶に光をあてられた先にいたのは、実は自分が母だと思っていた人が、未来の自分自身の姿であったという本当の真実だ。

 

そので取りなされる会話は感動的なものだ。

この世は無常で、どんなに酷い事があったとしても明日は必ずくる、いや…やってきてしまう。

回転する輪廻の理を示すような星空と共に

 

「この先、ちゃんと大きくなる」

「だから心配しないで、未来は怖くない」

「今は真っ暗闇にみえるかもしれないけど、ちゃんと必ず朝がくる」

「あなたは光の中で、大人になっていく」

と過去の自分を癒す事を通じて今現在の自分自身を癒やす。そして己の後ろ戸に鍵を閉め、未来へと向かっていく。

 

ここで新海誠監督が言いたかった事は「結局…救われたいのなら、眼の前の現実を現実をキチンと真正面から見据えて淡々とやり続けるしかない」という事だ。

 

例えばである。私たちは誰もが心に何らかの被害者意識を持って生きているものだが、実のところ被害者意識というのは”自分自身を、自分自身から目を背ける”ものだ。

 

本作品でも、現時点でもう散々ともいえるほどに「震災のトラウマ」を刺激する点が頂けないという批判が出ている。

もちろん…トラウマというものは酷く取り扱いが難しい性質のものだ。それに関しては異論はない。

しかし…同時にトラウマというものは向き合わねば、いつまでたっても”そのまま”であり続けるものでもある。

 

そうやって、臭いものに蓋というように”触れられないまま”であり続ける事が本当に良い事なのか。

何もそれは震災に限った話ではない。英雄や本妻・現地妻としての関係もそうだ。

 

もちろん、これらは現代社会の風習では大っぴらに褒められるような性質のものではない。

しかし…これらを良くない事として”正しさ”で覆い隠すだなんて、もう無理なのではないだろうか?

 

だからこの物語は様々な場所で現代社会ではよくないものとして「隠されている」ものが大っぴらに演じられている。

 

いいかげん、社会規範としての正しさから離れよう

この物語は本当に様々な場所に現代社会では”いけない”とされている事が仕込まれている。

 

最初の地である愛媛では、現代社会の”正しさ”からすれば学業に専念すべきはずの女子高生である。

彼女は恐らくなのだけど無賃金で家業という名目で働かされている。未成年なのにである。

 

過激なリベラル派がみれば「親が子供を搾取している」と顔を真赤にして激高しそうなシチュエーションだが、そもそもそれは本当に駄目な事なのだろうか?

昔なら家業を手伝うのは普通の事であったし、高校生の誰もが学業に専念して大学に進学して一流企業の就職を目指すだなんて価値観は、やはりちょっと”おかしい”。

 

頭で考えた”正しさ”に中途半端に汚染されて被害者意識を拗らせるより、なんていうかもうちょっと目の前の現実を淡々と見据えて、しっかり人生をやった方がいいんじゃないだろうか?

それで実際この女子高生は幸せそうだし、それで十分なんじゃないかと自分は思う。

 

次の神戸の夜職だってそうだ。これらは現代社会の”正しい”とされている価値観からは忌むべきものなのかもしれない。

女性性を切り売りして、お酒を売って、男は妻子を養わずにいる。

どう考えても現代社会の”正しい”規範の外にいるが、やっぱりこれらの人達もなんていうかそこまで不幸そうには見えない。

 

物凄い幸せというわけではないかもしれないが、しっかりと目の前の現実を見据えて、それでいて駄目をやりつつ日常を上手にやりくりしているようにみえる。

 

ポテサラ×焼きうどんという、炭水化物に炭水化物をかけ合わせるようなメニューを夜食に食べるという”現代的にはいけない事”をコッソリと楽しみつつシッカリと生きているその姿は、頭で考えた”正しい”人生をやっている人間なんかよりも、よっぽど偉いのではないだろうか?

 

他にも失恋もそうだ。主人公とヒロインの破局描写だなんて、それこそ現代のエンタメでは絶対に許されない性質のモノだけど、それだって改めて考えてみれば本当にいけない事なのだろうか?

 

本音でもって、ちゃんと真正面からぶつかりあって意見を交換しなくちゃ、いつまでたってもキチンとした心の交流なんてできないままだろう。

本当にお互いが必要なら、仮に一度は破綻を迎えた所で絶対に関係は修復できる。それぐらいキチンとぶつからないと、恋はいつまでたってもかりそめなままだ。

 

ちなみにこの作品が「集大成にして最高傑作」と公式が煽ってるのは、これがちゃんと失恋を描いた物語だからだと思う。

かつて”秒速5センチメートル”などで失恋の喪失を描き、その後に”君の名は”以降は幸福なラブストーリーしか描けないという葛藤を、破局→やり直しという形でぶち破ったのだから本当に恐れ入る。これなら旧新海誠ファンも新新海誠ファンも”納得”するしかない。

 

他にもタバコに車検を絶対に通過しない車での運転などなど…本当にこの物語は”いけない”モノばっかりである(けどルールはちゃんと守ってる。携帯灰皿を使ったりとか。それが重要なのだ)

けど、そんな”いけない”モノをやっている人ほど、ちゃんと現実を見据えて生きているものこの物語なのである。本当に”いけない”ものが何なのか。改めて自分の胸に手を当てて考えたくなってはこないだろうか?

 

現代の感覚にそぐわないものを、よくないものとして封殺しようとする現代の風習にド直球で「まっすぐいって、右ストレートでぶっとばす」をやってきた新海誠監督に、僕は盛大に拍手を送りたい。

あんた本当にスゲェよ。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Jan Tinneberg