『人間はどこまで家畜か』をお送りいただく

シロクマ先生……熊代亨氏、早川書房さまより『人間はどこまで家畜か:現代人の精神構造』を恵贈いただきました。消費者庁のガイドラインに沿って書きました。なのでこの記事はステマではないです。あとはなに書いてもいいんだよな?

 

おれと進化心理学

して、この本をお送りいただくにあたって、シロクマ先生より、「こいつはこのへんのことに興味がありそうだ」とお考えになられたようです。

たしかに、おれは以前、進化心理学の本を何冊か読んだ。読んで、その感想を自分のブログに書いたこともあった。

 

進化心理学……、人間の心理というものもダーウィンの自然選択によって進化してきたものだという考え方だ。理にかなっていると思った。
そんな中で見かけたのが「楽園追放仮説」だった。

まさに『進化心理学入門』という本で紹介されていた。その仮説を唱えたと紹介されていたのは、連続爆弾魔「ユナボマー」として知られるセオドア・カジンスキー。次の文を『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されるよう脅迫した。

現代社会の社会的・心理的問題は、ヒトという種が進化してきた条件とはまるで違う条件の下で生きるよう、社会が人々に強いていることに原因がある。

カジンスキーは8回分の終身刑に処され、2023年に自殺した。

 

まあべつに、カジンスキーのオリジナルのアイディアというわけでもない。そういう発想はある。

人類の脳が今と変わらないものとして成立したときと現代では、社会、文明、文化が変化しすぎている。人間の脳は、人類の曙に適応したままなのに、生活環境の何もかもが変わってしまった。現代人の心理的な苦しみはそこにある。われわれはわれわれが適応した楽園から追放されたのだ。いや、自らの手によって追放したと言えるかもしれない。

 

精神障害者保健福祉手帳を持っているくらいには病んでいて、幼少期より人間集団、組織にまるでなじむことができなかったおれにとって、そのアイディアは悪くなかった。おれの脳は古代人のままなのに、この現代社会に適応していないのだ。

 

……って、おれみたいなのは少数派だよな。たまたま古代人の血が濃いのか。よくわからない。まあ、そんなんで進化心理学は心のどこかで興味ありつつも、「そんなものだろう」の箱に入れておいた。

 

ほかに印象深かった本は、このあたりの本だろうか。

 

新しい知見「自己家畜化」

して、熊代亨先生の『人類はどこまで家畜か』である。本書の挑発的なタイトルにある家畜。人類は自らを家畜化してきたという。自己家畜化。そんな発想はまったく知らなかった。この本で知った。

人間が作り出した人工的な社会・文化・環境のもとで、より穏やかで協力的な性質を持つよう自ら進化してきた、そのような生物学的な変化のこと

これである。家畜化という変化については、ネコの本を読んだときに知った。あとは、この本でも紹介されている、ソ連のギンギツネの実験もネットで読んだことはある。

 

人類も、家畜化した。それは化石研究でも明らかにされているという話だし、周囲の環境を家畜化させるなかで、相互の作用で人間も家畜化していったのではないかという。

 

そして、文明成立以後もピンカーの『暴力の人類史』をもとに、どれだけ人間が人間を殺さなくなってきたかという話になる。なるほど、暴力と死はかんぜんになくなったとはいえないけれど、ものすごく少なくなった。

 

そして、現代の日本社会ということになる。穏やかで、平和だといっていい。裏側にはなにかあるかもしれないが、だいたいにおいて相当な水準にある。世界的にみてそうだろう。著者はそう言うし、それに異論はない。そして、これこそが、自己家畜化の達成した人間社会ではなかろうか、と。

 

そしてまた、かなり短い時間で、それは進んでいる。昭和と令和。そんな区分で見ても価値観は大いに変わっている。より穏やかに、平和的に。暴力や差別は見えないものとなり、今日がある。

 

正直、おれはこのあたりで時間のスケールがわかりにくくなった。著者は進化というものが現代の技術や社会の移り変わり対してスローすぎるとも述べているが、いったいどのくらいの長さで人間の脳は変化するのだろうか。たとえば、どこかの本でわれわれ人類、10世代遡れば95%が農業をしていたというが、その頃と今と、心理は進化したのだろうか。

 

価値観や文化、もちろん技術は変化した。しかし、脳はどうなのだろう。10世代くらいでもなんらかの自然選択がおきて根本的(なにを人間の根本とするかはさておき)なところで変化が起きるものなのだろうか。ミームの話なのだろうか。このあたりは、もう少し色々な本を読んで勉強したい。幸いにも、本書にはその手かがりが多くある。

 

ともかくとして、著者はこの現代環境に適応した人間を「真・家畜人」と呼ぶ。

野性的で暴力的だった過去の生にNoと言い、今日の文化と環境にふさわしい生にYesと言う。生物学的な自己家畜化を超えて、真・家畜人として文化や環境に飼い馴らされる生を、あなたは満喫していますか。

もし満喫していて、そうした社会と生のありように疑問を感じないなら、真・家畜人として生き、馴らされ、管理されるのもそう悪くはないでしょう。ですがもし、この文化や環境に生きづらさを感じているなら? それでもこの文化や環境を肯定できるでしょうか。そして今後さらに文化や環境が進展し、私たちが生物学的に身に付けている自己家畜化の水準と、“文化的な自己家畜化”のニーズがどこまで乖離していくことさえ肯定できるでしょうか。

そうか、生物学的な家畜化と、文化的な家畜化か。そこの接続はともかく、時代のスケールの違いはここで分けられているのか……などと、読み返して、感想を書いている段階で気づいたことを書くものでもないか。まあいい。もちろん、この書き方からわかるように、著者は「私は無条件に肯定できずにいます」と言う。それが本書の肝心要の部分ということになる。

 

人類は自己家畜化してきた、その末に、本当に家畜のように生きる平和で穏やかな社会が誕生しているかのように見える。もちろん、適応だけでは語れないだろう。たとえば、フーコーの語る「自己のテクノロジー(technologies of the self)のように、自分自身の魂や思考、行為、存在方法に働きかけて、自らの幸福や純潔、知恵、完全無欠、不死に働きかけようとする意思もあるだろう。

 

いずれにせよ、はたしてそれは肯定されるべきかどうか。ちょっと、異を唱えてみたほうがいいんじゃないのか。

 

「家畜」になれないおれ

……して、かような論説に対しておれが何を言えるのだろうか? 高卒のおれには学識も医師の資格もない。当たり前だ。しかし、一つの立場を取ることができる。「家畜になれない者」だ。

 

おれは双極性障害(躁うつ病)の精神障害者だ。当然のことながら、この現代日本の労働において求められている人間ではない。正式な診断は受けていないが、かかりつけ医との会話の中で、いわゆる発達障害(ADHD)である可能性が大いにあると示唆もされている。各種チェックをしても、その可能性は高い。

私は無条件に肯定できずにいます。なぜならその“文化的な自己家畜化”についていけないとおぼしき人々、ここでいう真・家畜人として今日の文化や環境に適応できず、条件付きの生を生きざるを得ない人々のことを知っているからです。

たとえば昨今の精神医療の現場は、そうした人々の浮かび上がってくる場のひとつではないでしょうか。

おれは医療の現場で浮かび上がってくる人間の一人だ。精神科医はたくさんのそういう人を見ている。ただ、おれは一人の人間として自分の精神科医に向き合っている。もちろん、まだ精神疾患の診断には光トポグラフィー検査が十分に成立しているわけでもなく、自分が意図せぬローゼンハン実験の仕掛け人になっている可能性もあるのだが。

 

しかして、おれのような現代の家畜化された人間が望ましいとされる社会で、そうなれなかった人間がどう生きるのか。

これは悲惨なものである。幼稚園のころから集団というものに馴染めず、待っているのは孤立しかない。人間の集団でうまく立ち振る舞う術を知らない。わからない。

 

結局、おれは大学に入ってすぐに、もう耐えられなくなった。健常者のルートから外れて、ひきこもりのニートになった。ニートで実家ぐらしをしていたら、親が事業に失敗して一家離散となった。

そのあとは給料が出るか出ないかわからない零細企業で二十年以上働いている。働いているといっても、双極性障害が出てきてからは、一週間まともに朝から働けたら上出来すぎるというくらいだ。おれのタイムカードの、ただ単に動けなかったから出られなかったという理由の「午後出社」の多さよ。

 

そんな人間が、たとえば自分だけの世界を作って、楽しく生きることができるのか? できるやつはできるだろう。おれも孤立にいくらかは耐えられる精神の方向性を持っている。そうでなければいま生きていないだろう。

とはいえ、完全に孤立を克服して、なおかつ現代において価値、金銭的な価値を生み出せるものような才能はもっていない。貧乏に慣れるというのも真・家畜人になれなかった人間の生きるすべだろうか。

 

その人生は悲惨なものだ。安楽な家畜にすらなれない。家畜小屋の中にいるのに、餌を与えられない。かといって、檻を破壊して自由の身になって、自然界で生きていくこともできない。

 

本書では「エンハンスメント」という言葉も問題になっている。能力向上のためにどれだけ向精神薬が用いられるべきかどうか。

かつてアメリカでプロザック・ブームが起きたのも「本来の自分」や「明るくポジティブ性格」を求めてのことだった。大うつ病性障害でもない人間が、プロザックで人格を変えてハッピーになろうとする。マイナスからゼロにではなく、ゼロからプラスへ。おれは基本的にマイナスなので、エンハンスメントにはならないだろうが。

 

本書でも取り上げられている『リベラル優生主義と正義』では、こんな文章があった。

人が子を残すとはなんぞや? 『リベラル優生主義と正義』を読む – 関内関外日記

……つまり、彼らにとって、人間は単なる生物学的存在ではなく、自らの生物学的諸特徴を観察・研究の対象ともすることができる合理的・自律的存在なのである。自己意識を持つ、道徳的主体である「人格」は当然、自分自身の生物学的身体をも操作・改変可能な客体として認識することができる。
「第三章 リベラル優生主義の倫理的正当化」

これはもう、たとえば、生態心理学者のエドワード・S・リードが批判するところの、人間の機械視といえるかもしれない。そのあたりはよくわからん。ただ、「心」も操作・可変可能なのではないか?

 

で、おれの行き着く先はベンゾジアゼピン系の抗不安剤(時代遅れ)とアルコールとのチャンポンだ。目の前の不安を消すことが高い優先順位を占める。不安以上に、抗精神病薬を飲んでいても襲われる重い抑うつ、身体の鉛状麻痺があるが、もうそれはどうにもならないと諦めている。

 

こんな人間は、この世に存在していてはいけないと思うばかりだ。これは不幸であって、この世の不幸を増大させているだけだ。おれも不幸だし、周りの人間も不幸にさせる。

 

おれは、「家畜にすらなれない人間がどう生きていくべきか?」などと考えない。家畜になろうと、家畜になれなかろうと、一切の生がなくなれば、不幸は再生産されない。

 

ゆえにおれはラディカルな反出生主義者だ。おれのような人間がこれ以上生まれて、不幸を積み重ねるようなことがあってはならない。不幸を再生産させてはならない。せめて、いま生きているすべての人間の幸福に注力すべきであって、無責任に新しい不幸を作り出してはならない。

「今いるのを殺すほどではないが、これ以上増やさなくてもいい」。これはだれの影響でもなく、自分のなかにふっと湧いてきた言葉だ。同じようなことを考える人間もいる。

たしかに、生誕を災厄と考えるのは不愉快なことだ。生まれることは至上の善であり、最悪事は終末こそにあって、決して生涯の開始点にはないと私たちは教えこまれてきたではないか。だが、真の悪は、私たちの背後にあり、前にあるのではない。これこそキリストが見すごしたこと、仏陀がみごとに把握してみせたことなのだ。「弟子たちよ、もしこの世に三つのものが存在しなければ、<完全なるもの>は世に姿を現さないであろう」と仏陀はいった。そして彼は老衰と死との前に、ありとあらゆる病弱・不具のもと、一切の苦難の源として、生まれるという事件を置いたのである。
シオラン『生誕の厄災』

そういう地点から、おれが未来の社会を描くとすれば、こういうことになる。

 

「高度な情報と知性を持ったものはAIのみになり、生殖の本能だけで生きているわずかな人類はドングリを拾って生きている。ほかの動植物と同じように維持・管理されている。質素な服を着た人類は、その日に拾ったドングリと引き換えに、機械によって完全栄養食のパンと塩のスープが与えられる。文明のはすべてAIが行い、家畜ですらない人間が、なんの存在意義もないまま、ときどきの生殖行為とドングリ拾いだけを行う。ドングリは完全栄養食のパンに用いられることもあれば、廃棄されることもある。朝に日はのぼり、夕には日が落ちる。永遠に繰り返される日々になんの変化も訪れない。」

 

これがおれの想定する未来だ。できればあらゆる人間が不幸の再生産をやめるという、獣にはできない選択をしてほしいが、そうもならないだろう。

とはいえ、もう知性のある人は滅んでしまった。残された人間は、AIにドングリを納めるだけの存在だ。家畜以上でらあろうが、幸福といっていいかもしれない。たぶんAIはドングリの拾えない季節でも、哀しい人類に栄養を与えてくれるだろう。愛とは言えないが、慈悲はある。それを信じたいものだ。

 

しかし、そうなることがおれの理想ではない。人類は無益な不幸をこの世に積み重ね、繰り返す必要はない。人類は苦しみの総量を増やすべきではない。人々が新しい不幸を増やさないようになって、この地上からいなくなってしまうのがよい。

 

これが、シロクマ先生の「未来を考えてみませんか?」という問いに対する、あまり模範的ともいえないおれの回答ということになる。おれはこう考えた。

ぜひ、『人間はどこまで家畜か』を読んで、自分の価値と家畜さと人類の未来について考えて、発表してほしいと思う。

 

 

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(2024/12/6更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Benjamin Davies