先日、新宿駅西口の海鮮居酒屋で酒を飲んでいた時のことだ。

飲み会のお相手は、大学教授のミホコさんとプロサックスプレイヤーのさやちゃん、敬愛する友人お二人である。

 

昼の12時を過ぎたばかりだというのに、周囲は同じような呑ん兵衛たちがビールにワインにと、盛り上がりを見せる。

固い木の椅子、安物のテーブルのしつらえが昼飲みの退廃的な雰囲気を盛り上げており、皆が刹那的な楽しみに時間を忘れている。

 

その時にふと、さやちゃんの荷物に目がいった。

明らかに楽器のようだ。もしかしてサックスが入っているのだろうか。

「何言ってるのよ!モモちゃんが時間厳守で12時に来いっていうから、家に持って帰る時間がなかったんやん!」

 

楽器のメンテナンスついでに、飲み会に駆けつけてくれた彼女だ。

遅れられないと、命と同じくらい大事な楽器を抱えてお店に飛んできてくれたのだという。

申し訳なく、ウナギ丸ごと1匹焼き、大エビフライ2匹乗せのエビチャーハンを注文し、ご機嫌を取る。

 

しかし楽しい時間ほどあっという間に過ぎ去ってしまうのが、人生の不条理である。

「お楽しみのところ申し訳ありませ~ん、混み合ってきたのでラストオーダーです!」

やむを得ず3人で2次会の店を探し始めるのだが、その時ふと、ダメ元でこんなお願いをしてみた。

「ねえねえ、2次会は3人でカラオケ行きませんか?さやちゃんの生演奏、そばで聴きたい!」

 

プロの演奏家に向かって、我ながらいい度胸だ。

狭いカラオケボックスで生演奏するだけでなく、なんなら私のヘタクソな歌に合わせて伴奏しろと、要求してみせたのである。

 

それを聞き、席を外してしまったさやちゃん。

そしてこの後、彼女からこんな事を学ばせてもらうことになる。

「運の良さ、運の悪さって、こういうことか…」と。

 

「自分のためにやれ」

話は変わるが、令和の時代に世界で活躍するプロ野球選手と聞かれたら、思い浮かぶのは大谷翔平(文中敬称略)だろうか。

しかし10年ほど前まで、それ以上にメジャーリーグと日本人を熱狂させた選手がいた事をご記憶の人も多いだろう。

イチローこと、鈴木一朗のことである。

 

首位打者7回などの大記録を引っ提げて米メジャーリーグに渡り、その勢いのままに新人王、MVP、首位打者などの主要タイトルを総ナメにし、長年にわたり全米を熱狂させる。

さらに2004年、31歳の時に打ち立てたシーズン262安打はメジャーリーグ史上最多記録であり、未だに破られていない。

文字通り、日米両国の記録・記憶に残る偉大なスター選手である。

 

しかしそんなイチロー。高校時代、そしてプロ野球に入ってからも暫くの間は、決して一流と言えるような選手ではなかった。

愛工大名電高時代には、甲子園に2度出場するもいずれも初戦敗退。

 

ドラフト会議では4位指名でのオリックス入団であり、決して注目を集めたとはいえないプロデビューとなる。

さらに試練は続き、プロ3年目の1993年、20歳の時の成績は43試合出場で12安打、打率1割8分8厘と低迷を極めた。

もはやいつ戦力外通告をされてもおかしくない、3流以下の選手として4年目を迎えたのである。

 

そして正念場となるシーズン、開幕してすぐの94年4月のこと。

ダイエー戦に0-3で敗れた帰り道で、イチローの人生に転機が訪れる。

 

イチローの才能を見出したオリックス監督、仰木彬(当時)はショボくれた顔をする彼を見つけるとこんな声を掛けた。

「お前、なにをそんなに暗い顔してるんだ?試合の勝ち負けは俺に任せとけ。お前、二塁打1本打ったじゃないか。それでいいんだ。お前は自分のことだけ考えてやれ」

(デイリースポーツ:イチローが語る仰木監督

 

チームプレイでは、チームのために戦うマインドを常に求められる。

しかし仰木は、成績の振るわないイチローに対し、

「お前は自分のやるべきことだけ、しっかりやれ」

と喝を入れ、その結果責任を全て負うと宣言したのである。

 

「調子のいいこと言っても、どうせ成績が出ないと2軍に落としてクビにするだろう」

そんなふうに思うだろうか。

しかしこの話には、実は伏線があった。

 

繰り返すが、前年のイチローの成績は43試合出場で12安打、打率1割8分8厘と、もはやプロとして通用しないことを示した不本意なシーズンとなった。

しかしそのオフの宮古島キャンプで、仰木はイチローのスイングに目を奪われ、類まれな才能に気がつく。

そしてオープン戦でこの“ポンコツ”を出場させ続けると、スタッフにこう宣言した。

 

「こいつはええぞ」「今年、最初から使うぞ」

(プレジデントオンライン:無名選手だったイチローに、オリックス仰木監督がひとつだけ施した”手直し”の中身

 

この時のことを、当時オリックス広報部員だった横田昭作は、やはりプレジデントにこう語っている。

「仰木さんは、やれると思ったらずっと使うんです」

 

想像してほしいのだが、自分なら本当にこんなことできるだろうか。

勝ち負けに全責任を負う監督であり、結果次第では即日、クビになりかねないのである。

打率2割以下の選手など、どう考えても2軍に落とすのが当然の判断だろう。

そんなイチローを1軍で出場させ続け、「お前は自分のやるべきことだけ、しっかりやれ」と、喝を入れたのである。

 

その時のことをイチローは、こう述懐している。

「その瞬間から自分のためではなく、この人のためにやりたい、と思った」

 

「自分のためにやれ」と言われたのに、「この人のためにやりたい」と決意を固めるー。

まるで逆だが、これこそ本物のプロ同士が、共鳴した瞬間だったのだろう。

お互いの為に責任を取り合う覚悟を決めた、まさに歴史的選手が生まれた瞬間である。

それを裏付けるようにイチローは、デイリースポーツのインタビューに、このようにも答えている。

 

「自分のプレーによって監督が恥ずかしい思いをするかもしれない。『監督に守られてる』っていうのはこういうことですから」

 

リーダーが責任を取り切る覚悟を示した時、部下もまた覚悟を決め、リスクを恐れず躍動し始める。

これこそ、リーダーにのみ切ることができる唯一無二の最強カードだ。

そしてこの年、イチローは全130試合にフル出場し、打率3割8分5厘の大記録を打ち立て、そのまま世界に駆け上がっていくことになる。

 

“プロが持つ力”の正体

話は冒頭の、真っ昼間の飲み会についてだ。

席に戻ってくるなりさやちゃんは、こんな事を言った。

「近くで予約取れたんで、ほな行こか~」

プロの演奏家にムチャなお願いをして怒らせたかと冷や冷やしたが、なんのことはない、タバコついでに近くのカラオケボックスを予約してくれていたのである。

 

さっそくカラオケに到着するとリモコンを奪い、オハコの『銀河鉄道999』を打ち込む。

前奏に合わせてサックスをあわせ始めるさやちゃん。

この後、言葉にするのが難しい、本当に特別な経験をする。

 

“音でケツを蹴られる”と表現すればいいのだろうか。

ジャズ特有のアレンジで、ボーカルや音楽に合わせて複雑な演出を入れてくるのだが、その音量、熱量が彼女の声になって鋭く心に刺さる。

「もっと声出せ!」

「ここはもっと、ムーディーにいこうぜ」

 

サックスの音量が上がれば、自然に声量もあがり気持ちがアガる。

サックスが繊細になれば、それに合わせ繊細な感情を表現したくなる。

本来はサックスがボーカルに合わせるのだろうが、サックスに操られてしまう。

しかしその演奏の意図がわかれば、気持ちよく“一つの音楽”を作り上げる快感にのめり込み、経験したことのない世界に沈み込んだ。

 

真冬だというのにすっかりと汗をかき、2曲目を歌い終えたところで、大学教授のミホコさんがこんな事を言った。

「桃野さん、カラオケでも全力投球ですね!」

それは半分正しく、半分間違いだ。

 

実は私は、カラオケと言えば採点機能をハックすることが趣味で、

「どうやって機械のご機嫌を取り、ヘタな歌で高得点を叩き出すか」

にしか興味がなかった。

 

しかしそれは、例えばSEOという名のもとにgoogleのご機嫌を窺い、判で押したようなゴミコンテンツばかりが溢れるようになったインターネットに似ている。

 

コンテンツは読者のためにあるのであって、googleのためにあるのではない。

音楽は人と人の心を繋ぐためにあるのであって、採点機能で高得点を出すための道具ではない。

さやちゃんの生演奏にあわせて歌えたことで、今更のようにそんな当たり前の事実に気がつけた。

まさにプロの仕事であり、心から感謝している。

 

そして話は、イチローについてだ。

仰木監督は20歳のイチローのセンスを見出すと、自分のキャリアと引き換えにしてでも、この若者を育てるリスクを背負った。

そのことに共鳴し、イチローが確変モードに突入したことは先述のとおりだ。

名将と邂逅できた、運の良さと表現してもいいだろう。

 

しかし結局のところ、“運の良さ”とはこんな表現に集約できる。

「この人たちのおかげで、今の自分がある」

 

そして“運の悪さ”は、こうだ。

「こんなに頑張っているのに、なぜうまくいかないんだ」

運の良さとは感謝の潜在意識であり、運の悪さとは他責への転嫁ということである。

 

仰木監督と出会い本来の力を引き出されたイチローは、きっと自身の運の良さを今も噛み締めているだろう。

そして私も、さやちゃんの演奏で歌の新たな楽しさを引き出され、未知の世界を垣間見ることができた。

本当に運の良い、幸せな邂逅に感謝している。

 

組織や部下の結果が出ず、運が悪いと嘆いているリーダーには、ぜひ考えて欲しい。

その認識にこそ、根本的な原因があることを。

運が悪いと考えていること自体が、すでに他責でありリーダー失格であることを。

本物のプロに出会うことができればきっと、そんな事実に気がつけるはずだ。

 

 

 

 

 

【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

先日、埼玉県和光市に4泊5日で出張に行ったのですが、駅前のコンビニにも西友にも成城石井にも、スーパードライのフルオープン缶が売ってないんですよ。
もしかして埼玉県民さん、フルオープン缶はお嫌いなんですか?(泣)

X(旧Twitter):@momono_tinect

fecebook:桃野泰徳

運営ブログ:日本国自衛隊データベース

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