弟の命日は1月1日だ。

ただ、本当にその日に旅立ったのかはわからない。

 

自宅の敷地内に倒れているのを隣家の人が発見してくれたときには、既に息がなかったそうだ。

それが1月3日。検死や諸々の状況から、亡くなったのはおそらく1月1日の未明だろうということになったのだ。

 

死因もわからない。わかっているのは、外出するつもりだったのが門扉の辺りで倒れ、そのまま凍死したらしいということだけだ。

アルコールと睡眠導入剤を同時摂取するのが常習になっており、倒れたのはそのせいである可能性も高かった。

 

逆縁というのは気持ちのもっていき場がないものだ。弟とは仲がよかっただけに、形容し難い悲しみに襲われた。

 

だが、一方でほっとしてもいた。

「行き倒れでも交通事故でも自殺でも入院中でもなく、自宅でひっそり旅立ったのは、シンにしては天晴れだ」

弟の親友、サトルさんがそんなふうに言ってくれた。

 

もちろん、どんな死に方がよくてどんな死に方が悪いなどと言うつもりはない。

 

だが、弟が刻々と死に近づきつつあることを察知して、なんとかこちらの世界に引き留めておこうともがいていた私にとって、死それ自体もだが、それがどんな形でもたらされるのかも恐怖だった。

サトルさんのことばはそんな私を支えてくれたのだ。

 

「これでもう苦しまなくてすむんだね、よかったね」

冷たく横たわる弟の無精髭を剃ってやりながら、口に出さずに呟いていた。

髭は思いのほか濃く、剃刀の刃を強く押し返してくる。

 

空耳?

不思議なことが起こったのは、七七日忌の日だった。

 

法要をすませ、自宅にもどって、リビングのソファに座る。緊張が解け、これで一区切りついたと安堵していた。

 

その時ふいに、かすかな音が流れてきた。

 

「……何?」周りを見回す。

「ん?」息子がテレビのスイッチを切った。

 

だが、空耳でもテレビの音でもないのだ。

「……?」

 

やがて、それがシューマンのピアノ曲「クライスレリアーナ」であることがわかって、思わず顔を見合わせた。

 

「嘘でしょう?」

鳥肌が立つ。

 

弟?

寒い地方では、冬が過ぎ、硬く凍っていた土が融けた頃に納骨する風習がある。

身内だけの通夜と葬儀をすませ、七七日忌の法要まで弟のお骨を預かることになった。

 

そのことを知ったサトルさんが、弟の好きだったピアニスト、アルゲリッチが若いころリリースした「クライスレリアーナ」を毎日、聴かせてやってほしいとメールをくれた。

 

それで、葬儀の日から七七日忌まで、仏間にCDプレーヤーを持ち込み、毎日、再生していたのだ。

曲を聴きながら弟の遺影を眺めていると、さまざまなことが思い出され、とめどなく涙が溢れてきた。

 

そして、七七忌の夜。

プレーヤーに入れっぱなしだったそのCDが突然、鳴り出したのである。

 

「どういうこと? スイッチ切ってあったのに」

「誤作動じゃねえの?」

息子はそういうと、リモコンを探し、プレーヤーのスイッチを切った。

 

「だけど、変だよ。シンが来てるんじゃないのかな?」

「まさか!」

 

ところが、その後も私がひとりのときに4、5回、同じことが起こったのだ。

電源を切ってあるはずなのに、突然、CDが鳴り出す。

 

「シン? ねえ、シンなの?」

 

その度に、辺りを見回して名前を呼んでみるのだが、返事はない。

 

きっとシンに違いない。

シンがあの世から会いにきているんだ!

そう直感したが、確証があるはずもない。

 

このことは、ごく限られた人にしか話してこなかった。

うっかり口にしたら、

「そんな、バカな」

「盛っちゃって」

「オカルトじゃないのか」

そんなふうに思われてもし方ないと思ったからだ。

 

ひとの話だったら、私自身も半信半疑だったろう。

 

死んだら心も消えるのか

心(意識)とは何だろう。

死んだら心はなくなってしまうのだろうか。

 

この難問に果敢に挑んだのが「知の巨人」、立花隆氏だ。

 

彼の著書『臨死体験』は、世界中の臨死体験者や脳科学、医学、心理学、哲学、宗教などの研究者、実践者を広く取材し、5年の年月をかけて出版された大作である。*1

2014年にNHKスペシャルでも関連番組が放送された。*2

 

これが抜群に面白いのだ。

最初に読んだのはずいぶん前だが、今回、改めて読み直してみてもその面白さは変わらない。

 

人間の心(意識)はすべて脳が作りだすものなのか。

それとも、脳に還元することができない存在なのか。

 

もし前者なら死とともに心も消えるが、後者なら死後も心は残る。

どちらが正しいのだろう。

 

同書には、アメリカの生物学者・精神医学者のジョン・C・リリー氏が登場する。

 

彼は、脳が意識を保つためには、外部の感覚刺激が必要かどうかを知るために、「感覚遮断装置」を開発し、実験を繰り返した。

 

これに関心を示したのは、ノーベル物理学賞受賞者のR・ファインマン氏である。

彼は、リリー氏の誘いに二つ返事で応じる。

そして毎回2時間半ぐらいずつ計10数回、その隔離タンクに入った。

 

その結果、3回目で肉体の中の「自我」を意識によって少しずつずらしていくことに成功し、4回目で体の外に出すことに成功する。

 

「自我」とは認識の主体のことであり、認識主体が体の外に出て、自分の肉体を外側から見る、いわゆる体外離脱に成功したのだ。

 

しかし、ファインマン氏は、それを現実体験ではなく、脳が創り出した幻覚だと考えた。

なぜなら、そのときどきで見えるのは、「こう見えるだろうと想像した通りのイメージ」だったからだ。

 

立花氏自身も、実際にこの隔離タンクに入り、体外離脱にかなり近い状況を体験している。

 

立花氏はまた、ホロトロピック・セラピーのワークショップにも3回、参加した。

これは、人為的にある種の過呼吸(過換気症候群)の症状を生じさせ、意識状態を変化させるという独特な意識変容法である。

 

深いトランス状態の中で、深層意識の世界に入っていく。

 

そのセラピーで、立花氏は肉体が消失していき、なにもかもなくなってしまって、一切が虚無になるという感覚をおぼえた。

ただ、意識のみが残り、考えだけが存在していたのである。

 

しかし、話はこれで終わらない。

ここからがさらに興味深いので、関心がある方はぜひお読みいただければと思う。

 

一方で、NHKスペシャルでは、意識に関する最新理論が紹介されたが、この理論が正しければ、人が死ねば心も消滅するという。*3

 

では、人の心はあくまで脳が作り出すものなのだろうか。

実は臨死体験は死後の世界ではなく、死の直前に見る、夢に近い現象であることが、脳科学の知見によって明らかにされているという。

しかし一方で、それでは完全に説明できない現象もある。

 

「死ぬとき心がどうなるのか」という問いに対しては、「現段階では完全に答えが出せない」というのが、立花氏の結論であった。

したがって、「あのとき、弟があの世から会いに来た」という私の直感が正しいのか、それとも単なる思い込みなのかも、結局のところ「わからない」ということだ。

 

すべて回収

では、なぜ今、そのことを書く気になったのか。

それは最近、こんなことがあったからだ。

 

ちょっとドキドキする経験だった。

 

久しぶりの新宿である。

まず正午から4時間ほど昼のみをして、夕方からは別のメンバーでまた飲んだ。

それが、全員、「初めて会う友だち」だったのである。

 

Zoomで話したり、文字でメッセージのやりとりをしたりというのは結構あるのだが、リアルで会うのは初めてだった。

それぞれが離れた地域に住んでいるので、都合を合わせて新宿に集合したというわけだ。

 

果たして、彼女ら彼らは、本当に自分が思い描いていたとおりの人たちなのだろうか。

また、リアルな私は、彼ら彼女らのイメージどおりの人間として認識されるのだろうか。

 

ドキドキしながら、店に入った。

それはお互いさまだったらしい。

 

「全然、違和感ないわ」

「ほんと?」

「ほんと!」

「私も?」

「うん、全然!」

「不思議なくらい、違和感がない」

 

口々に言い合った。

 

もちろん、リアルで会わなければわからないこともある。

たとえば、体格、雰囲気、ファッションや持ち物のテイストなどは、実際に会ってみなければわからない。

しかもそういうことは、些細なことのようでいて、実はその人の輪郭を決定づける、重要な要素の1つであり情報であるという側面もある。

 

ところが、その日会った人たちは、一瞬でそれらを感知した上で、「違和感がない」「思ったとおり」と言ったのだ。

なぜだろう。

 

それは、すべての要素が「その人らしさ」に回収されるからではないだろうか。

「その人らしさ」とはその人のエッセンス、本質といってもいいかもしれない。

 

実際に会わなくても、Zoomからでも私たちは「その人らしさ」をキャッチする。

文字によるメッセージからも読み取る。

 

「その人らしさ」が把握できているからこそ、新たな情報が加わっても、それらはすべてそこに集約されていくのだ。

 

「大きい手なのに、なんか繊細な指だなあ。モモさんらしいや」

「へえ、すっごく個性的なボトムスじゃない? そりゃ、サヤちゃんだもんね」

「こんなとき、囁くように話すんだ。ゴウさんってそういう人だよね」

そんなふうに。

 

だったら、あれはやはり弟の仕業だと思った。

弟はときどきドッキリするようなことを仕掛けてくる人だった。

そして、キャッと驚く私を見てはクスッと笑う。

 

そういえば、子どもの頃、お風呂場のドアを開けたら、壁一面にアマガエルが張り付いていて、腰を抜かしそうになったことがあったなあ。

あのときも、シンはふふふと笑っていたっけ。

 

シンならやりかねない。

間違いない!

 

はしゃいで何回目かの乾杯をしながら、そんなことを思った。

涙がじんわり湧いてきて、グラスの向こうの友だちの笑顔が滲んで見えた。

 

参考資料

*1

立花隆(2018)『合本 臨死体験』株式会社文藝春秋

(初出:「文藝春秋」1991年8月~1994年4月号、単行本:1994年9月、文庫本(文春文庫):2015年2月25日)

*2

NHK「立花隆 思索ドキュメント臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」(2014年9月14日(日) 午後9時00分~10時13分)

https://www.nhk.or.jp/special/detail/20140914.html

*3

文春オンライン「「私自身、若い頃は、死が怖かった」“臨死体験”を取材した立花隆さんが伝えたい、人間が“死んでいく”ときの気持ち 《追悼》立花隆さんインタビュー#1」(初公開:週刊文春2014年10月30日号)p.1, p.5, p.6

https://bunshun.jp/articles/-/46376

 

 

 

 

 

【プロフィール】

著者:横内美保子(よこうち みほこ)

大学教員。専門は日本語文法、日本語教育。

立花隆さんの伯父さんは、80歳のとき「オレは明日、死ぬぞ」といい、予告どおり翌朝、自然に亡くなっていたそうです。実は私の母も80歳の誕生日の前日にまったく同じことを言ったので、それを読んで驚きました。では、私の母はどうなったのでしょう。また書いてみたいと思っています。

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