あなたの好きなものはなんですか?
ミスチルやサザンといったミュージシャン、ラーメンや焼肉といった食べ物、野球やサッカーといったスポーツ、いろんな答えがある。
でももし、あなたが好きなものにわたしが興味を持っていなかったら?
「ふーん、ミスチルが好きなんだ。わたしは全然聞かないな」と言ったら?
今日は「他人に共感を求めがちだけど、共感ベースで話を進めると対立が生まれる」という話です。
「そのアニメはハマらなかった」失言で怒りを買った
数年前のこと。
オンラインゲームでA君と知り合い、急速に仲良くなった。お互いタメ口で話し、2日に1回は深夜に遊ぶくらいの距離感だ。
あるときふと、アニメの話になった。
A君は、アニメ『ブラッククローバー』にハマっているのだという。
「あー、ブラクロね。わたしも途中まで見てた」
「まじ!? あれ、めっちゃおもしろくない?」
「うーん、個人的には作画がいまいちでピンとこなかったかなぁ」
「……あっそう」
ここからA君は明らかに不機嫌になり、わたしは「しまった」と焦った。
いやまぁ、作画が微妙だと思ったのは本当だよ。でも相手はそれが好きだって言ってるんだから、話を合わせておくべきだった。あえてマイナスの話をする必要は一切ない。
慌てて「アニメはハマらなかったけど、漫画は読んでてこのキャラが好き!」と付け加えたが、A君の機嫌は戻らず。
うん、わたしが悪かった。明らかに余計な一言だった。ごめん。
でも同時に、「人の好みなんてそれぞれなのに、A君って面倒くさいな」とも思ってしまった。いや、わたしが悪い。悪いんだけどね!
そもそもわたしは、自分が好きなものを他人が好きじゃなくても、なんとも思わない。
「ああ、あなたとわたしは好みがちがうのね」で終わり。
「ブラクロのアニメが好きなA君はおかしい」なんて言ってないし、「ブラクロなんてやめて別のアニメ見なよ」とも言ってない。ただ好みじゃなかった、Not for meってだけなのに。
……とは思うものの、こういう発言で他人の気分を害してしまったことは、残念ながらこれまでも何度かあった。だからきっと、わたしがまちがえているのだ。
世の中には、「自分の好きなものを悪く言うのはとても失礼であり自分を否定している」と捉える人が、たくさんいるのだから。
自分が好きなものを好きになってもらいたい、は意味不明
こういう「自分が好きなものを否定するのは悪」派の人たちの特徴は、「自分が好きなものを他人にも好きになってもらいたい」欲がとても強いことだ。
自分が好きなものは素晴らしいから、相手もきっと好きになってくれるはず。
相手はまだ良さを理解できていないだけで、理解すれば相手も幸せになれる。
こんな理論で、めちゃくちゃ強気に布教してくる。
そしてそのせいで、わたしは今まで何度も、散々な目に遭っているのだ。
わたしは給食はコッペパン以外なにも食べられないのが普通、というくらい好き嫌いが激しくて、超がつくほどの偏食だった(いまはだいぶマシになっている)。
そのせいで、「トマトが嫌い? でもこのトマト、すっごく甘いから絶対食べられるよ! 食べてみなよ!」と勝手に皿に盛られたり。
「スイカなんてほとんど水だから大丈夫だって! 夏にスイカ食べないなんて損してるよ、騙されたと思って一口食べてみよ!」と断れない雰囲気にされたり。
そういうことが幼少期から、何度も何度も何度も何度もあった。
なんで? なんで嫌いなものを好きになれって強制されるの?
わたしは食べたくないよ。
そしてわたしが強く拒否をすると、「なんでわたしの『好き』を理解してくれないの?」と傷ついた顔をされる。ノリが悪い、空気を読まない、ワガママ、と言われたこともあった。
「一口試してみない?」「いや、遠慮しとく」「そっか」くらいのやり取りなら別に気にしないんだけど……。
「好き嫌いを克服させてあげよう」というありがたーい親切心かもしれないけど、それで克服できるなら給食が嫌で学校休んだりしてないんだよ。
こういう経緯もあって、わたしは「自分が好きなものはお前も好きになれ」という考えが、どうしても好きになれないのだ。
共感ベースのコミュニケーションには限界がある
そもそもなんでこういう人たちは、「好みは人それぞれ」ではなく、「自分が好きなものは相手も好きでいるべき」と考えるのだろう。
そこで思い出したのが、「人にされて嫌なことはしてはいけません」という教えだ。どこの家庭、学校でも必ずといっていいほど教える、教育・しつけの基本。
この教えをポジティブなベクトルに変えると、「人にされて嬉しいことをしましょう」になる。そしてそれを拡大解釈すれば、「あなたがいいと思うものを広めましょう」につながっていく。
自分はトマトを食べると幸せ。だから相手もトマトを食べると幸せになれるはず。
その気持ちを分かち合おう。そしたら2人とも幸せになれる。
こんな感じで。
そもそもこの教えは、「同じ価値観を共有している」ことが前提に成り立つものだ。
でもちょっと考えれば、そんなことがありえないのはだれにだってわかる。
たとえば仕事でも、「資料の向きがそろってなかったら嫌だろ? ちゃんとやれよ」と言っても、「別に自分は気にしませんけど」と言う人もいる。
「もっとお客様の気持ちを想像しろ。お前がお客様の立場だったら、契約したのに1週間も連絡がなければ不安になるだろ?」と言っても、「いろいろ準備してるのかな、くらいにしか思いません」と言う人もいる。
どちらがいいとか悪いとか、そういう話ではない。
ただ、根本的に考え方がちがうのだ。
「自分が嫌なことは相手も嫌だからやらないだろう」
「自分が嬉しいことは相手も嬉しいからやるだろう」
という期待は、かなりの確立で裏切られる。
同じ価値観を前提に相手の気持ちを想定するのは、道徳や社会規範を教える学校では通用するかもしれないけど、社会に出るとぜんっぜん通用しない。人それぞれすぎる。
自分と相手の認識が同じであることを前提に、「この気持ちに共感してくれるはず」という姿勢で話すと、100%コミュニケーションエラーが起こるのだ。
でも「共感」をベースにコミュニケーションを取る人は、なかなかそれに気付かない。なぜなら、自分の感覚が一般的で普遍的だと思っているから。それに共感するのが当然で、そうじゃない人は「そう」にしてあげるべきだと思っているから。
求められるのはシンパシーよりエンパシー
ではそのコミュニケーションエラーを防ぐために、どうするべきか?
ここで、鴻上尚史氏の言葉を引用したい。
「シンパシー(sympathy)」は聞いたことがあるでしょう。同情とかおもいやりなんて訳されたりしています。『シンデレラ』という物語で「シンデレラは可哀そうだなあ」と思う気持ちが「シンパシー」です。
似たような言葉に「エンパシー(empathy)」というものがあります。
「エンパシー」は、「相手の立場に立つことのできる能力」のことです。
「シンデレラの継母は、どうしてあんなにシンデレラをいじめたんだろう」という理由を考えられるのが「エンパシー」です。
「エンパシー」は、「共感力」なんて訳されたりしてますが、シンデレラの継母に共感する必要はまったくないんです。
共感しないけれど、「どうして継母はいじめたんだろう?」と考えられる能力が「エンパシー」なんです。
出典:『「自分の好きなことは相手も好きだ」…親切の押し売りをしていませんか?今こそ知るべき“シンパシー”と“エンパシー”の違い』
「同じ気持ちになる」シンパシーを前提としたコミュニケーションには、限界がある。
だって人はみんな、感じ方がちがうから。
「なんでわたしが好きなものを嫌いっていうの?」
「なんでわたしの気持ちを理解できないの?」
と不満が生まれ、対立につながる。
だから大事なのは、「ちがう考えを想像する」エンパシーなのだ。
あなたにとって、トマトはすごくおいしい野菜。でもそれをおいしいと思わない人もいる。それを想像するのが、エンパシー。
エンパシーという視点を持っていれば、たとえば「いろんな価値観で考えたうえで表現に問題ないか」と炎上リスクを回避できたり、「この国ではこうなんだな」と相手の文化や宗教などを受け入れたりできる。たとえその考え自体に、共感できなくとも。
「同じ価値観を共有する」前提でいると、自分とはちがう考えの人に対して腹が立ったり、自分の考えを理解させようと押し付けてしまったりする。
だから、「ちがう価値観を想像する」ちからが大事なのだ。
自分が好きなものを相手が嫌いでも、相手が嫌いなものを自分が好きでも、別に気にしなきゃいいんだよ。同じように好き・嫌いになる必要なんてない。無理に押し付けるのは不幸の元。
そんななかでもし、同じような価値観で気持ちを共有できる人がいたらめっちゃラッキー。
それでいいじゃないか。
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【著者プロフィール】
名前:雨宮紫苑
91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&
ハロプロとアニメが好きだけど、
著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)
ブログ:『雨宮の迷走ニュース』
Twitter:amamiya9901
Photo:Barefoot Communications