読書の秋、食欲の秋、そして芸術の秋。
先日、長野県の北アルプス山麓に出かける用事があり、久しぶりに安曇野ちひろ美術館を訪問してみた。そこには「トットちゃん公園」なるものが新たに併設されていて、これも含めて見応えがあったので、今日はこれを紹介してみる。
『安曇野ちひろ美術館』とは
はじめに、安曇野ちひろ美術館について少し説明する。
ちひろ美術館とは、絵本画家・いわさきちひろの作品を中心としたさまざまな絵本作品を展示する美術館で、絵本美術館としては世界初であるといわれている。1977年に東京に本館ができた後、いわさきちひろに縁の深かった北安曇郡松川村に建てられたのが、安曇野ちひろ美術館である。
建物は北アルプス山麓の景観に溶け込むようにつくられていて、正面玄関側から見ると、屋根と向こう側の山と入れ子状に重なり合うデザインになっていると気づく。
そしていわさきちひろと言えば、なんといっても絵本の水彩画だ。いわさきちひろの名前を知らない人はいても、この水彩画に見覚えのない人はほとんどいないのではないだろうか。
岩崎ちひろの絵が表紙を飾っている絵本は多数あって20世紀後半以降、多くの人に親しまれている。ある意味、現代の日本人にとって最もなじみ深い画家とも言え、ここではその作品を鑑賞できる。美術館なのだから、それは当然だ。
しかし「絵本の」美術館だけあって、美術好きの大人だけでなく、子どもでも楽しめ、なんらか啓発されるような仕掛けがあちこちにある。
たとえば館内廊下に配置されているこの展示物は、クルクルと回転させて春夏秋冬の絵合わせをして遊べる。
これが子ども騙しではなく、大人でもやり甲斐がある。海水浴の絵や雪山の絵などは季節がわかりやすいが、草花の絵は都会暮らしの人にはちょっとわかりにくいかもしれず、ひとつの季節に統一するのは案外と難しい。
子ども用スペースにも目を惹くものがあった。イタリア人デザイナーによる床のテキスタイルも気になるが、ここに置かれた椅子が面白い。個性豊かな形なので、この椅子だけで「おうちごっこ」が遊べてしまうだろう。
ちょっと見にくいかもしれないが、椅子の木目模様にも注目してほしい。なんと、この七脚の椅子は同じ木から作り出されている! それぞれの椅子は異なる作り手さんが手掛けたそうだが、こうしてズラリと並ぶと七脚で一そろいになる。
こうした、子どもにも楽しんでもらう意識は現在の特別展示にも反映され、
この「あれ これ いのち」展には『あれこれスケッチ』というハイテクな展示物が配置されていて、真っ白なスクリーンに指で線を描くと、(いわさきちひろが描いた)色々な生き物が飛び出してくるアトラクションになっている。これも凝っていて、何種類あるのか見当がつかないほど色々な生き物が飛び出してきて、その飛び出し方のバリエーションもワンパターンではない。
額縁に入った絵画を鑑賞したり、おさわり禁止のモニュメントを眺めたりするのは、大人の美術館鑑賞としてはわかる。しかし、それでは子どもが楽しめない。
けれどもこの美術館は子どもを楽しませ、なおかついわさきちひろの絵に親しむ契機となるような展示物や仕掛けが取り揃えられ、そうそう退屈させないようにできている。遊んでいるうちに絵や美術品や工芸品に親しめ、おのずと啓発されるのもポイント高い。
美術館の北側の「トットちゃん広場」
その安曇野ちひろ美術館のすぐ隣、村営公園の北側には『窓ぎわのトットちゃん』の”聖地”がつくられている。1980年代にベストセラーになり、最近アニメ映画化された『窓ぎわのトットちゃん』に登場するトモエ学園の講堂や電車の教室が再現されているのだ。
講堂にはトモエ学園の当時の子どもたちの白黒写真が展示され、劇中でも歌われていた『よくかめよ』の楽譜とともに古いピアノが飾られている。そして講堂のすぐ脇には、アニメ版『トットちゃん』を見た人なら声をあげてしまうであろう、“あれ”が再現されている。
トットちゃんが財布を落とした、肥溜めのレプリカである。財布を探すためにトットちゃんが肥溜めをひっくり返し、なにもかも汚物まみれになるこのシーンは現在の私たちからみると恐怖だが、トモエ学園の小林先生はトットちゃんを叱るでもなく、「もどしとけよ」とだけ伝える。
そしてここの一番の目玉は、電車の教室と電車の図書室だ。
劇中、トットちゃんは電車の教室を観てたちまち気に入り、トモエ学園への転校を願う。これも当時のまま再現されていて、アニメの作中描写と寸分も違わない。
電車の図書館の車両は昭和 2年製、電車の教室の車両は大正15年製で、暖色の照明や木の机や椅子も相まって、レトロな雰囲気にまとまっている。職員の方によれば、この古い車両は長野県の私鉄(長野電鉄)が保存していたもので、それを譲り受けて再現することとなり、ちひろ美術館館長・黒柳徹子さんも喜ぶ出来だという。
秋の安曇野を訪れてみませんか
安曇野ちひろ美術館とトットちゃん公園にはほかにも見どころがあり、公園ではさまざまな体験イベントが開催され、その内容はこちらのリンクから確認できる。また、美術館には特別展示のほかに常設展示もあり、国内外の絵本の歴史を追いかけることができる。
いわゆる西洋式の絵本は20世紀に日本に入ってきて、戦後、開花していった。しかし日本の場合、西洋式の絵本が普及する前から浮世絵などが庶民に楽しまれ、もっと昔には絵巻物などが存在していた。
国外では、印刷以前の時代には古代エジプトのパピルスに描かれた絵やキリスト教の信者にみせる絵の聖書などが存在していたが、活版印刷の登場により、いったん本は文字偏重のメディアとなる。しかし、たとえばオフセット印刷なども含めた技術の進展によって、文字と絵の両方が刷られた、現代の絵本に近いものが普及していった。
私はメディアとテクノロジーの進展について日頃から考えている人間なので、この常設展示には夢中になってしまった。私と同じ趣味趣向を持った人なら、この展示はいくらでも眺めていられるはずだ。
そして秋の安曇野には侘しさと暖かさと厳しさの混じりあったような、なんともいえない雰囲気がある。安曇野ちひろ美術館は秋の安曇野の景色に保護色のように溶け込んでいるから、カーナビなどを使っていないとうっかり通り過ぎてしまうかもしれない。
公園には地元の植物が植えられ、池も設けられているため、私が訪れた時にはトンボや蝶、アマガエルなどが出迎えてくれた。当地ではこれから紅葉が深まり、北アルプスの高峰が白くなりはじめる。松本市から見える北アルプスと違って、このあたりから見上げる北アルプスには迫ってくるような存在感と威厳があり、日没間もない時間帯の山々には怖ささえ感じられる。
冬も、安曇野には早くやってくる。
12月には安曇野ちひろ美術館とトットちゃん公園は冬季閉鎖になるので、訪れるなら11月中か、翌春、ある程度暖かくなってからをおすすめしたい。
【おことわり】本記事の写真のなかには、職員の方に撮影許可をいただいたうえで撮ったものが混じっています。美術館内で写真をお撮りになる方は、撮影禁止のエリアかどうか、ご確認のうえでお願いします。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo:Cecelia Chang