「内なる優生思想」とわたし
たいへんむずかしくて、結論の出ない問題について語りたいと思う。「内なる優生思想」についてだ。
「内なる優生思想」については、今までもいくらか興味を持って、本などを読んでは思うところも述べてきた。
たとえば、『リベラル優生主義と正義』という本では、旧来の優生思想から、今後の人類の優生思想、たとえば病気や障害を避けるばかりではなく、エンハンスメントするようになったらどうなるのかといった問題まで語られていた。
人が子を残すとはなんぞや? 『リベラル優生主義と正義』を読む – 関内関外日記
で、このごろ、森岡正博の『生命学に何ができるか 脳死・フェミニズム・優生思想』という本を読んでいたら1970年代の日本における議論について詳しい話が載っていた。また、あらためて考えてみたいと思った。
そもそも「優生思想」とはなにか。森岡はこのように定義づける。
優生思想とは、生まれてきてほしい人間の生命と、そうでないものとを区別し、生まれてきてほしくない人間の生命は人工的に生まれなようにしてもかまわないとする考え方のことである。
『生命学に何ができるか』
ほかにも定義のしようはあるだろうが、核心部分はこれでいいと思う。
して、一般的に優生思想が人類文化の歴史で問題にされてきたのは、国家権力による避妊の強制、あるいは直接の殺人だ。避妊の強制について、日本国の責任を問う裁判は今現在でもニュースになっている。優生保護法は1996年まで存在した。
が、おれが気になるのは、そうではない優生思想についてだ。
内なる優生思想、内なる優生イデオロギー。
個々人が、自らの選択によって、自らが生み出すかもしれない生命を生まれないようにするということだ。
すなわち、出生前診断などによって子に病気や障害が見つかった場合、これを堕胎したりすること。さて、この自由があるのかどうか。法として認めるべきなのかどうか。
むろん、人間の内と外を簡単にまったくのべつものと言えるのかどうかという疑問も残るが、ざっくり分けてそういうことだ。
これについて、すぐに結論を出してしまう人もいるだろうが、やはりここは少し考えてみるところだろうと思う。
1970年代日本の論争
1972年前後に起きた、ウーマン・リブと「青い芝の会」の衝突という事件こそ、日本の生命倫理のその後の議論の深まりの方向性を決定づけたと言える。欧米諸国が、中絶の自由化に向かって突き進んでいるまさにその同時期に、日本では「女性の権利は〈胎児の障害を理由にして〉中絶する権利を含むのかどうか」という生命倫理の難問に、女性と障害者が正面から取り組まなくてはならなくなったのである。「青い芝の会」は、〈胎児の障害を理由にして〉中絶する権利は誰にもないと主張し、中絶の自由を訴える女性たちは深い内省に追い込まれた。
『生命学に何ができるか』
ウーマン・リブは女性運動(Women’s Liberation)、「青い芝の会」は脳性麻痺の当事者団体である。
1972年当時、優生保護法の改正案が提出されようとしていた。これについて、当事者の手記をネットで見つけることができた。
72年の改悪は3点あった。
1.中絶を認める条文のひとつ「身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれ(第14条4項)」から「経済的理由」を削除すること。
2.胎児が重度の精神又は身体の障害の原因を有するおそれがある場合も中絶を認めるという、「胎児条項」の導入。
3.初回分娩を適正年齢で行わせる指導を、優生保護相談所の業務に加える。
1の目的は、人口を再び増やすための中絶規制だ。2と3は、生まれる子の質を高めようとしている。
東京のリブ運動にいた私は、日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会と接する機会が多かった。デモや集会を重ねる中で、女性が掲げるスローガン「子宮の国家管理を許すな」「産むも産まぬも女が決める」に対して、障害者は厳しく迫った。「女が決める」とは、障害のある胎児なら中絶することも含むのか?ならばそれは女のエゴ。我々は安易に連帯しない…。そんな発言が、集会のたびに投げかけられた。
女性たちの権利の主張が、「内なる優生思想」として障害者の当事者から批判されたのである。
この思想的な衝突については、ウーマン・リブの側が批判を受け入れ、「産める社会を! 産みたい社会を!」と訴える方向性で共闘することになった。分断、対立させているのは権力であると。ただ、「論理的な解決は与えられていない」と森岡は述べる。
内なる優生思想は障害者になにをもたらすのか
では、国家権力ではなく、個々人の中絶という判断が尊重されることによって、いま生きている障害者のなにが毀損されるのだろうか。森岡はこのように述べる。
人間論的に考えた場合、「障害をもった子どもは生まれてきてほしくない」という理由で選択的中絶を選択する人が、現に生活している障害者を見たときに、「こんな障害をもって生まれてこなければよかったのに」と思わないわけはない。
その人の心の中の考えは、目の前の障害者に対する否定的な「視線や無意識の態度」となって表に現れてくる。表面的な配慮ある言葉遣いとは裏腹の、その人の心の中の本音を、敏感な障害者たちは察知する。
障害者たちは、自分たちが「生まれてこないほうがよかったのに」とみなされていることを、何度も繰り返し思い知ることになる。そうやって、彼らは、自己肯定して生きるための気力を徐々に失い、無力化させられていくのである。
『生命学に何ができるか』
はたして、そうなのだろうか。いや、たしかにそういう考え方もできる。想像もできる。
でも、必ずそうなるのか、という疑問が残る。「表面的な配慮ある言葉遣いとは裏腹の、その人の心の中の本音を、敏感な障害者たちは察知する」というのは、おそらくは著者が研究し、当事者からの声を聞いてきたうえでの結論であろうとは思う。
思うが、人間の内心、心の中の本音というものをこんなふうに決めつけてしまってよいのかという疑問が残るのだ。あるいは、たとえそうであっても、社会は人間に「表面的な配慮」以上のものを求められるのかということだ。
そこまで内心の真・善・美のようなものまで求められる社会は、少し息苦しくはないだろうか。
表面的に害をなさないのであれば、悪い言動をしないのであれば、それでいいではないか。そうも言いたくなる。おれは人間の強さを信じていない。
さらには、自分が選択的中絶を選んだ人が、ほんとうにいま生きている障害者に対して悪い感情を抱いてしまうのかどうか、というのも言い切れないところがあるんじゃないかと思ってしまう。
そこは切り分けられるのではないか。少なくとも表面上であると指摘されようが、どうだろうか。
べつに選択的中絶の当事者でなくとも、人はおのれの内なる優生思想と折り合いをつけて、障害者とともに生きる社会を作ることはできないのか? どうだろうか。
そう考えるのは、健常者の、社会的な強者の傲慢だろうか。そうかもしれない。だが、ここで自分のことを持ち出すのが誠実といえるかどうかわからないが、おれも精神障害者保健福祉手帳を持った精神障害者だ。脳性麻痺ほどたいへんではないかもしれないが、障害者当事者のはしくれではある。生まれつきの障害ではない(と、思うが「べつにそれまで診断されなかっただけ」という可能性はあるか?)し、障害者として生きてきた時間のほうが人生のなかでは短い。あまり大きなことはいえないかもしれない。しかし、それでも。
……というような反論は本書でも予想されていて、予防福祉論者の意見として論じられている。これに対するさらなる反論は、「人間は内なる優生思想と、社会での行動様式を、きっちりと分離できるほど賢くない」である。うーん。
存在不安について
また、森岡はこう述べる。
たとえば、すべての妊婦が出生前診断を受けるような社会が到来したとしよう。そういう社会では、生まれてきた子どもは、「親がこの自分の生命の質を吟味してOKを出したから自分は存在を許されているのだ」という感覚、すなわち「自分の生命にかんする、ある価値判断がクリアーされたから、自分の存在は許されたのだ」という根本感覚を抱いたまま生きなくてはならなくなる。この感覚は一方において「自分は選ばれた人間なのだ」という選民的優越感をもたらすかもしれないが、他方において「自分の存在は無条件に祝福されたわけではないのだ」という存在不安をもたらす危険性をはらんでいる。
『生命学に何ができるか』
これについてはどうだろうか。「自分の存在は無条件に祝福されたわけではないのだ」という存在不安。条件付きの祝福。条件付きの生命の肯定。
なるほど、そう言われてみれば、そういう危険はあるかもしれない。だが、人間みんな、そんなに自分が肯定されて生まれてきたと思っているだろうか。無条件の祝福を確信して、それを抱いて生きている人間はどのくらいいるだろうか。
正直なところ、そんなやつはそんなにいねえんじゃないの? と、思えてしまうのだが。なるほど、それは望ましい。そうであったほうがいい。
だが、それを前提とすることは、現実と乖離してはいないか。理想が現実と乖離しているのはいいが、前提が乖離してしまっては、おかしなことにならないか。
そんなふうに思ってしまう自分は、存在不安に塗りつぶされた、呪われた存在なのだろうか。あるいは、シオランを愛読するひねくれもの。
さらに森岡はこう述べる。
その安心感とは、人間がこの社会で生きていくための基盤となるものであり、人間の存在を基盤で支えているところの、世界と社会に対する信頼のようなものである。ひとことで言えば、
「たとえ知的に劣っていようが、醜かろうが、障害があろうが、私の〈存在〉だけは平等に世界に迎え入れられたはずだし、たとえ成功しようと、失敗しようと、よぼよぼの老人になろうと、私の〈存在〉だけは平等に世界に迎え入れられていると確信できる」という安心感である。私がどんな人間であったにせよ、「生まれてこなかったほうがよかったのに」とか、「いなくなっちゃえばいいのに」という視線で見られることはなし、そういう態度で扱われないという安心感だ。これは、人がこの社会で正気を保っていられるための生の基盤だ。私はこれを「根源的な安心感」と呼びたい。この「根本的な安心感」の上に立ってはじめて、人は社会の中で自己実現へと歩んでいけるのだ。
『生命学に何ができるか』
ここまで言われて、「自分には『根源的な安心感』がある」と思える人は、どれだけいるか?
正直、おれにはそんなに多いとは思えない。もちろん、そんな安心感があったほうがいい。できたらみんなにあったほうがいい。でもそうだろうか? そして、それが「人がこの社会で正気を保っていられるための生の基盤」とまで言われたら?
どうしてもおれはこの前向きすぎる生命観についていけない。その基準でいえばおれは確実に正気を保ってはいない。正気ではないからこんな呪詛を述べているのだといわれたら、返す言葉もないが。
おれは自分が「生まれてこないほうがよかった」と思うことは山ほどある。自分の父親が、その親に対して「生んでほしいと頼んだことはない」と言い放ったのを見たこともある。
そもそも人間って、そんなに生まれてきたほうがいいのだろうか?
すべての優生思想を否定しようじゃないか
というわけで、おれは権力による優生思想もリベラルな内なる優生思想もすべて否定したいと思う。
障害のある人も、ない人も、すべての人が人間らしく祝福され、平等に生きていく社会を用意することによって?
違う。そんなのは無理だ。そちらの方へ向かうのはよい。よいが、人間が人間である以上、無理だと信じる。
では、どうするべきか。もう、「生まれてきてほしい人間の生命と、そうでないものとを区別」するのをやめて、すべて生まれてきてほしくない、とすればよい。すべて、だ。
シオランはこう述べた。
私たちは死へ向かって走り寄りはしない。生誕という破局からも、なんとか目をそむけようとする。災害生存者というのが私たち人間の実態だが、そのことを忘れようとして七転八倒のありさまだ。死を怖れる心とは、じつは私たちの生存の第一瞬間にまでさかのぼる恐怖を、未来に投影したものにすぎない。
たしかに、生誕を災厄と考えるのは不愉快なことだ。生まれることは至上の善であり、最悪事は終末こそにあって、決して生涯の開始点にはないと私たちは教えこまれてきたではないか。だが、真の悪は、私たちの背後にあり、前にあるのではない。これこそキリストが見すごしたこと、仏陀がみごとに把握してみせたことなのだ。「弟子たちよ、もしこの世に三つのものが存在しなければ、<完全なるもの>は世に姿を現さないであろう」と仏陀はいった。そして彼は老衰と死との前に、ありとあらゆる病弱・不具のもと、一切の苦難の源として、生まれるという事件を置いたのである。
おれは反出生主義の立場をとる。それが答えだ。優生思想ではなく、生の思想そのものを否定する。
いま生きている人間はいま生きている人間のことで精一杯だ。いま生きている人間はいま生きている人間の、せめてもの幸福を最大化するためだけに生きればよい。3秒前に生まれた赤ん坊も、この地獄の同胞だ。
ただ、もう、あえてこれ以上増やすことはないじゃないか。地獄は店じまいしよう。人間という地獄はもう終わらせてよい。産めよ、増えよ、地に満ちよ、とだれが言ったのか? おれはそんなことを言ったやつのことを信じない。
あるいは、それが生命であるとでもいうのか? しかし、「である」から「べき」は導き出されない。
埴谷雄高はこう言った。
人間にできる最も意識的な行為として、自殺すること、子供をつくらないことの二つがある。
人間にできる意識的な行為について、あらためて考え直してもいいのではないか。おれの結論はいつもここにたどり着く。
もちろん、これが「子どもを作りたい」という人間の幸福を減らす言葉であるのは確かだ。
なのでおれは、だれかに対して「あなたは子どもを作るべきではない」と言うことはしない。しかし、「共生できる社会を」と理想を述べるのと同じように、選択的中絶の否定を個人への押し付けにしないような形でつぶやいていくだけである。
あなたはどう考えるだろうか?
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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)
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横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
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双極性障害II型。
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