皆さんは「精神保健指定医」という言葉をご存じでしょうか。

 

私は精神科医であると同時に精神保健指定医でもあります。

世の中には、一万人以上の精神科医がいるそうですが、全員が精神保健指定医というわけではありません。また、稀にですが、内科医なのに精神保健指定医である、という医師がいると聞いたことがあります。

 

精神保健指定医の話に入る前に、そもそも、精神科医とは一体何なのでしょうか。

精神科医とは、精神疾患を専門的に診断・治療することを「標榜」した医師を指します。この、「標榜」という点がミソで、医師免許証を持っている医師が「自分は精神科医である」と名乗りさえすれば、その医師は精神科医である、ということになります。

極端なことを言うと、ずっと外科医として働いてきた医師が、自分は今日から精神科医を名乗りたいと思ったら精神科医になれてしまうわけです。

 

むろん、その外科医がマトモに精神科医をやりたいと志しているなら、いきなり精神科医を標榜することはありません。

医者の世界では標榜科のジョブチェンジはそれほど珍しくなく、内科医や外科医が研修指定病院で研修を積み、精神科医として再スタートするのを私も何度か見たことがあります。

 

精神科を標榜して開業し、まっとうに活動しようと思うなら、相応の知識と経験が必要になります。

精神医学の教科書に載っている典型例なら研修医でも診断できますが、そんなイージーな症例はあまり多くありません。外来には、複数の疾患に当てはまりそうな患者さん、途中で診断名が変わり得るような患者さんも次々にやってきます。

 

治療に関しても、根拠に基づいた薬物療法を学んでおく必要があるのは言うまでもないとして、極端なうつ状態や躁状態に陥った患者さんや、人間関係をマニピュレートする患者さんと診療面接するにも、そのための経験や技量が求められます。

 

ところが、ごく稀に、精神科医としての研修を受けていないのに「自分は精神科医である」と標榜して、開業してしまう医師が存在することがあります。

どこでどういう活動をしているのが「未経験なのに精神科を標榜している医師」なのかは、ここではゴニョゴニョとしか言えませんが、とりあえず、精神科のスタンダードから逸脱した治療法を売り文句にしていて、医師来歴に精神科医としての研修を受けた形跡も、精神神経学会認定を受けた形跡も欠けている医師は、「よくわからない自称・精神科医」である可能性があります。気を付けましょう。

 

精神保健指定医には「人権の制限」が委ねられている

精神科医についてはこれぐらいにして、では、精神保健指定医とは何なのかについて説明します。

 

大まかにいうと、精神保健指定医とは、「精神疾患の治療のために個人の自由を制限せざるを得ない場面で、その是非を判断する」国家資格です。

 

精神医療には、一時的に患者さんの自由を制限せざるを得ない状況がままあります。

たとえば猛烈に興奮し、自傷他害(=自分自身や他人を害してしまうこと)のおそれが高い患者さんがいた場合、薬物療法などが効いてくるまで、一時的に保護室に隔離しなければならないことがあります。

一室に鍵をかけ、行動を制限するのは人権の侵害にあたりますから、その判断はいい加減であってはなりません。

精神医学に詳しいだけでなく、行動の制限についての精神保健福祉法の取り決めを理解している有資格者が、手続きにのっとって行わなければならないものです。

 

また、「強制入院」の代名詞にもなっている措置入院も、判断は精神保健指定医が行います。

措置入院は、国が入院費を支払うかわりに強制力が非常に強く、都道府県知事による行政命令でもあります。

このため、措置入院か否かは慎重に決定されるべきとされていて、措置鑑定で2人の精神保健指定医が診察し、2人ともが「措置入院が必要」と見解が一致してはじめて措置入院が成立することになっています。

行政命令である措置入院について判断するという意味では、精神保健指定医は公務員的な性格を帯びた資格、ともいえるでしょう。

 

ともあれ、患者さんの人権を一時的に制限することもあり得るのが精神保健指定医なわけですから、よくわかっていない人物に任せるわけにはいきません。

厚労省の参考資料には、

精神保健指定医制度

【制度の趣旨】

人権上適切な配慮を要する精神科医療に当たる医師について、患者の人権にも十分に配慮した医療を行う必要な資質を備えていることが求められることから、昭和62年の改正で、一定の精神科実務経験を有し法律等に関する研修を終了した医師のうちから、患者本人の意思によらない入院や行動制限の判定を行う者として、厚労大臣が「精神保健指定医」を指定する制度を創設。

【精神保健福祉法】

第十八条 厚生労働大臣は、その申請に基づき、次に該当する医師のうち第十九条の四に規定する職務を行うのに必要な知識及び技能を

有すると認められる者を、精神保健指定医(以下「指定医」と いう。)に指定する。

一 五年以上診断又は治療に従事した経験を有すること。

二 三年以上精神障害の診断又は治療に従事した経験を有すること。

厚生労働大臣が定める精神障害につき厚生労働大臣が定める程度の診断又は治療に従事した経験を有すること。

四 厚生労働大臣の登録を受けた者が厚生労働省令で定めるところにより行う研修(申請前一年以内に行われたものに限る。)の課程を修了していること。

このように書かれています。

人権にかかわる治療を行うからには、それ相応の精神医療のキャリアがあって、なおかつ厚労省が定めた諸々の条件をクリアしていなければならない、ということです。

 

この点、医師なら自由に標榜できる精神科医に比べると、精神保健指定医という言葉には大きな内実と責任がある、と言っても差し支えないでしょう。

精神保健指定医は診療報酬の点でも優遇されており、しばしば、医師の収入面とも無関係ではありません。

  

「あえて精神保健指定医を取らない」というポリシー

裁量という点でも収入という点でも優遇されている精神保健指定医ですが、「あえて資格を取らない」という精神科医もいます。

 私が20代の頃に出会った先輩のなかにも、あえて精神保健指定医の資格を取っていないベテラン精神科医が何人かいました。

 

彼らのポリシーは様々でしたが、しばしば見受けられたのは「行政命令のもと、精神保健指定医として人権制限を行うことへの抵抗感」でした。

 

精神科医見習いだった頃の私は、どうして先輩がたが抵抗感を示すのか、あまりピンと来ていませんでした。精神保健福祉法を勉強している最中でもあったので、法律をきちんと守って治療に携わればいいじゃないか、げんに、隔離などを必要としている重症の患者さんが存在しているじゃないか……などと思ったものです。

しかし、実際に精神保健指定医になってみると、先輩がたの気持ちが少しわかった気がします。

 

たとえば措置入院のための措置鑑定を行う時。

すべての患者さんに、明白な自傷他害のおそれがあるなら、措置鑑定は判断しやすいことでしょう。

しかし実際に措置鑑定をやってみると、そんなにわかりやすい人は半分いるかいないかぐらいで、多くの被鑑定者は「グレーゾーン」だったのでした。

 

「グレーゾーン」のなかには、たとえば自傷他害のおそれは低いけれども今が治療の絶好のチャンスで、治療には本人も家族も反対していて医療費も支払えそうにない……といったケースが含まれます。

措置入院は国が入院費を支払ってくれる行政命令ですから、本人と家族が入院に反対し、医療費を支払う意志が無くても入院治療が成立します。

 

しかし、治療の絶好のチャンスという理由で、人権を制限してしまう措置入院を決めてしまって良いものでしょうか。たとえ治療のチャンスを逃してしまうとしても、人権を重視するならば「措置入院は不要」と判断すべきではないでしょうか。

 

あるいは、既知の精神疾患のどれにも該当しない「グレーゾーン」や、たまたま精神障碍者だった人が犯した犯罪としか言いようがない「グレーゾーン」も鑑定の対象になります。

精神科に通院している人による、すべての器物破損や傷害事案が「強制的な治療の対象」と言い切ってしまうことには私は抵抗があります。精神科に通院している人のなかにも、「悪い奴」がいないわけではありません。警察の領分なのか?それとも精神医療の領分なのか?

 

しかし、措置鑑定にまわってきた被鑑定者が警察の領分だと精神科医が判断したとしても、「措置不要」になれば警察に差し戻しになる仕組みにはなっていないので、その場合は「野に放たれる」のです。

 

こうした「グレーゾーン」の問題は精神保健指定医になりたての私を大いに悩ませましたし、現在も悩み続けています。

「グレーゾーン」を制度的な欠陥とみるのか、制度の運用に必要なあそびとみるかは、いろいろなご意見があるでしょう。

行政命令として個人の人権を制限するシステム自体に疑問の目を向ける人もいらっしゃるかと思います。

 

そのことを考えると、精神保健指定医の資格をあえて取らない精神科医が存在するのは、しごく自然なことだと私は思います。すべての精神科医がこの制度に賛意を示しているとしたら、それもそれで気持ちの悪いことではないでしょうか。

 

とはいえ、今日の精神医療が精神保健指定医という資格抜きでは成り立たないのもまた事実ですから、精神保健指定医の役割はこれからもなくならず、私も隔離や措置入院について判断を続けなければならないのだと思います。

だからこそ、ひとつひとつの判断に人権がかかっていることは、常に肝に銘じておきたいものです。

人権の制限に鈍感になってしまった精神科医なんて、ロクなもんじゃないでしょうから。

 

 

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【登壇者紹介】

安達 裕哉(あだち・ゆうや)
ティネクト株式会社 代表取締役/ワークワンダース株式会社 代表取締役CEO
Deloitteにてコンサルティング業務に従事後、監査法人トーマツの中小企業向けコンサル部門立ち上げに参画。大阪・東京支社長を経て、2013年にティネクト株式会社を設立。
ビジネスメディア「Books&Apps」運営。2023年には生成AIコンサルティングの「ワークワンダース株式会社」も設立。
著書『頭のいい人が話す前に考えていること』(ダイヤモンド社)は累計82万部突破。2023年・2024年と2年連続で“日本一売れたビジネス書”に(トーハン/日販調べ)。
日時:
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(2025/6/2更新)

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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