想像してみて欲しい。
あなたは農民だったとしよう。
毎年毎年、不作に怯え、日々の食べ物を確保するのに精一杯な状況だ。
あなたはたぶん一度くらいはこんな事を考えるはずだ。
「ああ、食べきれないほどの食べ物に囲まれて生活したら、どんなに幸せだろう?」
しかし現代に生きる私達は、食べ物に溢れた生活がさして幸せではないという事を嫌という程知っている。
確かに飢えは不幸なのだが、毎日の満腹は私達の事をあまり幸せにはしない。
恐らく、お金に関してもほとんど同じことがいえる。
あなたは今、預金通帳に数億円あれば幸せになれるのになぁと考えているかもしれない。
しかし数多いる宝くじの当選者の多くが身を持ち崩した事例を多数見聞きするに、どうもお金が山程あったからといって幸せの絶頂に常にいられるようなものでもなさそうである。
貧乏は確かに不幸だ。けど、その逆の莫大な資産もどうやら私達のことを全く幸せにしそうにはない。
そもそもである。私達は縄文時代と比較して極めて高度で文化的な環境にある。
大前提として、私達は有史以来、最高峰のレベルで物凄く恵まれているし、下手したら中世時代の王族貴族なんかよりも遥かに”自由”だ。
それにもかかわらず、全然幸福だと自信を持って回答できないのは、いったいなんでなんだろう?
こんなにも豊かになったのに、私達はいったいなぜ幸せになれないのだろう?
僕はその秘密の一端は、社会の中にあるのではないか、と思う。
私達は社会の中で与えられた役割から、幸福を享受する生き物なのだ。
今日はその事について少し掘り下げて考えてみよう。
ドヤ街を歩いて寝泊まりして思うこと
僕は一年のうちの数日、趣味でドヤ街に寝泊まりをしている。
あまり知られていないけど、東京なら山谷、横浜なら寿町、大阪ならあいりん地区の周囲にあるドヤ街は外国人バックパッカー向けの簡易宿所となっている。
値段は一泊1200円~2000円程度と極めて安く、治安もよい。普通に寝る分には何の問題もない。
ドヤ街というと、かつては日雇い労働者の街というニュアンスがあったけど、現状では高齢化が進み真の意味での限界集落としての側面が強くなりつつある。
街中には地面にダンボールを敷いて寝ている中~高齢男性が散見され、一度訪れると本当にここが日本なのかと衝撃を受けること必死である。
彼らをみていつも思うのだ。
自分と彼は、種としては同じホモサピエンスなのに、いったいこの待遇の差はなんなんだろうと。
同じ種である以上、自分が向こう側に居たとしても、何もおかしくないのに、なぜ自分は”こちら側”にいるのだろうか?
毎年、1200円の宿でゴロ寝しながら僕はこう考える。
「数年後、僕に何があったら”社会”は向こう側へと僕を放り投げるだろう?」
人の地位は時代から与えられた物語で決まる
アメリカ大統領も天皇陛下もドヤ街に住む人達も、私達と同じホモ・サピエンスである。
彼らを今の地位に規定しているのは、時代が作り上げた物語に他ならない。
時代が提供する”物語”をどうやって自分の中に取り入れられるかで、私達の地位は概ね決まる。
例えば、アメリカ大統領。この地位は大統領選挙での勝利という儀式を経る事で誰でも名乗ることが可能なものだ。
選挙という儀式を通じて、大統領という物語を自分の中に封じ込める事で人類60億人の誰もが等しくアメリカ大統領となれる可能性を秘めている。
このように、自分で勝ち取れる性質の物語がある一方で、天から与えられるタイプの物語もある。
例えば皇族。皇室に産まれて落ち、厳しい訓練を経た結果、万世一系のものとしての皆が納得できるだけのストーリーをその身に内包させているから皇族は皇族たりえている。
大なり小なり、このように人という生き物は天から与えられた”物語”を演じて生きる事になる。
そしてこの”物語”にこそ、人の幸福の源のようなものが詰まっているのではないか、というのが僕の仮説である。
もっというと、その与えられた物語に自分が納得できた時、私達は自分を幸せだと感じる事ができるのだろう。
社会から与えられた役目は幸せと相関関係がある?
ひょっとして、社会から与えられた物語が幸福に随分と影響しているのではないか?
以下の文章を読んで、その思いが随分と強くなった。
「会社組織でやっていけないからフリー」と考える人ほど会社に残ったほうが良い〜脱社畜ムーブメントがはらむ危険性(御田寺圭)
この文章を書いた筆者は、Twitterのフォロワーは数万。有料noteの購読者もかなり多く、単著も出せている。
世間一般的にもかなり成功している方だろう。
だが、その筆者をもってしてもこう言うのである。
もし神様がやってきて、もしいまからでも社会人として問題なく、あるいはなんとかやっていけるような人間に変身させてくれるのなら、いまのすべてを失ってでもそうしたいとすら思う。
僕は正直、筆者がいったい何を言っているのかサッパリわからなかった。
フリーランスとして成功しているのだから、それで全然十分ではないかと僕は思うのだが、いったい何が悲しくて全てを失ってでも元に戻りたいだなんて思うのだろうか?
けど、今ならなんとなくわかる。
きっと彼は社会から丁度よい役割を“与えてもらえなかった”という感覚があり、身の回りの社会から役割を“与えてもらえた”人との格差に苦しみを感じるのだろう。
幸福が社会から個人へと与えられた物語と相関関係があるのだとしたら、その物語が自分に“与えてもらえなかった“事に理不尽さを感じるのは理解できるし、それこそもう一度サイコロが振り直されて自分に丁度よい物語が”与えられる“に回れるとしたら、そちら側に行きたいと思うのは痛いほどよくわかろうというものである。
結局、私達は自分の本当の姿なんて評価されてなんていない
時代から与えられる物語はポジティブなものだけではない。
例えば、先の川崎の事件。とても痛ましい事件であり、被害者家族が物凄く不幸になってしまったのは言うまでもないのだが、多くの人が目を向けないもう1つの被害者の姿がある。加害者の家族である。
親族から重大犯罪人が一人出ると、とつぜん犯罪者家族という負の物語を社会から押し付けられる。
多くの加害者の親族はそのまま同じところで住み続けるのは難しくなり、引っ越しをしたり、会社を追われ転職したりするハメになる。
これは実質的には現代の連座制といえよう。
そしてこの”加害者家族”という物語は、誰もが負う可能性があるものであり、一度与えられたら拒絶することは基本的にはほぼ不可能なものでもある。
こうしてみればわかるけど、私達は社会から与えられた役割を生きているにすぎない。
与えられた役割が私達の姿かたちを規定しており、世間はその有り様を”正確”に評価する。
結局、私達は自分の本当の姿なんて評価されてなんていない。
世間様が決めた”物語”の道化を演じているだけにすぎない。
そしてその演じている道化が幸福なピエロなのか不幸な藁人形なのかは、川崎の事件のようなほんの少しのキッカケで、いつだって変わってしまうようなものでもあるのだ。
世間は怖い
かつてイエスは言った。「人はパンのみに生くるものにあらず」
この言葉は一般的には
「人は物質的な満足だけを目的として生きるものではなく、精神的なよりどころが必要である」
という意で用いられる事が多い。
僕はかつてこの言葉が大嫌いであった。
精神的なよりどころというのが、信仰心を直接的に示唆しているように見えたからだ。
けど今では僕はこの言葉をどちらかというと、ちょっと怖いものとしてみている。
生きるというのが呼吸や循環などといった機能的なものではなく、脳が生み出す精神の写し鏡にあると考えると、確かに人はパンのみでは生きるものではない。
世間様が作り出した”物語”の中を人は生きるのだ。
時代が自分に与える”物語”が幸福なピエロである事を祈りつつ、今日も一日幸せを噛み締めていくしかない。
いつだって僕も”向こう側”にこの身を投げられたとしても、何もおかしくはないのだから。
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