現代社会に必要な素養や能力といって何が思いつくだろうか?

多くの人は、いわゆるコミュニケーション能力や読み書きができる能力、規則正しく出社しコンスタントに労働・学習できる行動プロトコルなどを連想するだろうし、実際、それらは必要である。

 

では逆に、もともと人間に備わっているけれども現代社会ではあまり必要ない素養や能力にはどんなものがあるだろうか?

 

突然、においのない世界がやってきた!

そういうことをしみじみと考えさせられたのは、コロナ禍に直面した頃のことだ。新型コロナウイルスは、風邪症状や発熱だけでなく、さまざまな随伴症状や後遺症を伴うといわれている。

 

私の場合、嗅覚をコロナウイルスに持っていかれた。

発熱して間もなく、まったくにおいがわからなくなった。自分の排泄物のにおいもわからないほど嗅覚がだめになったと言えば、想像がつくだろうか。

 

一般に、嗅覚は味覚と深い関係を持つとされ、少なからぬコロナウイルス経験者が「においがわからなくなったら、味もわからなくなった」と述べる。

ところが私の場合、なぜか味覚はほとんどやられなかった。おかげで、発熱でうなされている最中も経口補水液やカロリーのある食べ物をしっかり摂れて、比較的マシな状態をキープすることができていた。

 

そうして発熱期間をやり過ごした私を待っていたのは「においだけ、ぜんぜんわからない」という事態だった。

えー? においがわからないとワインが飲めないじゃないですかー。

 

私はワインが大好きで、その複雑で移ろいがちな香りに魅了されてきた。ワインの楽しみは、触覚1割・視覚2割・味覚3割・嗅覚4割で構成されている(と思う)。

一番ウエイトの大きな嗅覚がやられてしまうとワインの面白さのかなりの部分が損なわれる。で、実際損なわれた。ワインの味や舌触りはだいたいわかるのだけど、においが全くわからない。

 

ついでに言うと、ワインと一緒に味わう料理のにおいもまったくわからない。フレンチもイタリアンも中華も、ことごとくにおいがわからないのだ。なんだこれは。おいしく食べられるのは不幸中の幸いだが、においや香りだけがゴッソリと欠落している体験はなんとも奇妙だった。

 

令和の日本社会に嗅覚はそこまで必要ない

では、嗅覚を封じ込められた私は社会生活に困ってしまったか?

 

ワインのにおいがわからなくなったのは、一応困ったことではあった。でもワインを飲まなくても社会生活には困らない。むしろワインを遠ざけるようになって身体が健康になったぐらいだ。

においがわからなくなって実感したのは、「現代社会では嗅覚は必須ではないのでは?」のほうだ。

 

哺乳類全般にとって、嗅覚はとても重要な感覚だったはずで、たとえば犬や猫が嗅覚障害に陥ったら生活がめちゃくちゃ不便になることは想像にかたくない。人間だって元々は嗅覚はかなり重要だったはずだ。

 

人間は嗅覚をとおして好ましいものを欲しがり、遠ざけておくべき危険──腐敗したものや感染性の高そうなもの、有毒かもしれないもの──を遠ざけるよう進化してきた。それだけではない。人間同士のコミュニケーションにも嗅覚が役立つ場面は少なくなかった。

 

現代人はほとんど忘れているが、敏感な人間はにおいをとおして相手の感情を読み取ることができたというし、そうでなくても体臭を介したコミュニケーションが案外幅をきかせていたとは、アラン・コルバン『においの歴史』が語るところである。

 

その名残は文化的にも残っている。日本人もある程度は用いているが、欧米人は香水をかなり重視する。世界的にみれば、無臭であること・においで迷惑をかけないことを至上とする文化は変わり種で、自分らしい香りを選択する文化のほうが主流だと言えよう。

 

にもかかわらず、新型コロナウイルスに嗅覚がやられてしまってみると、「においがわからなくてもあまり困らなかった」のである。

鮮度の悪い食品は見た目でわかるし、そもそも消費期限や賞味期限が教えてくれる。腐敗したものや感染性の高そうなものについても、現代人としてインストール済みの知識がそれを告げてくれるし、街に腐乱死体や排泄物があふれている時代でもない。

 

むしろ、不快なにおいを感知せずに済むのは快適とさえ言える。自分自身が不快なにおいをばらまいていないかに注意が必要といえばそうだが、清潔な生活習慣を身に付けている限り、それも問題になることも少ない。

 

コミュニケーションにしてもそうだ。仕事や売買といったフォーマルな領域において、嗅覚がコミュニケーションを左右する可能性は低い。よほど悪臭を放っていれば相手に嫌がられてしまうかもしれないが、清潔な生活習慣を実行している限り、そこが問題になる心配も少ない。

 

ということはだ、嗅覚というセンサー、においというチャンネルは現代人のコミュニケーションにそこまで影響を与えない。控えめに言っても、嗅覚の問題がコミュニケーション上の致命的ハンディになることはあまりないだろう。

 

嗅覚は人間の五感のひとつで、過去においては死命を制する感覚のひとつだったはず。嗅覚が封じられてしまった人が長生きするのは難しかっただろう。

しかし嗅覚から得られる情報が知識として流通し、嗅覚で危険を見極めなければならない場面が激減した現代社会においては、嗅覚がなければ長生きができない、などという事態はあまり考えられない。

 

それって凄いことだと思いませんか。私は凄いことだと思う。その凄いことを教えてくれたのが、コロナウイルスによる嗅覚障害だった。

 

要らなくなった機能があり、必要になった機能がある

嗅覚以外にも、要らないとまでは言わなくても重要性の低くなった人間の機能はいろいろ思いつく。

 

たとえば風のにおいや気圧変化から雨を予想する機能、海の様子を見極めて漁に出るか出ないかを判断する機能、といったものは狩猟採集社会では重要だったろうし、農林水産業に従事している人には現在でも重要かもしれない。

けれども東京のような大都市で暮らしている人にとって、それらの機能は天気予報によって代替されてしまった。スマホを持ち歩いていればそんな機能には全く出番がない。

 

メディアやインフラの発達によって必要になったり不要になったりする機能もある。

昭和生まれの人は、電話番号を暗記していた頃を思い出せるのではないだろうか。でも、平成生まれの人、特に21世紀以降に生まれた人にとって、電話番号とは覚えるものではなく、携帯電話やスマートフォンに記録されるものになっているだろう。

 

電話が普及する以前は電話番号を覚える機能は不要だったが、電話が普及していったん必要になり、さらにテクノロジーが進歩して再び不要になった。

 

意外かもしれないが、「キレる」のも昔は必要な機能だった。かつては挑発されたり恥をかかされたりしたら即座に「キレる」ことが、面目を保つうえできわめて重要だった。

今日の文化では挑発されたからといって激発してはいけないが、たとえば近世のヨーロッパでは挑発されたら激発しなければならず、それができない人間は「こいつは面目を守れないやつ」とレッテルを貼られ、社会適応が難しくなってしまったのだった。

 

激発する能力は副腎から出るアドレナリンやコルチゾールといった内分泌系の物質によって左右されるが、それらがどれぐらい分泌されるのが好ましいのかは、過去と現在ではだいぶ異なる。

 

今日では、アドレナリンやコルチゾールがドバドバ出過ぎるのは機能障害とさえみなされかなない。が、過去の世界ではドバドバ出るぐらいでなければ「面目を守れないやつ」とみなされたり「腰抜け」とみなされたりしていた可能性が高い。

 

そうやって、人間に備わっていた機能のいくつかが不要になったり有害とみなされたりしていく一方、新しい機能が人間に期待されるようになっている。

 

今日では読み書き能力は必須に近く、それがうまくできない人は限局性学習症と診断される。文字や数字が無かった時代には読み書き能力など不要だったし、識字率が低かった頃もほとんどの人にはどうでも良かった。

ところが読み書き能力が必須になった現代では、読み書き能力の不足が小さくないハンディキャップとみなされるようになっている。

 

ADHDについても似たようなことが言える。じっと座って勉強し続けること、デスクワークを規則正しく実行することは、ある種の人間には簡単なことでも、別種の人間にはたいへんな苦痛を伴うものだ。

 

そのような能力が多くの人に必要になったのは、義務教育が行き届き、学歴を身に付けることが自明視されるようになり、ホワイトカラー的な職業の割合が増えてからのことだ。

 

ASDにしても、人間同士のコミュニケーションのうち、ある部分が重要になったからASDはハンディとみなされやすくなった半面、ASDの人が持ち合わせているある種の敏感さ・鋭さは現代社会ではそれほど重視されなくなってしまっている。

 

「人間の機能にあわせて社会がつくられる」のでなく「社会にあわせて人間の機能が選択される」

こうして考えると、未来の社会でどんな機能が必要になり、どんな機能が不要になるのかを想像するのが難しくなる。

 

未来の社会不適応についても同様だ。たとえば今だったら必須に思える座学の必要性も、未来には電話番号の暗記と同じぐらい不要になるかもしれない。相手の表情を読み取る機能、相手の声の調子から感情を読み取る機能も、スマートメディアに搭載したAIによるコミュニケーションサポートが当たり前になれば不要になるかもしれない。

 

そうやってテクノロジーやインフラによって少しずつ「人間に期待される機能」が変わると同時に、おそらく「人間らしさ」と称されるものも変わっていく。

全体としては人間に必要な機能は少なくなり、かつては必要とされた機能がテクノロジーやインフラによって補完されたり更新されたりしていくのだろう。

 

では、その未来における「人間らしさ」とはどんなものだろうか?

 

ここを考えるのはとても面白いことだが、まあその、簡単に結論の出るテーマではない。ただ、あるべき人間像が大きく変貌することだけはほとんど間違いないし、20世紀の人間はもちろん、2020年代の人間すら古臭く、不要な機能を後生大事にしている人間のようにうつるのもほとんど間違いないだろう。

ちょうど、2020年になってもなお電話番号を一生懸命に覚えている人が古臭く見えるのと同じように。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo:Lisette Harzing