「子供には好きなことを心ゆくまでさせなさい」

将棋の藤井聡太さんが破竹の快進撃を続け、モンテッソーリ教育のような好奇心を掘り下げる教育が素晴らしいものだともてはやされる今、子供に嫌なことをやらせるのはまるで大罪のようである。

 

が、しかし最近は「意外と好き嫌いって、表裏一体なところがあるな」と思うようになってきた。

自分の身の回りを見渡してみると、自分が魅力を感じるタイプの人は、幼少時の好きを突き詰めたというよりも、幼少時に持った負の感情といえるようなモノを上手に昇華させている事がとても多い。

 

「ひょっとして、”好き”を突き詰めるだけが能ではないのではないか?」

今回はそういう話をしようかと思う。

 

読書感想文はワーキングメモリが無い人間には大変すぎた

僕には物凄く苦手だった事が一つある。読書感想文だ。

小学生の頃「本を読んで、感想を書け」と生まれて初めて言われたとき、心の底から不思議に思った事があった。

「なんで読んだ本の内容を脳内に留めた上で、何かモノを書くだなんて芸当ができる人が、この世の中にいるんだ?」

 

日本語読解能力が極めて乏しい僕からすれば、本なんて”読む”だけで一杯一杯で、それを記憶に留めた上で何かに言及する事だなんて、幼少時は不可能にも近かった。

日本語の文章を読み解く行為だけでメモリが枯渇してたのに、学校の先生は内容を記憶に留めた上で感想をひねり出すなんて曲芸をやれという。

どう考えてもこの作業はロースペック人間には拷問である。

 

確かに「面白かった」とか「つまらなかった」ぐらいの心像のカケラは頭の中にあった。

けど、”なんでその結論に至ったのか”を説明しろと言われても、本当に何も書けなかった。

だから原稿用紙を埋められる人の事が、本当に不思議で仕方がなかった。

 

”やってみろ”と言われた事が”できない”という事実は人を深く傷つける

「なんでみんな、こんな凄い事ができるのだろう?」

「いや、できない僕の方がおかしいのか?」

こんな感じで幼少時に真剣に悩んだ。

なので、僕の心のなかには読書感想文というものに対して強い負の感情が未だにある。

コンプレックスと言っても差し支えないかもしれない。

 

ずっと後になって、実は多くの人は本すら読めていない事を知るのだが、当時の僕は毎年やってくる夏休みの宿題である読書感想文の巡回に本当に深く絶望していた。

”やってみろ”と言われた事が”できない”という事実は幼心を深く傷つける。

 

「きっとこのまま、普通の人にできる事が自分にはできないままなんだろうな」

小さい頃、こんな感じで読書感想文に強い劣等感を植え付けられた僕が、大人になって読書感想文みたいなものを毎週楽しんで書き続けているだなんて、いったい誰が予想できただろうか?

 

あんなにも”できなくて”憎んでいたはずの事を、今はどちらかというと”できる”側にいて、しかも生きがいになっているのだから世の中というのは本当に不思議なものである。

けど、人間が物事を習得する仕組みを考えれば、こういう裏道のようなやり口も確かにありなのだ。

その鍵は、1万時間の法則にある。

 

傷は執着するためのギフトでもあった

マルコム・グラッドウェルがその著書である天才の中で1万時間の法則というものを紹介している。

 

物事を極めてプロになるためには、それぐらいの修練が必要だというのがその内容なのだけど、実のところコンプレックスや嫌な記憶というのは、何かに集中する事に対しての強力な接着剤にもなりえる。

実際、僕が30歳を超えた今、毎週のように何千文字も読書感想文的な文章を書き続けられるのは、読書感想文に対する苦手意識があまりにも強すぎて、それを克服したいという捻じ曲がった執着のようなモノが大きいように思う。

 

仮にあの頃、親や学校が「嫌いな事、苦手な事はやらなくてよい」といい、心ゆくまでテレビゲームをやり、読書感想文に全く向き合わされなかったら、今こんな風に文章を書いていたのだろうか?

もちろん歴史に if は無いので正直どうなっていたのかは誰にもわからないが、たぶん書いてなかったんじゃないかと思う。

それほどまでに、僕にとって負の執着心は相当に強い何かとして今でも作用し続けている。

 

傷の形こそがその人らしいユニークさともなりえる

あの頃に授けてもらった嫌な記憶は、20年近い時を越えて自分の心の中に残り続けている。

だから、”執着”の力というのは誠に大層なものだと思うし、人間というのは一筋縄ではいかない生き物である。

 

たまたまとはいえ、こういう風に負の長期記憶をポジティブに活用する事に成功した身からすると、執着のたぐいを”嫌な記憶”として臭いものに蓋をする的な対応をとったり、被害者意識を爆発させて

「幼い頃に自分はこんなにひどい目にあったんだ!」

と吠え叫んでいる人をみるたびに

「それ、もうちょっと上手に方針転換すれば、物凄く”いいもの”になるかもしれないのに。もったいない」

と、とても残念に思う。

 

ネガティブな思い出だって、上手に利用できるのが人間という生き物のよい部分だ。

心の傷は見方によってはその人の痛い部分だが、そのひと独自の魅力にもなりえる。

同じ形をした傷などない。

その傷の形こそがその人らしいユニークさともなりえる。

実は宮沢賢治が僕にとって、その大きな傷の一つだ。

 

宮沢賢治が本当に大嫌いだった

小学生の頃、なんの前触れもなく母親が僕に熱心に宮沢賢治を読めと押し付けてきた事があった。

しかも夏休みの宿題として、その読書感想文を提出しろと命じてきたおまけ付きだ。

 

その当時の僕は宮沢賢治の何が面白いのか本当にサッパリわからなかった。

いまになって”なめとこ山の熊”とか”注文の多い料理店”を読み返すと素直に面白いなと思えるのだが、その当時は言い回しが小難しく感じるだけでなにが面白いのかサッパリわからなかった。

 

それだけではなく、自分がつまらないと感じるものを「これは大変に素晴らしい」と押し付けられ読まされる事が本当に苦痛で仕方がなかった。

いまなら人がどんなに面白いと言ってるものだろうが、自分がつまらないと思ったら「つまらない」と主張する事ができるが、当時はこれを面白く読めない自分自体ができそこないなのだろうと随分と思い悩んだ。

 

世の中には不幸なタイミングでの出会いというものがある。

少なくとも宮沢賢治は幼い頃の僕には早すぎた。

そのときに感じた嫌な記憶は脳の片隅にべっとりと染み付いて剥がれない。

 

しかし、その傷口を通して眺める宮沢賢治の味わい深さといったら…こんな屈折した感情を持ちながら宮沢賢治を読み解ける権利を20年越しでもらえたのだから、嫌な記憶というのもあながち悪いだけのものとはいえない。

僕ほどに宮沢賢治を愛憎入り乱って読める読み手は、日本にもそうはいないんじゃないかと思う。

好きと嫌いが表裏一体であるように、愛憎もまた何かに粘着する事に関して言えば同等以上に強力に作用する。

 

そしてそれは、意外とキレイに生きているだけでは得ることができない特別なものでもある。

 

トラウマなき人生が羨ましく思えていた時期もあった

若い頃はトラウマのようなものを全く持たずに清く生きてそうな人の事が本当に羨ましかった。

「ああいいなぁ。この人は人生泳ぐの上手で。生きるの、ラクそうだなぁ」

と本当によく思っていた。

似たような事を考えた事がある人も多いんじゃないだろうか?

 

だけど、事はそんなに単純でもなかったのだ。

コンプレックスとか心の傷は、僕に他にはない独特な味付けを与えてくれた。

その傷口を僕は今では物凄く愛しているし、仮に人生をやり直せたとしても、傷口がない人生を選ぼうとはちょっと考えられない。

 

幼い頃に大嫌いだった読書感想文は振り返ってみれば今の自分を組み上げるための強い燃料として作用していたし、小さい頃は大嫌いだった宮沢賢治の作品群は、普通の人が読んだ以上に僕の感情をかき乱してくれる。

そして嫌な思い出は、未来の自分が過去の自分を救うという、とても貴重な経験を与えてくれる。

僕はその事をある漫画から学んだ。

 

いまの自分だけが過去の自分を救う事ができる

3月のライオンという漫画がある。

有名な漫画なので知っている人も多いとは思うのだが、この漫画の中で主人公である桐山零君が、全く意図していない形で過去の自分を”救われる”シーンがある。

<3月のライオン 第5巻より>

 

僕はそれまで、かわいそうな過去というものは変えられないものだと思っていた。

その当時に辛い思いをした自分というのは100%歴史的に定まってしまった事実であり、どうやったって過去は改変しようがないのだから、いつまでたっても過去の自分は”かわいそう”な存在であり、そういった経験をする事は本当に最悪なものだと思っていた。

 

けど、この物語を通じて、過去の自分だってちゃんと”救える”のだと知って、本当の本当に心を強く揺さぶられた。

もちろん、嫌な思いに関わった全てのモノを笑って許せるわけではない。

けれど、少なくとも”かわいそうなまま”で過去が定まってしまうわけではなく、未来でその傷口から新しい何かが生まれる事もある。

 

最近、宮沢賢治を改めて読み返し、彼の文章から昔は読み取れなかった魅力を感じられるようになった。

そしてその魅力を感じた自分に対してこう思ったのだ。

「ああ、人間って、生きてればこんなにも”変わる”んだな」と。

 

最初から幸運な出会い方をして、彼の文章を100%良いものとして受け取った人生は、それはそれで良かったのかもしれない。

けど、こんなにも屈折した想いを抱えながら宮沢賢治の文章が読める”いま”を経験でき、その上で過去の自分の傷口を味わえる事は、それはそれでとても幸せな事のように僕は思った。

 

不幸な出会いがいつだって不幸しか産まないわけではない。

20年ぐらいたってみれば、それはもう立派に誰にも経験できないような妙を感じるための糸口にもなる。

あなたも心に余裕ができてきたら、傷口をちょっとなめてみてもいいかもしれない。

きっと誰にも追体験できない、あなただけの無二を味わえるはずだ。

 

 

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高須賀

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