以前、私は「知識を手に入れるための知識」がない人にとって、Google検索は難しい という文章を書いたことがありました。

「知識を手に入れるための知識」がない人にとって、Google検索はあまりにも難しい。

現状のGoogle検索の正体は、「知識の無い人に知識を授ける」ツールではなく、「知識の豊かな人だけが知識を引き出せて」「知識の乏しい人には質の良くない知識しか与えない」ツールと言っても過言ではありません。

あるいは、知識の豊かな者と乏しい者、リテラシーの豊かな者と乏しい者の格差を拡大再生産するツールになってしまっている、とも言い換えられるかもしれません。

この記事を2020年から振り返ると、「おいおい、Google検索だけに頼って大丈夫か?」などと思ってしまいますが、語彙力や情報リテラシーの高低によって引き出せる情報の質が違うのは、当時も今も変わらないところだと思います。

 

慣れていない人は書店でちゃんと本が選べない

では、語彙力の多寡や情報リテラシーはどうすれば身に付くのでしょう。

冒頭で紹介した文章の結びで私は、「書籍を読むなり、新聞などを読むなりして補っていくしかない」と書きました。

大筋として、今でもこの意見に変わりはありません。

 

ですが新聞はともかく、語彙力や情報リテラシーの向上に繋がりそうな書籍を選ぶのもなかなか難しいのでは……と最近は思うようになりました。

 

書店には、たくさんの本が売られていますね。

紀伊国屋書店やジュンク堂書店といった大店舗はもちろん、地方の中規模書店にもひと揃いのレパートリーはあります。

文豪による傑作や最新のサイエンスを扱った本だって、地方でも買おうと思えば買えるのです。

最近は、書籍の検索端末のあるお店も増え、便利になりました。

 

しかし書店に不慣れな人、本そのものに馴染みがあまりない人にとって、書店は意外に広大で、何を買ったら良いのかわからない・わかりにくいもののようです。

 

たとえばうつ病の患者さんに「書店に行って、自分の病気についての本を買って読んでみてはどうでしょう」と提案した時に、病気について役立つ本をたちまち購入できる人もいれば、そうでない人もいます。

なかには「健康食品でうつ病をなおす」的な、トンデモ系の本を探し当ててきてしまう患者さんもいらっしゃいます。

「どうも書店が苦手で……」とおっしゃる患者さんも珍しくありません。

 

書店で本を探し慣れている人にとって、目当ての本のありそうなジャンルに真っすぐに向かい、目当ての本を見繕うのはそれほど難しくありません。

初めて入る大きめの書店でも、店内案内を見たり店内検索を使ったりして、じきに目当ての本を探し出せるでしょう。

 

ところが書店に慣れていない人にとって、まず目当ての本のありそうなジャンルに向かうこと自体、簡単ではありません。

目当ての本のようでそうではない、ちょっとトンデモが入った本を手にしてしまうことだってあるかもしれません。

 

書店に並んでいる似非科学系の本やフェイクっぽい本を眺めていると、外観がフレンドリーでやさしい感じのするものや、魅力的なボキャブラリーの目立つものが多いよう見受けられます。

勘の働かない人は、つい、そういった本をレジに持っていってしまうかもしれません。

 

ときに、「書店に入ると人はリラックスする」というフレーズを耳にしたりもします。

あれにしても、書店にすっかり慣れた、書店がホームグラウンドと感じるタイプの人の感覚ではないかと思うのです。

書店をアウェーだと感じる人にとって、書店はそこまで居心地の良い場所ではなく、どれを買ったら良いのかわからない本の並んだ迷宮のごときもの、ではないかと思います。

 

あのとき私たちは前世本や予言本を真剣に読んでいた

書店に並ぶ似非科学系の本やフェイクっぽい本を眺めていて、ときどき思い出す昔話があります。

中学校時代の終わり頃に、クラスメートの間で「大人が読みそうな本を買ってきて貸し借りする」のが流行ったことがありました。

 

ほかの記事でも書きましたが、私が通ったのは”荒れた公立中学”で、そこは勉強することがカッコ悪いと思われるような世界でした。

そんな世界で本の貸し借りが流行したのは、普段は勉強を避ける生徒も受験勉強せざるを得ない、そういう時期だったからかもしれません。

 

この流行は私にとってありがたいもので、クラスメートからさまざまな本を借りました。

今ではファンタジー小説の古典となっている『ドラゴンランス戦記』や『ロードス島戦記』に出会ったのもこの時期です。

 

そうしたなか、普段はまったく本を買ったり読んだりしない”とっぽい”クラスメートも学校に本を持ってきていました。

で、彼らの持ってきた大人向きの本は……「あなたの前世について語る本」や「精霊が未来を予言する本」などだったのです。

 

その前世本には自分自身の前世がはっきり書かれているわけではありませんでしたが、平安時代や戦国時代の話が出てきて、読んで楽しいものでした。

精霊が未来を予言する本には、キリスト教の天使や仏教の仏様の名前がたくさん登場し、後半には精霊による今後の国際情勢の予言が記されていました。

 

それらを貸してくれた改造制服の似合うクラスメートは「な、俺の本面白いだろ?」と得意げに語り、私もおおいに頷きました。

中学生だった私には前世本や予言本は新鮮で、とても興味深く感じられたからです。

 

大人になってから振り返ると、前世本や予言本を買ってしまうのは情報リテラシーの足りないことのように思えますが、少なくとも当時の私は、そういったことを考えていませんでした。

改造制服の似合うクラスメートと一緒に大真面目に読んだことはよく覚えています。

 

その後、私はティーン向けのノベルス(今でいうライトノベルのような本)を読むのに夢中になり、大学進学後は岩波新書や新潮文庫を読み漁るようになりました。

そうやって色々な本を読み、書店通いを続けるなかで鑑識眼や情報リテラシーを少しずつ身に付けていったのだと思います。

他方、50代から60代の人が前世本や予言本、似非科学本やフェイクっぽい本を買い求める姿も書店ではよく見かけます。

 

そうした人のなかには、似非科学本やフェイクっぽい本を「鍵括弧付きのファクト」として、それか「一種のネタ」として読む人もいるかもしれません。

ですが中学生時代のクラスメートや私と同じく、「鍵括弧のついていないファクト」として、または「世界の真実」を語る書籍として受け取る人もいるでしょう。

そのような人にとって、書店とは、ファクトフルネスな透明の世界ではありますまい。

 

言うまでもなく、こうした真贋の定まらない不透明な世界はインターネットやSNSに一層よく当てはまることです。

ネット上で見栄えの良いニセの文章と、そうでもないファクトな文章が並んで置かれている時、ファクトな文章を選ぶのは書籍選びと同等以上に難しいことです。

とりわけそれが、隙間時間に素早く目を通すだけなら尚更でしょう。

である以上、某国の政治家が大声で語り続けたフェイクなメッセージも、たくさんの人に「鍵括弧のついていないファクト」として響いたことでしょう。

 

……だったらどうすればいいのか。

書店も不透明、インターネットやSNSも不透明だとしたら、書籍や情報の真贋を見極める鑑識眼、望ましい情報リテラシーはどこでどうやって身に付ければ良いのでしょうか。

 

先月発売された、『NHK100分de名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』』では、芸術を例に挙げて、鑑識眼や趣味やリテラシーなどが学歴・出身階層・家庭環境などによっておのずとできあがる様子が解説されています。

要するに、芸術作品の素晴らしさを心から受容できるのも、その知識や態度、構えなどの出会いの前提となるものを家庭や学校から学んでいる、言い換えれば芸術と出会うための「遺産」があるからだと言うのです。
もちろん、ジャズやクラシックという特定のジャンルをすでに知っている必要はまったくありません。しかし、そもそも音楽を鑑賞するという習慣、態度、構え、性向といったものがまったくないと、ラジオから流れてくるものはただの音にしか感じられないでしょう。

これは書籍にもだいたい当てはまることで、書籍と出会うための「遺産」の有無によって鑑識眼や情報リテラシーは大きく変わるでしょう。

「家にある書籍の量によって、子どもの学歴が違ってくる」といった話も、この筋の話ですよね。

 

しかしもし、家庭環境で鑑識眼や情報リテラシーが全て決まってしまうなら救いはありませんし、実際そこまで救いがないわけではありません。

たとえば、一緒に本を読める仲間を増やしたり、学校や書店が勧める推薦図書を読んでみたりするのはかなり有効な対策ではないでしょうか。

 

このうち推薦図書については、「推薦図書なんて面白そうじゃない」という声が聞こえてきそうですし、中学生時代の私もそう思っていました。

ただ、自分が選ばず誰かが選んだ本というのはやっぱり馬鹿になりません。

 

学生時代にイヤイヤ読んだ推薦図書のうち、夏目漱石の『こころ』とウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』は私にグッサリと刺さって、いまだに抜けません。

 

大学の先生に薦められた書籍も同様です。

自分の好みにおもねっていないチョイスだからこそ、新しい何かに出会うチャンスがあります。

 

しかし、できれば誰かと一緒に書籍を読むのがベストではないかと思います。

クラスメート同士で本を貸し借りしたり、仲間同士で読書会を開いたりすれば、他薦の本をそれほど抵抗感なく読むことができます。

 

また、自分ひとりで前世本や予言本やフェイクニュース本に触れるのと、集団で触れるのでは、受ける印象や読み筋も違ってくるかもしれませんね。

まあ、参加者全員がフェイクニュース本をすっかり信じ込んでしまう可能性もゼロではないかもしれませんが……。

 

いずれにせよ、真贋をみきわめる鑑識眼や情報リテラシーを、なんの基盤も背景も持たずに独力で身に付けるのは、インターネット時代の現在でもおそらく難しいでしょう。

書籍や情報を共有できる人と共有し、良い繋がりが持てるかどうかが、この方面のブレイクスルーのカギではないかと、私は考えています。

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by:Chase Elliott Clark