医療の体制も政治の世界も相変わらず江戸時代の日本
最近、日本の新型コロナウイルス感染者数が欧米にくらべ明らかに少ないにもかかわらず、病床の逼迫とか医療崩壊などということがいわれるような事態になっていることに対して、いろいろな方面から疑問の声があがってきている。
コロナの感染は一年以上も前からのことであるのに、なぜ病床の確保といった準備がもっと早くからできてきていなかったのか、医師会の幹部が危機だ、危機だと会見で煽っているが、そういう医師会がこの間に一体何をしていたのかといった声である。
わたくしは医者ではあるが、この問題について特に知識があるわけではない。
だが、そんな簡単なものではないのではないか? 根はもっと深いのではないかと感じるところがあるので、少し書いてみたい。
なお、参照文献として池上直巳 J・C・キャンベルの「日本の医療」(中公新書 1996)を用いた。
もう四半世紀前に刊行された本であるので、日本の医療の体制についても現在とは大幅に異なっているところも多い。
そのため、以下書くことにも見当違いなところもあるかもしれない。
その本が執筆された当時、3時間待ち3分診療などと揶揄されて日本の医療の体制は散々にいわれていた。
しかし海外からみると、主として医療費の抑制がうまくいっているという点において、日本の医療はとても優れていると評価されていた。
対照的に、先進国中でもっとも医療体制が悪いとされていたのがアメリカである。
池上氏は「あとがき」に、医療がいかに日本の社会の縮図であるかを痛感した、ということを書いている。
コロナ患者用の病床確保が進まないのは、江戸時代からの伝統が残っているから
なぜ、コロナ患者用の病床確保が進まないのか。
これには、
●呼吸器管理などの高度医療を必要とする重症患者用のベッドの確保
という問題と、
●軽症あるいは無症状の感染者のベッド確保
の二つの異なる問題があるが、ここでは前者に絞る。
まず日本の病院はアメリカの病院とくらべ、病床面積は狭く、設備もきわめて貧弱であるということがある。人員の配置もまた少ない。
日本でもっとも設備が充実しているとされる大学病院でさえ、アメリカの1/3程度である。看護師数もまた同様である。だからこそ低い医療費での運営が可能になる。
日本では私的病院が公的病院にくらべて圧倒的に多いので、病院全体でみれば、彼我の差がさらに大きくなる。
このことは以前から指摘されていたことであり、私的病院のレベルを引き上げるということは以前からの日本の医療体制構築での重要課題であり続けてきた。しかしうまくいっていない。
なぜ?
その原因を考えるには江戸時代までさかのぼってみる必要があるというのが池上氏の本の主張となっている。
江戸時代には、もちろん医師国家試験のようなものはなく、だれでも医術をおこなうことができた。
その当時の主流は漢方医療であり、薬を調剤することがその大きな業務であったため、医者は薬師とも呼ばれた。
問題は欧米とは異なり、病弱者や貧困者を収容するような施設が幕府によっても藩によってもあるいは寺社によってもほとんどつくられなかったことである。
それには欧米のようなキリスト教による貧民救済、あるいは弱者救済という利他的慈善の伝統が日本にはなかったことが大きく関係している。
欧米の病院の多くは、それらの慈善施設に起源を持っている。
明治になり、西洋医学の導入がはじまったが、まだまだ貧しかった明治政府はそれに充分な資金を投入できなかったため、東京大学に一点集中的に資源を投入せざるをえなかった。
その時にも、大きな問題となったのが日本にはほとんど存在しなかった病院という箱をどのように作っていくかということであった。
a)医学校には教育の必要上、当然、病院が併設された。
b)日清・日露の戦争を経験した陸海軍もまた病院を必要とした。
(現在の築地のがんセンターは旧海軍医学校。新宿の国立国際医療センターは陸軍軍医学校をそれぞれの前身としている。)
c)自治体も主として感染症を隔離治療する必要上、病院をつくった。
d)しかし、数の上で最も多かったのが、開業医が自分の診療所に併設した小規模の病院であった。(薬師の診療所が主体となった江戸時代の延長線上)
そういう日本の医療の状況をみて、今次大戦後、アメリカ占領軍は日本の医療レベルをひきあげる必要性を痛感した。
そのため、
1) 大学と医学専門学校の二層構造をなくして、一本化した。
2) インターン制度を導入し、医師国家試験を必須化した。それまでは国家試験は医学部卒業生には不要、専門学校卒業生のみが必須であった。
3) 調剤は薬剤師の業務とし、医師が直接投薬することを禁止した。(江戸時代からの薬師の伝統の否定)
4) 病院看護を推進した。
5) 開業医が開設した小規模の病床は閉鎖の方向の方向へ誘導した。
しかし、明治当初からの東京大学を頂点としたヒエラルキー構造はかわらず、医局講座制も温存された。
インターン制度は形式的にはできたものの内実がともなわず、そのため1968年の医学生のストによって廃止された。(かわりに研修医制度ができた。)
医師の調剤禁止も医師会の反対で実質的には温存された。(これまた江戸時代からの薬師の伝統が残った)
開業医が開設した小規模の病院も維持された。そのため、日本の病院のなかで100床以下の病院は1/3に達する。
以上、日本の医療の現状についてのべてきたことは、江戸時代に由来する自由開業体制の伝統が現在まで連綿として続いているということである。
自由開業の主体は開業医であり、それが日本医師会の中心勢力となり、実質的には日本で唯一の医師を代表する団体となった。
私的病院が主として担ったのが高齢者の医療であった。
池上氏がこの本の執筆した当時、65歳以上の入院患者の半数が1年以上入院していた(いくらなんでも今はさすがにそういうことはない)。
現在の新型コロナウイルスへの対応
以上の大雑把な日本の医療の歴史をふまえて、現在の対新型コロナウイルスへの対応について考えてみる。
今。コロナ対応で問題とされているのが、
「これだけ多くの病床が日本にはあるにもかかわらず、なぜ簡単に病床逼迫というような事態に陥ってしまうのか」
という問題である。
コロナ感染のような疾患に対応するためには単に病床があるというだけはだめで、隔離による管理が必要である。
日本の病院では個室ではなく大部屋が多く、まずそこが問題となる。
またコロナ患者管理のためには、他の病気の患者対応以上に多くの医師・看護師などの医療スタッフが必要である。
通常の医療の状況においてもそのスタッフは欧米にくらべて半分以下であるのだから、さらに多くのスタッフを投入する余力に乏しい。
さらに救急医療や集中治療室やICU・CCUといった高度の医療を集中して投入しなければならない先端医療をおこなう病床数も少なく、欧米にくらべて劣っている。
したがって、コロナ感染対応をおこなう病床という箱だけつくっても、それだけでは機能せず、それを動かすスタッフの養成もまた必須であるが、これら人材の養成には少なくみつもっても10年くらいの年月は必要であろう。
昨年のうちから手をうっておけばといった短期の対応で間に合ったとはとても思えない。
そして日本の医療は一昨年までは、他の諸外国にくらべて少ない医療スタッフによる低医療費で運営できていた模範国であったわけである。
そのつけが、新型コロナ感染の蔓延という非常時になった今、まわってきている。
非常時に対応できる体制も着々と作っておくべきであったのではないか?
それはその通りである。しかし何も大きなことがおきなければそれは無駄な投資になってしまう。
医療費を抑制したい厚労省も、保険料を支払う患者の側もそれに賛成したとは思えない。
医師会の立場は苦しいだろうと思う。
医師であれば、医療の現場が苦しいものとなることははるか以前から予見できていたはずである。
しかし苦しい状況がおきるのは多くの公的あるいはそれに準ずる規模の大きな病院においてであって、医師会の主たる構成員である開業医には直接はかかわらない可能性が高い。
医師会は公的病院に直接指導する指揮権をもっているわけではない。
だから抽象的な一般論を述べることしかできないことになる。
そうすると、どうしても偉そうな評論家的発言ととられてしまう。
そして医師会も、公的な病院や先端医療を担う病院が増えることを本音ではのぞんではいない。
日本人は病院が大好きであって、大きな病院ができると診療所からそこへ患者さんが流れてしまう可能性がきわめて高い。
それは開業医の利益を代表する医師会としては困る。
それに関係して、日本医師会は新しい医学部の新設にずっと反対してきた。
そのため2016年東北医科薬科大学が新設されるまで40年近く医学部の新設はなかった。
ということは医者の数も増えなかった。
また日本ではいまだに看護協会の強い反対があるにもかかわらず準看護婦制度が廃止されていない。
これも日本医師会の強い反対による。診療所では病院より看護へのニーズが低い。
患者さんが減っている診療所の医師、あるいは看護師を派遣せよ
どうしたらいいのだろうか?
専門家たちが侃侃諤諤議論しても議論が分かれるのであるから、わたくしに名案があるはずはない。
この方向はコスパが悪いのではないか、ということぐらいしか、書けることはない。
まず、急にICUレベルのベッドを増やすこと、それに対応できる人材を増やすこと、それは無理な要求である。
そうであるなら方向は、重症の手前の無症状や軽症のひとを重症化させないことであるが、それ自体は、現在確実な薬剤が存在しないのであるから無理な相談である。
したがって、無症状からの発症、あるいは軽症からの重症化の早期発見に注力するのが現実的だ。
だが、いまそれに対応しているのは主として保健所であるが、すでに疲弊の極に達していることが報道されている。
保健所には保健師さんがいるが、今までの彼等の業務は、児童や母親の検診促進や、虐待されている児童の早期発見あるいはハラスメント対応、引きこもり対応といった広い意味での公衆衛生的な仕事であって、実際の臨床につながることには必ずしも強くないのではないかと思う。
そこに現在、コロナ騒ぎで患者さんが減っているといわれる診療所の医師あるいは看護師を派遣する。
コロナの患者さんを直接はみない、保健所での電話相談に対応するというのがミソだ。
実際にコロナ患者診療に従事したら、あの先生はコロナを診ているという風評で、診療所はさらに閑古鳥が鳴いてしまうからだ。
今一番問題なのは自宅療養となっている無症状ないし軽症の患者さんだが……
私見では、今一番問題なのは自宅療養となっている無症状ないし軽症の患者さんではないかと思う。
一時あったホテルで様子をみるというのはどうなったのだろう、そう思っていたのだが、数日前のネットの記事で、ホテルなどの宿泊施設の利用率は現在わずか30%くらいという拍子抜けするようなことが書いてあった。
そもそも利用の希望者が少なく、自宅療養を選ぶひとが多いらしい。
また宿泊施設の清掃もネックのようで、一つのフロアがすべて空床にならないと清掃をしないことになっているらしい。
ホテルなら、自宅と違って、ある場所に患者さんが集まっているのだから、医師ないし看護師さんの関与も容易である。
なぜもっとここに誘導できないのだろうか?
そして、その業務は主として開業医の団体である医師会が主導することになるのだから。医師会も存在感を示せる。
しかし問題は、医師会は独立の団体であり、保健所の管轄は厚生労働省であることである。
ホテルの確保は各自治体の業務であるのだろうか?
多分、こういった、あることについてはどこが所管するかについてばらばらであることがあらゆる日本の意思決定の進捗を阻害しているのであろう。
しかし、日本人は、ある個人あるいは団体が一気に全体を掌握することを嫌うらしい。
こういう指向は安定した時代には、適合するが、乱世ではうまくいかない。しかし、日本人は(世界中でそうだろうが)あと1~2年たてば今の混乱はなんとなく収束すると考えている。
だから現在の混乱を収束させると称する独裁者はいらない。ロシアや中国のような体制はまっぴら御免なのである。
日本人は鎖国が好き
今、たまたま与那覇潤さんの「中国化する日本」(2011年 文藝春秋社)を読み返しているのだが、そこでは、日本はグローバル化するとすぐに江戸というドメスティックに戻りたくなるのだということがいわれている。
グローバル化した世界とは、標準的な思想で全体が統一化された世界のことであるが、一方、江戸の世界とは、権力が分立し、それぞれが独自の理念をかかげる世界であった。
だから日本では、分立した世界の親分がおれの世界には手をだすな、といって全体を一元的に支配する独裁者が生まれることを許さない。
コロナでの混乱がいくら目に余るといっても、全権力を掌握する独裁者がでてきてそれを収めてくれることを期待している日本人はまずいない。
今われわれは侃々諤々とコロナについて議論しているが、それでもあと1年か2年すると何となくコロナ騒ぎは収まり、結局、何も大きな変革はおこなわれないまま、相変わらずの日本にまた戻っていくのではないだろうか?
最近、袋叩きになっている森元首相も、なぜ自分が非難されているのかまったく理解できていないのではないかと思う。
森さんの頭にはpolitically correct やglobal standardなんて言葉はその片隅にもないであろう。
森さんは、そもそも会議というのが何かを議論して決める場とは毛頭思っていないはずである。
それは単にあらかじめ結論が決まっていることを承認する場であるにすぎない。
しかし女たちはそれをわかっておらず、議論をはじめてしまう、と彼は思っているに違いない。
「女性が入ると会議が長引く」というのはそういうことを指すのであろう。
女も、日本における会議のありかたを、もっとよく勉強してほしい、大人になってほしいという、自分では善意のつもりの発言なのであろう。
森さんの頭にあるのは、昔ながらの、男対女子供の構図である。
「女子と小人は養いがたし」というのは「論語」の一節であるが、小人とは子供のことではなく、器の小さい人間、徳のない人間のことらしい。
孔子様にとっては、女とは徳のないものなのである。
その『論語』子路篇に有名な一節がある。大意は以下のようなものである。
「葉公が孔子に自慢して言った。「わたしの村に正直者の躬という男がいます。その父親がよそから迷いこんで来た羊を自分のものにしたのを、子でありながら、父が盗んだと証言したのです。その正直さがわかるでしょう!」。
孔子が答えていうには、「わたしの村の正直者はいまの話とは違います。父は子のために隠し、子は父のために隠すのです。正直というのは、その互いに隠しあうことの中にそなわっているのです。」
グローバル・スタンダードは「子これを証す」である。悪いことは悪い。
一方、日本では、何が悪いかは状況による。
親子の間では「父は子の為めに隠し、子は父の為めに隠す」のが正しい。
だからその場の状況も見ずに、ただ言葉尻だけを取り上げて批判するというやりかたが、森元首相にはまったく理解できないのではないかと思う。
オリンピックはグローバル・スタンダードの思想のもとに行われる。
しかし、日本は相変わらずの「三人吉三廓初買」の世界、「丸く納める」世界なのである。
この歌舞伎の演目については川島武宜氏の「日本人の法意識」(岩波新書 1967年)で知ったのだが、「丸く納める」というのは、何が正しいかは問わず、当事者の「顔をたてる」ことで紛争を解決することを目的とする。(丸く納めに渾名さえ坊主上がりの和尚吉三・・・)
おそらく森氏は様々なことを丸く納めることにきわめて長けていたひとなのであろう。
しかしグローバル・スタンダードの世界は、自分の顔をたてることなど少しも考えてくれない。
それどころか、自分の顔に泥を塗ることにひたすら狂奔しているように見えるのだから、森氏はさぞかし無念至極なことであろうと思う。
先進国の議会で国会対策委員会などというのがあるのはおそらく日本だけである。
ここはまさに相手の「顔をたてて」「丸く納める」ための話し合いの場である。
一部で問題となっている旭川医大の問題もサル山のボスの話である。
つい最近も経団連の会長さんが、森氏の発言について、なんだか歯切れの悪いことを言っていた。
経団連という組織は、日本企業もこれからはグローバル・スタンダードでいかなければならないことを身にしみてよくわかっている組織のはずなのだが……。
ということで、日本ではまだ、江戸時代が続いている。
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(2024/12/6更新)
【著者プロフィール】
著者:jmiyaza
人生最大の体験が学園紛争に遭遇したことという団塊の世代の一員。
2001年刊の野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされてブログのようなものを始め、以後、細々と続いて今日にいたる。内容はその時々に自分が何を考えていたかの備忘が中心。
Photo : nakimusi