山田ルイ53世さんのヒキコモリ漂流記がとても面白かったので、今日はこの本の学びを共有しようかと思う。

彼の事を知らない人もいるだろうから簡単に説明すると、山田さんはいわゆる一発屋芸人というやつである。

 

髭男爵というコンビ名で貴族のような出で立ちをしたヒゲ男が「ルネッサーンス」の登場挨拶と共に乾杯を連続する芸風をみたことがある人もいるだろう。

この本はそんな彼の人生を辿っていくものだが、彼の人生はその明るい芸風とは逆に波乱に満ちたものとなっている。

 

彼はある事件をキッカケにヒキコモリ生活へと突入するのだが、ヒキコモリ生活に突入した後に彼が放った一言が実に重い。

 

「人生、余っちゃったなぁ」

 

成功しても人生は仕上がらない

現代社会は若くして成功した人が実によくスポットライトを当てられる。

 

僕は若い頃、彼・彼女らをみてよくこう思った。

「いいなぁ、若くして人生が仕上がって」

「きっとこれから夢のように楽な日々が続くのだろうな」

「はぁ…僕もサッサと人生というゲームをクリアして、楽になりたい」

 

しかしである。

それから時が流れ、成功者のその後の人生をみる機会を得て、そう事は単純では無さそうだという事を理解した。

いわゆる文春砲みたいなものを喰らって落ちぶれてしまった人なんかはわかりやすいが、成功者の人生は決して成功した瞬間のような高い所で固定されるものではない。

 

成功しても人生は続く。

そしてその続きの人生は…残念ながら大体において先の成功を超えるようなものではない。

むしろその成功が色々な足かせとなって、幸せになる為の様々な障害となったりするのだから、世の中というのは誠によくできているものである。

 

もちろん中には成功後にも上手に人生を乗りこなしているタイプの人もいるけれど、大体の成功者の人生は一言ではいい表せない複雑さを内包している。

ひょっとして、彼らもまたこう思っているのではないだろうか?

「人生が余ってしまった」と。

 

残念ながら成功しても人生は仕上がらないのである。

 

また自分は普通に這い上がれ無いのか……

余った人生の中を屈辱にまみれつつ、必死で何とか這い上がろうとする山田さんの姿はかなり胸にくるものがある。

 

山田さんは人生が余ってしまった後に「このままではいけない」と何度か”普通”の人生への復帰を目指して頑張るのだが、一度転落すると”余った”人生から抜け出すのは酷く難しそうだ。

作中で何度か「また自分は普通に這い上がれ無いのか……」と苦悩するシーンがあるのだが、このシーンが出てくる度に僕はかなり胸が痛む。

 

”普通”のレールに乗る事は”普通”をやっている時はさして難しく感じないものだが、”余ってしまった”後だと信じられないぐらいに難易度が上がる。

最終的には余った人生をそれなりには巻き返せた山田さんはある意味ではまだラッキーな方といえるかもしれない。

 

が、巻き返した後にまた一発屋として若干余るような人生を生きる事になるのだから……

何ていうか世の中というのは上手く出来ているものである。

 

人生には見えないグルグルした部分がある

このように一発屋というと何か特殊な世界の人間に限った話にもみえてしまうが、実は冷静にみていくと私達と無縁とも言い難い。

僕を含む読者の方々の多くは”普通”の人生をやっている事だと思うが、山田さんが突然”余った”人生を送る事となったよう、私達もいつ何時”余った”人生を歩む事になるかわからない。

 

この本は”普通”をやってると決してみえてはこない人生のグルグルした部分を垣間見せてくれる本だ。

読めば人生の視野が広がり、背筋がピンとすること間違いなしである。

 

話は変わるが「なんで一発屋はいるのに二発屋が三発屋がいないのだろう?」と思った事はないだろうか?

実は山田さんはその疑問にも著書にて答えてくれている。

次はなぜ多く一発屋が二発目を打ち上げられないのかをみていこう。

 

変わった事で一発あてるのはメリット・デメリットがある

山田さんを始めとする一発屋の皆さんは独自の苦難があるという。

それは人生で一番当てた過去の自分を乗り越えないと、永遠に一発屋であり続けるという事だ。

<参考 一発屋芸人列伝>

 

過去の一番輝いていた時期の自分がライバルだというのはなかなか凄みがある。

仮に乗り越えられたとしてもだ。次にまた以前よりも高いハードルを飛ばなくてはいけないのだから、もうなんていうか成功がある種の呪いだと言っても過言ではない。

 

また一発屋独特の悩みとして変わった芸風で当ててしまったが故に芸風が縛られてしまうという事があるという。

例えば山田さんなら貴族のコスチュームを着ているわけだが、あの姿が既に強烈に皆に意識されてしまったが故に、もう普段着などの他の姿を取りたくてもとれなくなるのだという。

 

ただでさえ己の作ったハードルが高いのに、コスチュームが固定された状況でそれを乗り越えろと言われたら…確かにそれは素人目にも相当に難しそうである。

曲芸で一発当てるという事には、こんなデメリットがあったのだ。

 

変わった姿を身にまとうことはだ。確かに目立つから、他を圧倒しやすいのかもしれない。

だがそれでもって成功するという事は成功しても上に書いたような呪いを背負うという事でもあったのだ。

 

成功した後の事を考えると…邪道は色々な意味で考えものだという事なのだろう。

いつまでたっても鳴かず飛ばずも悲しいが、邪道でぶち当ててしまっても一発屋なのだから…なんていうか世の中はやはり本当に難しいものである。

 

全ての才能を持つものは、みな一発屋予備軍である

先ほどは一発屋の事を書いたが、実のところ殆どの才能といえるようなものも同じである。

あなたが○○の人として当てたとしよう。

仮にあなたがその後に○○を超えるような何かを打ち出せないのだとしたら…世間は間違いなくあなたの事を終わった人として扱う。

 

多くの才能はパッと花火のように燃えたら後はおしまいである。

残念ながら多くの場合、二度目のビッグウェーブは来ない。

 

才能を上へ上へと育み続けるのはとても難しい。

ピカソを始めとして、そういう死ぬまで輝き続けるタイプの人がいないわけではない。

けれど、それは少なくとも普通ではない。

 

多くの人間は一生当てられない。

仮に当てられたとしても一発が関の山だ。

 

だから一発屋の悩みというのは、頑張っている人にとっては、今後ありえる未来の自分の一つの可能性として、無視できない大きな学びが詰まったものといえる。

才能を持って生まれた人で一発当てられた人はある意味では恵まれているのかもしれない。

誰だって、やってるからにはいつかは当てたいというガッツはあるだろう。

 

けれど当てるという事は、ある意味ではそれに呪われるという事でもある。

当たった後で自分が一発屋なのかホンモノなのかが判明するわけだが、残念ながら多くの人は”一発屋”だろう。

全ての才能を持つものは、みな一発屋予備軍なのである。

 

センター試験の点数を自慢する人間に漂う哀愁

かつて村上春樹さんのエッセイを読んでいた時の話だ。

その中で村上春樹さんが「会話の最中で、突然センター試験の点数を尋ねられ、自分が高得点を叩き出した事を自慢された」というエピソードがあった。自慢した人は確か官僚の方だったように思う。

 

彼はその人の事を

「あんなみっともない大人がこの世にいるだなんて思いもしなかった」

という風に記述し、それを読んでいた僕も

「そうだよなぁ…こういう人間にはあまりなりたくないなぁ…」

と思ったのだけど、山田さんのヒキコモリ漂流記を読んでからというものの随分と印象に変化が起きた。

 

なんていうか、皆さんもその人に哀愁のようなものを感じないだろうか。

そのセンター試験の点数を自慢した男は、たぶんだけど神童として持て囃され、よい成績を収め続け人生の覇道を突き進んでいると思っていたのだろう。

だが、残念な事に彼の人生はセンター試験受験時で”打ち上がってしまった”。

 

センター試験の点数をいつまでたっても自慢しているのはそこで人生が突然余ってしまい、その余りを記憶の残り香でもって必死に自尊心を保ち生き続けているからだろう。

その姿を「みっともないwww」と言えるのは、普通に普通の人生をやっている”まだ当ててない”その他大勢の人間と、ピカソや村上春樹さんのように死ぬまで才能が輝き続けるタイプの一握りの人間だけだ。

 

僕はこの人をみて、哀愁のようなものを感じずにはいられないのである。

いつ自分の才能は終わってしまうのか。

そもそも自分は始まってすらいないんじゃないか。

仮にいまが当たってる最中だとしたら、終わってしまったら人生が余るのだろうか?

 

少なくとも僕は心中穏やかではいられない。

自分もひょっとしてセンター試験の点数自慢男と同じような状況になっていやしないかと嫌な脂汗をかいてしまう。

 

開かないままのプレゼントであって欲しいような、そうではないような

恋愛は片思いが一番面白いというフレーズがある。

僕はこの言葉を聞いた時に 「なにいってんだ?そもそも片思いなんて、何も始まってすらいないじゃないか」と思った。

けど、今ならそれが何を言わんとしている事もわからなくはない。

 

プレゼントを開ける前まで中に何が入っているかは誰にもわからない。

その時に

「中に何が入っているのだろう」

と感じる胸の高揚感は、実際の中に入っている商品がもたらす高揚感よりも大体において高い。

 

「人生が余る」という言葉に、僕はプレゼントを開けた後のクシャクシャになった包装紙と空箱から漂う哀愁を感じてしまう。

プレゼントを優しく包んでいる、あの紙をビリビリと破く時の形容しがたい高揚感。

そしてプレゼントの箱を開ける瞬間のワクワク・ドキドキ…

こんなにも素晴らしい瞬間を演出した紙と箱なのに、役割が終わったらゴミになってしまうのだから、誠に人間の認知というものは不可思議なものである。

 

自分の才能がいつまでも包装紙が破られない箱にしまわれたプレゼントのままであって欲しい気持ちもある一方、開けてみて中身を見たいような気持ちもある。

 

神様が目の前に現れて「箱を開けますか?それとも開けずに高揚感だけ、一生あげましょうか?」と訪ねたら…あなたはどちらの答えを選ぶだろうか?

僕はちょっと選べそうにないかなぁ…

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo:Kamil Porembiński