「一緒に病院へ行ってくれないか」。

7年ほど音信不通だった兄から電話があったのは2013年5月17日だった。

 

総額で1000万を超す貸した金は返さない─、知人の弁護士を通じて整理した債務の返済は滞る─、紹介した会社は問題を起こしてクビになる─。

度重なる不義理から長く絶縁状態だったが、いつになく暗い語り口に嫌な予感がした。

 

兄は電話をしてくる数日前に、10年ほど連れ添った妻と離婚していた。類は友を呼ぶと言うが、2人はそろって無類のギャンブル好きだった。

夫婦は、東海地方の某温泉宿で、住み込みで働いて得た毎月の収入のほとんどを、パチンコと競艇につぎ込んでいた。

 

生活苦でケンカが絶えず、自身の体調も日々悪化していく悪循環の中で、兄は妻に離婚届を突き付けた。

そんな状況だったから、やむなく、一緒に病院に付いてきてもらう相手として、絶縁状態だった私を指名してきたのだと思う。

 

普段は人を笑わせる、陽気な性格だった兄が、深刻な口調で懇願してきたので、仕方なく病院に同行することにした。

 

待ち合わせ場所は、兄が暮らしていた静岡県東部に位置する、交通・観光拠点でもある某駅。そこに、軽く20万㎞は走っているポンコツ車に乗って、兄はやってきた。

右腕は思うように上がらず、ハンドルを支えるのがやっとの状態。顔色が悪く、全身やせ細り、頬もこけていた。明らかに異常な様子だった。

 

ポンコツ車で走ること数十分。静岡県内にあるガン治療の拠点病院にたどり着いた。紹介状を手に受付を済ませると、兄は各種の精密検査を受けた。

数時間後、兄と一緒に診察室に入ると、担当の医師はCTやMRIの画像を示しながら「原発性の肺がんです。外科手術はできない状況ですが、抗がん剤や放射線で治療していきましょう。今から入院手続きをしてください」と話した。

 

2人部屋の病室で入院の支度をしていると、私だけ医師に呼ばれた。再び診察室を訪ねると、医師は私の目を見据えて言った。

「お兄さんのがんは末期の状態で、リンパや脳にも転移しています。抗がん剤を使っても余命は1年、仮に抗がん剤治療をしなければ4カ月くらいかと思います。お兄さんと相談してみてください」。

 

病室に戻った私は、兄に「余命」のことは告げず、今後の治療方針について相談した。兄は「どんな治療でもやるから、とにかく、いつもの生活ができるようになりたいね」と話した。

とても余命のことなど言えない状況だった。”いつもの生活”とはパチンコ、競艇、麻雀……。ギャンブルが日常の中心にある生活だ。

 

兄から治療方針を相談された私は、がんに詳しい友人、知人に相談し、書籍やネットで情報を集めた。

当時、がんは治療しないのが最善、というような本も売れていて、迷いは尽きなかったが、結局、抗がん剤はやめ、放射線のみを行う治療方針に決めた。

 

当時の標準治療の指針に沿ったものだと思う。医師は余命を延ばす効果が期待できる抗がん剤治療を勧めてきたが、最終的にはこちらの希望を通す格好となった。

 

定期的に放射線治療を行い、終盤には脳に転移したがんをたたくため、ガンマナイフ(脳内の一点にガンマ線ビームを集中照射させる放射線治療)も照射した。

確実性がなく、苦しい状態が想像される抗がん剤治療を避け、放射線治療を選んだのも、”いつもの生活”をする時間をできるだけ確保するため。

 

抗がん剤をやらなければ「余命4カ月」という事実を知らない兄は、「元の生活に戻れる」という確かな希望を胸に、放射線治療に臨んでいた。

何せ、根っからのギャンブル好き。治療の合間に、タクシーを呼んでは、馴染みのパチンコ店に繰り出し、私には再三、旅打ち(公営ギャンブルを目的とした旅行)を要請してきた。

 

余命4カ月という状況に、主治医は兄の希望を優先してくれた。旅打ちに行く際は、万が一の事態に備え、私に「診療情報提供書」を持たせてくれた。

 

放射線治療を続ける間、一進一退はあっても、病状は確実に悪化していた。行けるうちに旅打ちに行かせよう。そう考え、まず6月、私の自家用車で静岡の浜名湖競艇、愛知の蒲郡競艇に旅打ちに出た。

 

その最初の旅打ちでは、まだ自力で歩くことはできた。だが、痛み止めを飲んではいても、時に激痛に襲われ、うずくまる場面もあった。

愛知県の某温泉宿では、黄疸が出始めていた兄が温泉につかる姿に、驚く客も少なくなかった。これが最後と思い、兄を温泉に入れたが、周囲のお客さんには悪いことをしたと思っている。

 

2度目の旅打ちは8月、行き先は大阪だった。新幹線で大阪に向かう車中では、寒さから毛布にくるまっていた。レンタカーで住之江競艇へ行き、特観席(有料席)に入ったが、予想に没頭し、レースを観戦する時だけ、目が輝き、背筋が伸びた。

とはいえ、寒気が収まらず、近くのドン・キホーテで厚手のジャンパーを購入し、はおらせたこともあった。それでも自分で歩き、3日間、新大阪駅近くのホテルから住之江競艇に通った。

 

最後の旅打ちとなったのは9月初旬。三重の津ボートに行った。もうその頃には自力で歩けず、車椅子だった。さすがに私だけでは厳しく、離婚した兄の元妻に同行してもらった。

レンタカー店でワンボックスカーを借り、高速で津へ向かった。病状はもう末期症状だったと思うが、なぜか行きの車中では調子が良く、パーキングでうまそうにタバコを吸っていた姿を思い出す。

 

津競艇でも特観席に入り、車椅子専用のシートへ。軍資金の10万円を握りしめ、鬼の形相で展示航走(レース直前の試走)をチェック。得意の2連単2点勝負で舟券を買い続けた。

10万の軍資金を溶かすと、ニヤリと笑い、軍資金の追加を懇願してきた。結局30万ほど負けたが、兄は満足げに津競艇を後にした。

 

この最後の旅打ちも3日間の日程だったが、初日の夜のホテル(津市内)で病状が急変。チェックインの手続きをするロビーにうずくまり、何とか移動した部屋では激痛と吐き気で苦しんでいた。

それでも「明日も(津競艇)行くぞ」と断固、旅打ち続行を宣言。翌日も這うようにレース場へ行き、勝負を続けたが、最後はマークシートも自分で塗れない状況だった。

 

病状は限界の様子で、医師と相談の結果、レンタカーで即、入院中の病院へ戻ることになった。病院に到着したのは午後8時半。元妻と病院の方々に兄をゆだね、私は翌日早朝からの仕事に備え、帰京した。

 

それから数日間は不思議と病状が安定していた。とはいえ、末期状態には変わらず、病院側の配慮で、特別室のような個室に移動させてもらった。兄は「たまたま部屋が空いたらしく、いい部屋を使わせてもらっているよ」とご機嫌だった。

 

ちょうど最後の旅打ちから戻った一週間後、ずっと付き添ってくれていた兄の元妻から訃報の電話が入った。

亡くなる前日まで、タクシーでパチンコ店通いを続けていたというのだから、驚きというか、あきれるばかり。その亡くなる前日に、兄から届いたメールの文面は「次は四国に旅打ちに行くぞ」だった。

 

驚いたのは、初めて病院に付き添った日から、ちょうど4カ月の9月17日が、兄の命日になったこと。もし抗がん剤治療を受けていれば、もっと生きることができたかもしれない。一方で、好きなパチンコ店通いや旅打ちを、どこまで実行できたか……。

 

詰まるところ、兄の末期状態のがん治療において、何が正解だったのかは分からない。ただ、激痛や吐き気に苦しみながらも、ギャンブルという生きがいを胸に、最後の4カ月を走り抜いたのは間違いない。

 

「ギャンブル療法」なんて言ったら、お叱りを受けるかもしれないが、人生の最後に、ギャンブルが生きる支えとなったのは事実。そんな人生の幕切れが、ひとつくらいあってもいいんじゃないか。私はそう思う。

 

 

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【著者プロフィール】

小鉄

某媒体で約30年、スポーツ、社会、芸能、公営競技など幅広く取材。
現在はフリーの執筆者として、全国を回りながら取材、執筆中。
趣味で公営競技の予想会も行っている。

Photo by:Susann Schuster