あらかじめお断りしておくと、ぼくの書くことはエビデンスやファクトに基づいていない。これはぼくの想像に基づく仮説だ。
なぜ空想に基づく仮説を書くかというと、今はそれを書くことに価値があると思っているからだ。エビデンスやファクトのない空想に基づいた仮設にこそ、記事として読む価値があると思っている。
なので、エビデンスやファクトに基づいた記事をお望みなら、ここでブラウザをそっと閉じていただきたい。この先は、空想に基づく仮説に興味がおありの方向けの記事となる。
さて、近年になって鬱病の人は増えた。そして、今後もますます増えるだろう。
しかし、鬱病になることは、当人にとっては大きな負担だ。そこでこの記事では、そんな鬱病をゆっくりとだがしかし確実に癒やす方法を指南していきたい。
ぼく自身も、この方法で、どうにか鬱病に罹患すること避けている状況だ。
鬱病にかかることを避けたり、あるいはなってしまったのを癒やしたりするには、「なぜ人は鬱病になるのか?」ということを知るのが一番だ。
なぜなら、問題を解決するには、まずはその「原因」を知ることがだいじだからだ。原因を知らなければ、それを取り除くこともできない。
ただ、最近では「鬱病は誰でもかかる脳の病気です」といって、あえて思考を停止し、その原因を探ることを拒否する人がいる。
確かに、「鬱病は誰でもかかる脳の病気」であることに異論はないが、かといってそれを声高に唱えても、何の問題解決にもならない。「人は誰でも必ず死にます」と言われても病気が治らないのと一緒だ。
ここでの主眼は、あくまでも鬱病にかかるのを避けること、あるいは鬱病を癒やすことにある。だから、「鬱病は誰でもかかる脳の病気」というのは、一旦脇に置いておきたい。
ところで、昭和の時代に鬱病は少なかった。いるにはいたが、今よりずっと少なかった。
そして、この事実こそエビデンスは腐るほどある。どんなデータ、統計を見ても、鬱病の患者は昔よりも今の方が量・割合ともに確実に増えている。
ただこれも、こう書くと「昭和の時代は鬱病と認識できなかったり、言い出せなかったりしただけで、潜在的には今と同じくらいにいた」という人が出てくる。
ただ、それこそエビデンスのない空想の話——しかもたちの悪い妄想の類いでしかない。だから、ここではあくまでも「昔に比べて今は鬱病が増えた」という前提で話しを進める。
本題に戻る。
今は、昔に比べて鬱病が増えた。その理由は、一つしかない。
それは、居場所を失った人が増えたからだ。「自分が生きる意味はあるのか? ……いや、ない」と絶望する人が増えた。だから、鬱病が増えたのである。
鬱病は「自分が生きる意味はない」という絶望を抱く人がかかる病気だ。
そして、そういう絶望は、職場や学校や家庭で抱かされる。つまり、集団の中で抱かされる。
その集団の中で、自分の居場所を見失うから抱くのだ。
例えば、会社で自分の居場所を見失う人がいる。
それは、会社の仕事が自分がいなくても問題なく円滑に回る、と分かるからだ。
病気で休んだとき、その会社の業績が傾いたら、誰も鬱病になどかからない。しかしほとんどの場合で、そういうことは起こらない。ほとんどの場合で、会社は誰かが休んだとしても円滑に回る。
現代人は、それに気づく機会が昭和に比べて増えた。
「あ、この会社は自分がいなくても回っていく」
そして、それに気づいた瞬間に、鬱病が始まるのである。
なぜ現代人がそれに気づく機会が増えたかというと、コンピューターやロボット、そしてAIが発達したからだ。
昭和の時代は、例えば駅で切符を切っている駅員が、自分の存在に絶望することは稀だった。
切符を切る技術に熟練している職員が病気で休めば、その駅の改札は以前よりも混雑した。つまり、業務が遅滞するケースが少なくなかった。
おかげで駅員は、「自分が休んだら、会社はもちろんお客さんにも迷惑をかける」と心から思えた。だから鬱病にかからなかった。
そしてそれは、ほとんどの職業でそうだった。町工場の職人も、電話の交換手も、会社の事務員も、誰も彼もが「自分がいなければこの会社は困る」と心から信じ、疑わなかった。だから鬱病にかからなかったのだ。
しかし、それは昭和の時代にたまたま発生した、きわめて珍しい社会状況だった。
それはある意味奇跡のようなできごとだった。歴史的に見ても、世の中のほとんどの人が社会の中で自分の存在に絶望しないで済むというのは、昭和後半の30年間以外、なかなか見当たらない。その状況こそが特別だったのだ。
そして、その特別な状況は昭和とともに終わった。
ところが、その状況は約30年にもわたって続いたため、人々はいつしかそれを「当たり前のこと」と思うようになってしまっていた。だから、その状況が終わったことをなかなか飲み込めなかった。
というより、いまだに飲み込めていない。社会の中で誰もが自分の存在に絶望しないで済むのは当たり前、というのを、今でも多くの人が信じて疑わないのだ。
そして、その状態で「あ、この会社は自分がいなくても回るのだ」と気づいてしまう機会が増えた。
だから、一気に鬱病にかかってしまうのだ。
これが、現代に鬱病が増えたことの一番の理由だ。
ところで、鬱病にかかってしまうと本当に大変だ。だから、できればこれを予防したい。
また、もし不幸にしてかかってしまったとしたら、これを可能な限り癒やしたい。この記事の主眼は、そこにある。どうすれば鬱病を防いだり、癒やしたりできるのか?
それには、主に三つのアプローチがある。
そしてこの三つは、「どれか一つをすればいい」というものではない。必ず三つともする必要がある。
なぜかというと、どれか一つに集中するのは、とても大変だからだ。しかも、それではなかなか効果が上がらない。
それに比べ、この三つを少しずつでもまんべんなくこなしていくのは、比較的容易だ。しかもそれで、鬱病を予防したり癒やしたりできる可能性はぐっと高まる。
だから、どれか一つに集中するのではなく、まんべんなく三つもに取り組んでいただきたい。そのバランスは、お任せする。ただ、どれか一つを「全くしない」というのはダメだ。必ず、どれも少しは取り組んでいただきたい。
では、以下にその方法を説明する。
1.自分は世の中に必要のない人間だ、ということを、まずは「認め」る。
2.その上で、居場所を作る「努力」をする。
3.万が一居場所を失ったときの逃げ場所として、「一人遊び」を覚える。
順に見ていきたい。
まず一つ目だが、基本的に、人は誰でもこの世には必要ない。世知辛いが、これは厳然たる事実だ。ぼくを含めた世界中の誰もが、この世からいなくなっても、世界は問題なく回っていく。
これは現実である。誤魔化したり目を覆ったりすることはいくらでもできるが、それでこの事実そのものがなくなるわけではない。だから、まずはそのことを受け入れてもらいたい。それを受け入れることが、鬱病を防いだり癒やしたりすることの第一歩なのだ。
これはだいじなことなので、もう一度言う。基本的に、人は誰でもこの世には必要ない。
たとえあなたが今日死んだとしても、それで「死ぬほど困る」という人は一人もいない。まして社会全体は、何事もなかったかのように回っていく。世の中にとって、あなたの存在などどうでもいいのだ。
この事実は、心情的には受け取りがたいが、しかし頭ではそういう現実があるということを理解できるだろう。
そして、それだけでも効果が大きい。
これを理解すると、かえって鬱病が進むのではないかと考える人もいるが、実際は逆だ。多くの人は、この事実から目を背けたり、受け入れられなかったりするからこそ鬱病になる。
だから、まずはこの事実を直視し、受け入れる努力を、できるところまででいいからしてほしい。
次に、二つ目の「居場所を作る努力をする」。
これは、「その1」を踏まえた上で、「誰かの役に立つ努力をする」ということである。まずは誰かを喜ばすことを考える、ということだ。
人間の幸せは、基本的に自分ではなく他人を喜ばせること——つまり奉仕の中にある。いや、そこにしかない。奉仕することそのものが、生きるということの意味なのだ。
だから、例えば自分が重篤な病気にかかって家族に介護の負担を背負わせていると感じたなら、多くの人にとっては、生きることよりむしろ死ぬことが喜びになったりする。
なぜなら、その状態では自分が死が家族の介護負担の軽減につながるので、彼らに奉仕できると考えるからだ。
しかし一方、介護する側はする側で、必ずしも介護を負担に思っていない。なぜなら、介護は「奉仕」そのものだからだ。そういうふうに、家族が病気にかかることで、逆に生きがいや居場所を作れる人もいるのである。
人間の心というのは、そういうメカニズムになっている。だから、あなたも今日から割り切って、「誰かのためにできる奉仕は何か?」ということを考えるべきだ。
そう考えると、誰かのためにできる奉仕というのは無数にある。
例えばぼくは、コンビニに行ったらお釣りをくれた店員に、必ず「ありがとう」と言っている。そうするだけで、コンビニ店員も少しは気分が良くなってくれると思うからだ。
奉仕というのは、そのレベルでいい。むしろ、そういうことの積み重ねこそが本質的な奉仕なのだ。
それ以外にも、例えばこの記事を書いている今も、読んだ誰かの助けになりたいと思いながら書いている。
具体的には、この文章を読んだことがきっかけで、鬱病を予防したり癒やしたりする人が一人でもいたらいいと思っている。
そういうふうに、まずは「思うこと」がだいじだ。もちろん、結果を伴うに越したことはないが、しかし何事にも失敗はつきものだ。誰かに奉仕したいと思っても、そうならないケースだってたくさんあるだろう。
しかし、それでいいのだ。そこで挫けず、取り組み続けることこそがだいじである。
くり返すが、それは本当に些細なことでかまわない。例えば、コンビニ店員に「ありがとう」と言うだけでいい。
そのとき、向こうがにっこり微笑んでくれたりしたならば、人はそれだけで救われる。それだけで、鬱病は快方に向かうのだ。
三つ目は、居場所を失ったときの逃げ場所として「一人遊び」を覚えるというものだ。
これは、現代においてとても重要だろう。
ここまで見てきたように、鬱病というのは基本的に「社会との関係」において起こる。集団の中で「自分など必要ない」と気づいてしまうからかかる。もっといえば、「他者から必要とされていない」と感じてしまうからかかる。
だから、人が鬱病にかかる陰には、必ずそう思わせた人がいる。そう思わせた集団がある。
人や集団が、その人に自分は必要ないと思わせるのだ。そのことが、鬱病の原因となっている。
そうなると、人や集団がその人にそう思わせないようにしよう——と考えがちだが、ここまで見てきたように、人は本質的には社会に必要ないので、人や集団がそう思わせてしまうのは避けられないところがある。その状況は必ず起こる。
だから、そこで重要になってくるのは、人や集団が気をつけることではなく、むしろ個人が人や集団から積極的に「離れる」ようにすることだ。
自分を必要としていない人や集団から、自らを引き剥がすということである。人や集団の中に身を置く時間を少なくするということなのだ。
そうすれば、自ずと人や集団から「必要ない」と思われることも少なくなる。最初から一人でいれば、誰かと一緒にいたり、集団の中にいたりしたときに味わった「疎外感」を感じることもなくなる。
実は、昔は宗教や日本でいえば「社会常識」が、個人を人や集団から引き剥がす大きな役割を担っていた。
だから、多くの人が人や集団からの疎外感を感じなくても済んでいた。
どういうことかというと、例えば、住んでいる村の中で誰かから意地悪をされたとする。しかしそのときも、「神が救ってくれる」と心から信じていれば、孤独を感じず、鬱病にならずに済んでいた。
あるいは、会社の中でいじめてくる人がいたとしても、「あの人は非常識だ」と社会常識に照らし合わせてその人を否定することで、やっぱり疎外感を感じなくて済んでいた。
しかし現代においては、そういう方法が通用しなくなった。宗教というものが信じられなくなり、神に救いを見出せなくなった。
常識というものが信じられなくなり、そこにすがることができなくなった。
そうして現代人は、すがるものが極端に減ってしまった。
おかげで、人や集団から自分を引き剥がせなくなり、世間の評価が以前にも増して気になるようになった。そのことも、鬱病が増えた大きな要因の一つである。
だから、現代人はなるべく人や集団から離れるべきなのだ。そうして、もっと一人の時間を作るべきだ。
一人で過ごしていても楽しい時間を作るべきなのである。
現代人は、「一人で過ごしていも楽しい時間」をもっと作るべきだ。具体的にいえば、趣味を持つべきだ。
一人でできる趣味を持てれば、鬱病はかなり軽減できる。
例えばぼくは、「勉強する」という趣味を持っている。今は料理のことを勉強している。その前は減量について勉強していた。減量も料理も、基本的に一人でできる。具体的には、本を読んだりYouTubeで動画を見たりするだけだ。
そういう作業に、ぼくは一日8時間くらい費やす。多いときには12時間くらい費やすこともある。そしてその間、誰とも会わない。そういうふうに一人遊びをしていると、人や社会から離れる時間が自然と増えるのだ。
だから、他人の評価を気にしたり、「自分は必要のない人間だ」などと思い悩んだりすることも少なくなる。そうして、鬱病に罹患することを可能な限り割けることができる。
現代人は、そういう時間をもっとたくさん持つべきなのだ。そういう時間を持てば持つほど、人は逆に孤独ではなくなる。
孤独というのは、他人と上手くいかないからこそ感じる。だから、そもそも他人がいないところで過ごしていれば、孤独を感じることはかえって少なくなるのだ。
このように、現代においては一人の時間、一人の趣味というのがとても大切なのである。
特に宗教や社会常識が力を失った今となっては、人が一人の時間を有意義に楽しめるのは趣味くらいしかないだろう。
実際、趣味がある人ほど現代では健康に暮らしている。それは、オタク文化の隆盛ともつながっている。
オタク文化は、人が一人の時間を必要としたからこそ市場として拡大した。そこで人は、コンテンツというよりは、「一人の時間」を買っていたのだ。
そう考えるとオタク文化は、現代において意味を失った宗教や社会常識に代わって台頭した、人々が鬱病にならないための重要な社会ツールなのかもしれない。
以上が、鬱病にならない、あるいは癒やすための方法である。
しつこいようだが、これからの世の中は、コンピューターやロボット、AIの進歩によってますます「自分はこの世に必要ない」と思わされる場面が増えるだろう。それに伴って、鬱病になる人も増えるはずだ。それはやがて、もっと大きな社会問題となる。
それを可能な限り解消するという意味でも、この方法はより多くの方々に実践していただきたい。
だからぼく自身、より多くの人に伝えていきたいと考えている。
それは、ぼく自身が鬱病を割けるためのその2「居場所を作る『努力』をする」ということにもつながるからだ。
ティネクトの地方創生支援-人の移住よりも知の移転-
ティネクトでは創業以来、数多くの地方中小企業様のお手伝いをさせてきました。地方では人材不足が問題と思われがちですが、実際は「人材」の問題よりも先に「知」で解決することが多いと感じています。 特に昨今は生成AIの台頭で、既存の人材とAIの協働の可能性が高まっており、実際それは「可能である」というのが我々ティネクトの結論です。
詳しくは ティネクの地方創生支援特設サイト ご覧ください
(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)
【著者プロフィール】
岩崎夏海
作家。
1968年生まれ。東京都日野市出身。東京芸術大学建築科卒。 大学卒業後、作詞家の秋元康氏に師事。
放送作家として『とんねるずのみなさんのおかげです』『ダウンタウンのごっつええ感じ』等、テレビ番組の制作に参加。 その後、アイドルグループAKB48のプロデュースにも携わる。
2009年、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』を著す。
2015年、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『イノベーションと企業家精神』を読んだら』 。
2018年、『ぼくは泣かないー甲子園だけが高校野球ではない』他、著作多数。
現在は、有料メルマガ「ハックルベリーに会いに行く」(http://ch.nicovideo.jp/channel/huckleberry)にてコラムを連載中。
(Photo:darkwood67)