試合の終わりと人生の終わり

この間、ある映画を観ていたら、こんなシーンがあった。

ある村で、因習によって、村人はある年齢を迎えると、次の魂に生まれ変わるため、自死しなくてはならないというものであった。

おれはなかなかにショッキングなそのシーンを見て、同時にまったく関係なさそうなことを思い浮かべた。

 

「これ、今年の日本プロ野球みてえだな」と。

 

今年の日本プロ野球は、試合のイニング数が決まっている。

9回までで終わりなのだ。

9回で同点なら同点で終わり。延長戦はなし、だ。

まあ、延長があるにしても12回までという決まりはあるんだけれど。

 

そしておれは、その9回打ち切り制度に、一野球ファンとして「延長戦無いほうが面白いんじゃ」と思ったりしているのだが、まあその話はまたべつの話。

ともかく、寿命が定められた人生というものに、終わりが定められた野球。なにか似ているな、と思ったわけだ。

 

野球は人生の比喩か、人生が野球の比喩か

かつて、歌人、劇作家の寺山修司は「競馬は人生の比喩だと思っているファンがいる」ことに対して、「人生が競馬の比喩だ」という言葉を残した。

後者ばかりが有名になって、そのあとに続く「前者の主体はレースにあり、後者の主体は私たちにある」という部分は知らていない。

とにかく競馬を称えるような言葉になってしまった。

 

まあ、それもまたべつの話。

ともかく、さっきおれが感じたのは「野球は人生の比喩」ないし「人生は野球の比喩」のいずれかだ。

 

というか、人間の関わるものは、なんでも「人生の比喩」になりはしないだろうか。

「歯磨きは人生の比喩」、「ラーメン屋の経営は人生の比喩」、「通勤電車は人生の比喩」、「靴紐を結ぶのは人生の比喩」……適当に書いてみたが、なんか適当にでっち上げられそうではないか。

ひょっとして、人生たいしたことなくね?

っつーか、人間の行いに、人間の人生がたとえられるのは当たり前かもしれない。

 

いや、人間が関わらずとも。「天体の運行は人生の比喩」、「潮の満ち引きは人生の比喩」、「四季の移ろいは人間の比喩」、「ボース=アインシュタイン凝縮は人生の比喩」……。

自然科学、人間とは関係ないものですら人生の比喩になりそうではある。

そうすると、人間の行いもたいしたことのように思える。

 

というわけで、べつに野球に人生の比喩を見てもいいだろう、ということだ。

もっとも、今どき「やきう」なんて時代遅れで、若い人にはなにもわからないかもしれない。

野球の説明が必要だろうか?

 

じゃあ説明しよう。

野球はちょっとだけクリケットに似たスポーツだ。

クリケット?

クリケットはちょっとだけ野球に似たスポーツらしい。

自分で調べろ。

 

話を戻す。野球に人生を見る。

が、こんなことは、おそらく野球というものが生まれてから多くの人間が考えてきたことであろう。

昭和の夕刊タブロイドには、ある野球選手の選手人生を、サラリーマンの人生に重ね合わせたコラムがどれだけ載っていたことだろう。

 

気になる人は、古本屋で近藤唯之という著者の野球本を一冊手にとってもらいたい。

文体が癖になったらもう一冊買えばいい。

人生に深みが増すかもしれない。

増さないかもしれない。

 

100日後に死ぬかもしれない人生

そして話は最初のヴァースに戻る。

終わりの時が定まった人生というのは、どういうものなのだろうか。

おれの、あるいは現代日本、あるいは世界に生きる多くの人は、ちょっと怖いな、と思うに違いない。

いや、ちょっとどころじゃなく怖い。死刑執行日の確定した死刑囚の境遇を想像しよう。

 

とはいえ、「死刑執行日の確定していない死刑囚の境遇」というのも怖いかもしれない。

むしろ、そっちのほうが怖いかもしれない。いつそうなるかわからない。

そして、朝起きて、いきなり執行を知らされる。

……ってこれ、日本の死刑じゃないか。他国の死刑はよく知らないが。

 

ん?

いつか死ぬのは決まっているのに、死ぬ日を知らされていない……、というのは普通の人生ではないか。

人生は死刑の比喩にすぎないのか。

これもまた言い古されたことに違いないが。

 

最近、そのあたりをうまく可視化させてみせたのは『100日後に死ぬワニ』だと思う。

可視化以外がうまくいったか知らない。

とまれ、連載進行中に多くの注目を浴びたのは、読み手自身がそれぞれに100日後に死んでいてもおかしくないという、恐怖の琴線に触れるところがあったからだろうとも思う。

 

というわけで、よほど特殊な状況(たとえばある国において、安楽死や尊厳死を自分で選ぶなど)を除けば、われわれは死ぬときを知らない。この無知は恐怖につながる。

 

しかし、この恐怖に拘泥しすぎてしまうと、おそらく人は狂う(狂ったものとみなされる)。

その恐怖からわれわれは、あることをしている。「忘れる」のだ。

例のワニのように、普通に生きる。そうするしかない。

 

よほど精神的な修行などをして、死をいつでも受け入れられる境地に至らないかぎり、見てみぬふりをするしかないのだ。

見て見ぬふりをしても、いずれゲームセットの日が来るのは決まっているのだが。

われわれは自分の最期の時をしらない。

 

100日後に確実に死ぬ人生

一方で、最初に書いた村の因習のように、ある年齢になったら確実に死ぬことが決まっている人生とはどのようなものだろうか。

ここでは、なにかのアクシデントでその歳に至らずに死ぬ可能性は限りなく無いものと考えてみよう。

 

おそらく、死を「忘れる」ことはできないだろう。

誰かにメメント・モリ(死を忘るなかれ)と言われるまでもない。

 

それでも、人によっては「死ぬ日が決まっているのだから、この一日を大切に過ごそう」と生きることもあるだろうし、「どうせ死ぬのだからなにもしたくない」となることもあるだろう。

ちょっと想像がつかない。

 

とはいえ、現実世界で似たようなケースがあるとすれば、「癌で余命宣告を受けたので、仕事を辞めて、持ち金はたいて世界一周のクルーズ旅行に行く」とかいう話はあるだろう(「そしたら癌が治ってしまった」なんて尾ひれをつけて)。

 

そうだ、死神が現れて(昔、えんどコイチの『死神くん』って漫画ありましたね。あれ好きだった)、「何年何月何日に死ぬ」と宣告されることはない。

だが、自分が生きている国のだいたいの平均寿命くらいは知っているだろうし、親族なりなんなりがどのくらいの歳で寿命を迎えるかという体験はあるだろう。

むろん、突然の事故死や急病死はあまり考えない。

 

おれにしたってそうだ。

あまりよい生活を送っていないので「明日ダンプカーに轢かれて死んだりはできないだろうか」と思うことはあっても、いざ自分の死について考えると、平均寿命やそれよりかなり短い自分と同じ病気に罹ったの平均寿命について想像する。

われわれは、なんとなく自分の最期の時をしっている。

 

いつそのときが来てもいいように

忘れていたかもしれないが、野球の話に戻る。

この人生が野球だとすれば、自分はプレイングマネージャー、選手兼監督だ。

打順を決めるのも自分、代打を出すのも自分、マウンドに立つのも自分だ。

大谷翔平どころの話じゃない。

 

セオリー通りの生き方を選ぶのも自分だし、セイバーメトリクス(統計学的分析による戦術)を重視するのも自分だ。

送りバントをするのか? バッターに任せるのか?

 

とはいえ、すべての人間がその一人野球をやっているようには思えない。

すなわち、自分をずっとベンチに引っ込めて、ぼんやり回が進んでいくのを眺めているような人生だ。

 

……などと言うおれがまさにそうだから、そう思う。

 

監督をだれかに任せてしまい、出番が来なくても素振りをして試合に出たいというアピールもしない。

もちろん、出たいと思えば出られるのが自分の人生だ。

それなのに、誰かに、何かに任せてしまっている。

回は進む、年齢だけが積み重なっていく。

 

打席に立て、マウンドに登れ

それじゃあ、つまらんだろう。

いずれにせよ死ぬ人生、終わるゲームだ。

バットを握って打席に立ってみてもいいじゃないか。

三振してスコアボードに0がついても自分の人生。

マウンドに立ってめった打ちされていきなり8点奪われても自分の人生。

 

と、わかっちゃいるが、勇気は出ない。

自分で自分の人生を生きていない。

おれのゲームのはずなのに、下手したらベンチどころか内野自由席あたりでビールを飲みながらぼんやり見ている。

それもまた人生、なのだが。

 

ただ、人生も7回裏の攻撃くらいになって、いきなり客席から「代打、おれ!」と叫んでみてもいいじゃねえか。

スコアは11-3くらいで負けてる。

でも、まだチャンスは……まったくないとも言い切れないが。

 

やっぱり面倒くさいな。怖いし、失敗したら恥ずかしい。

おれのスタジアムなのにおれがいない。でも、そっちのほうが楽でいい。

人生を生きるのは面倒だ。

たとえ何かの間違いで一塁に出ても、目でベンチに「代走! 代走!」って合図送るんだ、松山竜平みたいに。

 

でも、ちょっぴり、野球したいなって思うことがないわけじゃないんだぜ。

こんなおれでも、いくらかの期待を背負って打席に立つんだ。まあ、憧れにすぎないけどな。

 

で、みんなはやってるのかい

しかしなんだろうね、みんな打席に立ってるか?

内角高めをうまくさばいて右方向へヒット打ってるか?

ボール投げてるか?

右打者の内角をえぐっているか?

それともベンチで居眠りか?

おれにはそれがよくわからない。

 

インターネットなんてものを見ていると、一番打者、おれ! 先発、おれ! みたいに大活躍して、生き生き、キラキラしている人が多い。

けど、実際のところ、そうやってチャレンジして、結果的に、現在のところ成功しているからスポットライトを浴びているのであって、世の中の大多数はどうなんだろう。

 

おれが観客席から自分に野次を飛ばしている人間だから言うわけじゃないけれど、おれみたいなやつも少なくないんじゃないのか。

勝負どころかグラウンドにも入らず、自分に野次飛ばしているようなやつ。おれの願望か?

 

おれの人生はいま何回?

で、おれの人生はいま何回?

死ぬときはわからないから答えはない。

だが、野球を年齢にたとえてみれば……まだ4回。中盤の入り口くらいのもんだ。

まあ9回90歳まで生きられるような健康な生活は送っていないけどな。

 

けどまあ、そう考えると、人間にとっての1回裏表ってのは重要だな。

2回もすごく重要だ。

今後を決めてしまうわけだ。

ここはもう全力投球でとにかく投げきるのが大切なんだろう。

後からわかることだ。

 

もちろん、わかっているやつはやっていたのだろうし、よい導き手がいたらそうしていたかもしれない。

なんにも考えないでできてしまう天才もいるだろう。それも人生だ。

 

おれみたいに1回からゼロ行進の人間が、4回に急に頑張りだすというのも難しい。

たぶん先発は打ち込まれているだろうし、中継ぎも経験がない。

打線は湿りがちだし、代打に立ったら足が震える。

 

そして、このまま負けつづけて、うまくいけば9回でゲームセット。

まあ、そんなことはないので、どっかでコールドゲームになって試合終了というのが関の山。

 

だからまあ、なんだ、こんなん読んで、「あ、おれ打席に立ってなかったわ」って気づいた人がいたら、ちょっと勝負してみてもいいだろう。

人生は3連戦ではない。

ましてや143試合もない。1戦だ。

負けたら終わりどころか、勝っても終わる。

 

さあ、腕を振ってボールを投げろ。

よし、ひきつけて打て。

菊池涼介のように飛んできたボールをさばけ。

なにをどうすれば点が入るのかも、とんとわからないが。

 

 

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(2024/12/6更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Brandon Mowinkel