よく若者は感受性が豊かだというが、自分は「それは違うのではないか」と以前から思っていた。

 

例えば食べ物の好みに関していえば、自分は若い頃よりも歳を重ねた今の方が許容範囲は遥かに広い。

コンテンツにおいても似たような点が存在する。

本当に感受性が豊かだというのなら、古いコンテンツも新しいコンテンツも別け隔てなく楽しむ若者がいてもいいものだけど…それをやる若者はそう多くない。

 

感受性が豊かだというよりも、単に好き嫌いが尖っているだけのようにもみえる。

食べ物の好みが特定の偏りをみせるように、若者は若者文化にのみ基本的には強く惹きつけられる。

 

それは感受性が豊かだからだというよりも、むしろ理解できる文化がそれに限局されているかのようですらある。

 

不思議な事に、歳を重ねるとみんな同じようなコンテンツに収束していく

故に、感受性という意味では自分はむしろ年長者の方がある意味では豊かなのではないかと思う。

 

ただ、食べ物の好みは単に許容範囲が広くなるだけだが、コンテンツの感受性は面白いことにある種の収束性を示す。

もっと簡単に言えば、歳を重ねるとだいたい似たようなものに惹きつけられるようになる。

 

例えば若い頃はあんなにも古臭いと嫌っていた歌舞伎やプロ野球、政治といったものに大人となった者共は自然と収束していく。

多くの若者が全く理解できなかったそれら古臭いコンテンツを、年長者はいつの間にか特定の感受性を発達させて自然と受け入れる。

 

このように世の中には歳を重ねる事で自然と発達するタイプの感性がある。

生まれも育ちも異なるはずの人間が、まるで雛が巣へと変えるがごとく同じ場所へと回帰する。

 

その世代を象徴する特徴ある若者文化とは異なり、どれもこれもまるで約束事のように同じものへと帰着する。

何故こんな不思議なことがなぜ起きるのか?

 

今日はこの現象をある学説から読み解いて行こうかと思う。

 

文化的世界観によって、死の恐怖から逃げられる

それぞれに特徴がある若者文化と、金太郎の如く同じ場所に帰着する年長者文化。

この不思議な二面性は何から生じるのか。

 

それを読み解くのに有用な理論がある。その名を存在脅威管理理論という。

<参考 なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか : 人間の心の芯に巣くう虫>

 

存在脅威管理理論とは人間には潜在的に「死の恐怖」があり、その恐怖から守られる防衛として文化や自尊心が役立っているというものである。

以下でどういう事かをもう少し詳しく解説しよう。

 

大人は死を思想でもって超克する

人間は生物である以上、必ずといっていいほどに死を迎える。

幼い頃は「自分は死なない」という事を無垢に信じる事ができていた若者も、身近な人や己の親といった存在がバタバタと倒れていく中で、徐々に「次は自分の番なのではないか」という危惧を持つようになる。

 

死は自分という生物の終わりである。

人によっては終わることへの安堵を持つ人もいるだろうが、元気に生きている人にとって死は恐怖以外の何物でもない。

 

死は存在の否定以外の何物でもない。

今まで自分がやってきた事は全て水泡に帰すのだから、それを否定したくなるのは人情というものである。

 

人は大いなる物語にアイデンティティを同一化させ、死の恐怖を紛らわせる

この無残な現実から逃れる為に人はどうするかというと、己の精神性を民族や宗教、特定の思想といったものに同化させてゆく傾向がみられるのだと著者らはいう。

民族や宗教、思想は生物ではない。

それ故に一般的な生物と比較すればだが、明らかに長生きする。

 

そうして生物としての自分の存在を、徐々に特定のアイデンティティに同一化させる事を通じて、人は象徴的な不死の一部へと己の自意識を溶け込ませるというファンタジーを持つようになる。

 

これが存在脅威管理理論の骨子である。

人は物語の一部に自分を組み込むことで、不死を獲得するのである。

 

個人は死ぬが、民族は死なない

若い頃に「俺はオレだ!」と叫んでいたはずの人が「日本人とは…」という風に己の源流へと目覚めていったりするのは、歳と共に徐々に死を意識するからだ。

 

その死から逃れる為に人は「俺は俺だから…生物的にはあと○○年で死ぬ!?…」という認知から「俺が死んでも日本人は不滅だ!」とシフトさせる。

 

そうして自分を大いなる物語の中に溶け込ませる事で、人は生物としての自分の死を超克し死を個人の責任から外していく。

 

若者文化は死の恐怖を持たない。だから長続きしない

こうしてみると若者文化が若者文化たりえるのは、死を恐れておらず、それ故に不死的な要素が無いという部分にあるのではないかと自分は思う。

 

当たり前といえば当たり前なのだけど、若者文化には”伝統”のような要素は薄い。

むしろ自分たちが始まりである事を良しとする。それ故に若者の文化には”新しさ”がある。

 

だが、新しいという事は逆に言えば何の裏付けもないという事と同義である。

死を恐れない若者からすれば古臭い伝統なんか打ち倒されるべきものでしかないわけだけど、若者が成長し、徐々に大人へと精神を発達させるにつれて否が応でも死の意識は若者の精神を蝕むようになる。

 

そうして若者文化の中に死の影が入り込むと、多くの若者文化は自然と牙城を喪ってしまう。

元々が死を恐れない”新しい”部分に価値があったのに、それが死を恐れるようになってしまったら逆に”新しさ”は伝統の前にまったくの無力である。

 

そうして若者文化は儚く若かりし頃の物語へと回収されてしまう。

そこに残るのは懐かしさだけだ。

 

懐かしさは二度と戻れないからこそ

例えば今年の東京オリンピックの開会式でゲームミュージックが流れて多くの人が”感動”していたけれど、ある程度以上の年齢層の人と最近の若い人からすれば、あれの何に感動するのか多分サッパリわけがわからないのではないだろうか?

 

ドラゴンクエストのオープニングテーマに”懐かしさ”を感じて心地よくなるのは、それが”若かりし頃”の自分を思い出させてくれるからだ。

その頃の自分は確かに生命力に満ち溢れており、死ぬことから遠い存在であった。

それはある意味では己が無敵だったと言ってもいいかもしれない。

 

しかし…そこにとどまり続ける限り、残念ながら象徴的な不死には己を同化させる事はできない。

多くの人がゲームを卒業し、かつて古臭いと馬鹿にしていたはずの文化へと収束されてゆくのは、なにもゲームが体力的に無理になったというだけでは多分ない。そこには明らかに”不死”が足りていない。

 

懐かしさとは成長の証

もちろん、今後ゲームが不死性を獲得していく可能性はあるだろうが、残念ながら民族意識や宗教、特定の思想信条と比較するとまだ歴史が浅い。

それ故に、現時点ではゲームは”懐かしさ”の範疇を超える事ができない。

 

かつて若かった頃の自分に”懐かしさ”を思うのは、それが若々しかった頃の自分にある種の”死を恐れる必要が無い”という不死性があったからである。

それを懐かしく思うこと自体が、自分がキチンと歳を重ねる事に成功したという称号のようなものであるし、今現在の自分を形作っているものの源流となっている。

 

その懐古的な精神を”成長した証”として大切に抱えつつ、その一方で自分の魂の一部を古典的な何かへと結びつける事で、人は象徴的不死性の高いイデオギーの一部へと己の器を移行させる。

そうして人は若者を卒業し、大いなる流れの一部へと組み込まれていくのである。

 

若者だけが若者の文化にハマれ、そしてそれを心に抱えて生き続ける事になる

若者文化はその特徴ゆえに感性が開かれた特定の時期にしか摂取が難しい。

Tik tokやYoutubeの配信というようなものに大人が夢中になるのは上記理由につき非常に困難である。

これらのものの表面をなぞる事は大人にだって可能だけど、真剣にそれらにハマるにはやはり年齢制限がある。

 

じゃあ年長者文化が最終的に全てを回収していってしまうのなら、若者文化は無駄なのだろうか?自分はそうは思わない。

 

若い頃に摂取した文化は恐ろしいほどに人の心に残る。

人は開かれた感性を持っていた若い頃に身に着けた”文化”を永遠に心に残し続ける。それを懐かしむ事はあれど、馬鹿にする事は決してない。

 

本当の意味で無駄でしか無いものならば、人は愛着など感じない。”懐かしさ”には明らかに愛がある。

その愛らしさの正体こそが、たぶん私達がその次代に産まれたことの意味のようなものである。

 

それは、それだけは前に産まれた世代の人たちにも得ることが叶わず、後に産まれた人たちも絶対に奪えない、その次代に産まれた人だけの大切な何かなのである。

 

私達は確かに成長するにつれ、若者という時代を終えて保守的な何かへと組み込まれていくのかもしれない。

けど最終的に取り込まれるにしても、そこに必ず傷跡のようなものが残せるはずなのだ。

その傷跡の方向性は間違いなく”懐かしさ”によって示されている。

 

己が懐かしく思うものすべてが自分の行く先を照らす一つの道標である。

例え最終的に行き着く先が古臭い趣味や民族、あるいは何らかの思想だとしても、そこに本当の意味での懐かしさは無い。

 

若者という時代の終わり

以前読んだある本に「若い頃に読んだ本を社会人になってから、もう一度読み返すと面白い」と書かれていた。

著者いわく「若い頃は何が書いてあるかサッパリわからなかったり、あるいはそのときはこうだ!としか思えなかったものが、歳月を経て読むと随分と変わる」との事で、それを彼は「成長」という風に表現していた。

 

そんな事もあって、つい先日になってふと村上春樹の書いた文章が読みたくなり、何気なく雑文集という本を手にとった。

そこに書かれていた文章は衝撃的だった。

自分は確かにその本を以前に読んだように記憶していたのだけど、そこに書かれていた事から浮かぶ情景はあまりにも若い頃とはかけ離れていた。

 

若い頃に僕が村上春樹の書いた文章に惹きつけられたのは、彼の文章スタイルに惹きつけられたからだった。

よくわからない横文字でもって時折スタイリッシュな何かが提示されたり、突然わけもわからずセックスが描写されたりと、そこには”理解できないけど、何故か面白いな”と思える不思議な何かがあった。

 

それが歳を重ねて読み返す村上春樹の文章は驚くほどに見える風景が違った。

そこにはいま現在の自分が持っている問題意識が何十年も前に提示されていたり、全く取り入れた記憶のない自分自身が”今”まさにやっている事が書かれていた。

 

若かった頃に確かに読んでいたはずの内容は、そこには無かった。

その代わりに、いま現在の自分はそこに全く別の何かがみえるようになってしまっていた。

 

これが成長かと言われると、よくわからない。

だが、自分の中にはもう若さ以外の何かが宿されつつあるという事だけは実によく理解できる。

 

あなたも気分が向いた時にでも過去に夢中になった何かを再びやってみてはいかがだろうか?

そこに成長を感じ取れる何かを、今なら見ることができるかもしれない。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

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noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

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