今日は、前々から書こう書こうと思っていた、渡世の一変数にご紹介します。
「渡世の一変数」だなんて勿体つけた言い方しないで、「渡世のコツ」「渡世のライフハック」と書いたほうがすっきりするのかもしれません。
が、私の観察では、これから書くことは万人に再現可能とは思えません。
とはいえ、日常のなかで自他がどれぐらい危険を察知しながら生活しているのかを振り返ること自体にも意義はあるので、ひとつの視点として紹介してみる次第です。
ホワイトな職場や学校に危険は存在しないか
皆さんは、日常生活のなかで、どんな時に身の危険を意識しますか。
たとえば大地震や集中豪雨はわかりやすい危険ですし、呑気に構えようとしてもテレビやスマホが注意を喚起してきます。
もちろん、そうした危険への備えは必要でしょう。
なら交通事故は?
交通事故も、目の前で遭遇すれば肝を冷やす人が大半でしょうし、通勤通学の際に用心している人も多いかと思います。
しかし交通事故に対する用心の、方法・内実は、人によってだいぶ違いますよね。
通行人Aさんは、自動車や通行人の挙動にいつも注意を払い、ときにはドライバーや通行人の目の動きまで見て危険を察知しています。
こう書くととても用心深い人に読めるかもしれませんが、逆にこのAさん、信号を無視したり横断歩道のないところを横断したりしています。
その点ではAさんは法治国家の市民として完璧に用心深いとは言えません。
Aさんと正反対の人も案外いて、たとえば通行人Bさんは自動車や通行人の挙動に注意を払っていません。
Bさんは法治国家の市民としては模範的なので、信号無視をしたり横断歩道のないところを横断したりしませんが、Bさんは道路標識や青信号赤信号をあてにしすぎていて、停止線で止まりきれなかった自動車にぶつかりそうになったりするのです。
保険や補償があるとはいえ、もらい事故で得をしたと思う人はいないでしょうから、Bさんの交通事故への用心は足りていない、控えめに言ってもアンバランスといわざるを得ません。
AさんとBさんの違いを念頭に置きながら、渡世全般についても考えてみましょう。
2021年の日本は法治が行き届いていて、突発的暴力にさらされる危険は有史以来の水準まで下がっています。
職場ではハラスメントの撲滅が、学校ではいじめの撲滅が叫ばれ、実際、職場や学校のホワイト化が進んでいます。
では、そのホワイトになった学校や職場に危険は無いのでしょうか?
いいえ。昭和以前より道路交通法が守られるようになっても路上に危険が残っているごとく、ホワイトな職場や学校でも、予期せぬ事故やトラブルは起こり得ます。
また、ホワイトな職場や学校はハラスメントやいじめと公認されるタイプの危険は摘発してくれますが、ホワイトな職場や学校にはびこる危険までは摘発してくれません。
「じゃあ、ホワイトな職場や学校にはびこる危険ってやつを書いてみろよ」とあなたはおっしゃるかもしれない。
そうですね。
そうなのですがホワイトな職場や学校にはびこる危険とは、まさにホワイトな職場や学校にはびこるからこそ、くっきりとした悪として書くのは難しいものです。
あえて一例を書くとしたら、「思いやりのある発言をし、いつも職場のみんなのことを考え、配慮している人が、本人も意識していないうちに特定の性質を持った人間をゆっくりと疎外し、攻囲している」といったものでしょうか。
畢竟、ホワイトな空間で幅を利かせる危険は、毒物で例えるならシアン化合物やサリンのような急性中毒を起こす脅威ではありません。
そういう直截的な危険なら、まさにいじめやハラスメントとして摘発されるでしょう。
そうではなく、有機水銀やカドミウムのような慢性中毒にたとえられる危険、より隠微で、より遅行性で、より摘発困難なものだけが存在を許されます。
そして波が海岸線を侵食するようなスピードで各人の社会適応の有利不利を変えていくのです。
私生活には暗がりが残っている
でもって話が私生活になると、人間関係は危険でいっぱい、暗がりだらけのジャングルのようなものです。
私生活の水準でも、もちろん昔に比べれば安全だと言えるかもしれません。
というのも、DVやストーカー、虐待やネグレクトはひきもきらない一方、それらが摘発の対象となり、悪事とみなされる程度には社会は進歩しているからです。
それでも私生活から危険が一掃されたわけではなく、DVやストーカーの対象になってしまう危険、込み入ったトラブルに巻き込まれる危険は割とどこにでもあります。
誰と友人になるのか、誰をパートナーとするのか、どこで親交をあたためるのか、等々によって私生活はより安全にも危険にもなります。
そういった私生活の人間関係で命まで落とす事態はさすがに珍しくなりましたが、大小の身体的危機に直面したり、精神的負担がいや増したりするぐらいは十分に起こり得ます。
ですから今日の私生活においても、潜在する危険をどう回避するか、よしんば回避できないとしてもどれだけ浅い傷で済ませられるのかが不断に問われていると、私には思えるのですよ。
今の日本で暮らすぶんには、猛獣に襲われたり飢餓に直面したりすることは稀ですし、公認された危険に出会う確率も下がっています。
まあそれは良いことに違いありません。
ですが大きな危険が除去され、誰もが協調性を持ちなさいといわれているその環境やルールのなかで、現代人も意外なほど安全性を巡って競争し、危険を察知したらできるだけ遠ざかろうとする、そういったポジション争いをやっているのではないでしょうか。
危険を察知することの今日的意義
では、職場や学校や私生活で危険が迫っている時、個人にできることは何でしょうか。
率先して危険に立ち向かう? ええ、それがベストのこともあります。
危険を無毒化・無害化する? はい、それもいいかもしれません。
しかし、個人にできることで最善かつ最初のものは「危険をできるだけ素早く、正確に察知する」ではないでしょうか。
生活圏をおびやかす危険が到来した時、何をどう対策するにせよ、最初にすべきは危険を危険だと察知すること、その危険を過大評価も過小評価もせずに評価することです。
気付かなければ何も対策できませんし、気付くのが遅れればそのぶん後手に回り、できることも少なくなってしまいます。
「職場や学校では、危険を察知ても回避できない」とおっしゃる人もいるでしょう。
ある程度まではそのとおりで、たとえば自分の職場にやってきた新しい上司が危険の塊だと即座に察知したからといって、その上司という危険を無傷で回避するのは難しいものです。
ですが新しい上司が危険の塊だと真っ先に察知した人にこそ、真っ先に察知しただけのイニシアチブが与えられるのもまた事実です。
その新しい上司が危ないと気付くのが早い人ほど、その上司との付き合い方や距離の取り方に自分の意志を反映させることができます。
他方、新しい上司が危険の塊だと気づくのが遅れた人は、付き合い方や距離の取り方にほとんど工夫の余地のないまま、なし崩し的にその上司との人間関係を築いてしまうでしょう。
危険な人物・案件に遭遇した時、真っ先に危険を察知できる人は間合いや関係性を自分にとって有利なようモディファイし、最悪でも受け身をとるための時間的猶予ぐらいは確保できる。
それに対し、ぜんぜん察知できなかった人は、なすがままに間合いや関係性ができあがってしまい、ようやく気付いた時には受け身の取りようがなくなっているかもしれないのです。
私生活の領域では、こうした差がもっと大きく現れます。
というのも、私生活の領域では誰と付き合うのか、もし付き合うとしてどれぐらいの間合いや関係性で付き合うのかが個人の裁量に委ねられているからです。
たとえば新学期に新しいサークルに加入するとして、そのサークルにどのような揉め事が存在しているのか、それとも存在していないのかを素早く精確に察知できる人は、揉めているサークルを回避し望ましいサークルを選択しやすくなります。
他方、察知するのが遅れがちな人は、揉め事のあるサークルにそのまま入ってしまうおそれあるだけでなく、揉め事のない、望ましいサークルに入る機会を逸してしまう可能性も高まるのです。
これはサークルに限ったことではないのですが、揉め事がなく望ましい状態で回っているコミュニティはいつでも誰でも加入できるものは(あまり)ありません。
門戸を開いたタイミングで素早く入ってしまわないと、他の誰かが入ってしまった時点で門が閉じられてしまうことも多いのです。
同じく、誰かと付き合うにあたっても、相手に潜在する危険をどこまで察知できるのか/できないのかで後先は随分違ってきます。
危険な相手と付き合いかけてしまった時、その相手と距離を取るのが出会って10秒後なのか、1日後なのか、1週間後なのかによって、もたらされる危険や脅威は大きく異なりますし、対処に必要となるコストも違ってきます。
気づくのが遅れるほど危険になり、対処に要するコストも高くなるのは言うまでもありません。
また、サークル加入と同じく、揉め事とは無縁で望ましい相手も、付き合うならできるだけ素早く、が基本なので、判断にスピードが伴っているほど有利です。
ぐずぐずしていれば、望ましい相手の人間関係の名簿は満杯になってしまうでしょうから。
危険察知は素養が重要。でも工夫のしようはある
このように、危険を察知すること、それもできるだけ素早く正確に察知することは個人の社会適応にとっていまだ重要です。
これができているほど人間関係のイニシアチブを取りやすくなり、これができていないほど人間関係が後手に回ってしまい、危険を遠ざけにくくなってしまいます。
渡世のしやすさ、ストレスへの曝され具合も違ってくるでしょう。
いや、世界の見え方そのものが違ってくると言っても過言ではありません。
では、こうした危険を察知する能力はどうすれば高められるのでしょうか。
……残念ながら私は、こうした能力を具体的にどうトレーニングすればいいのか、うまく答えることができません。
また、その素養にはかなりの個人差があり、個人差がどこまで埋められるのかも定かではありません。
それでも、素養の個人差を補うメソッドはあるように思われるので、最後にそのことを記しておきます。
個人差を補う第一の可能性は、危険を察知する素養が高そうに思われる人の挙動を真似てみること、その挙動をどう判断しているのかを推測し、ヒントを探ってみることです。
さきほど、危険を察知する素養には個人差があると記しました。
実際、中高生の段階から鋭敏に危険を察知する人はいるもので、そのような人は学生時代から人間関係で有利を取りやすいでしょう。
間近にそういう人がいた場合、彼/彼女の挙動を参考にすることで、ある程度まで彼/彼女の危険探知の恩恵にあずかることができます。
また、自分自身には危険に思われない状況なのに彼/彼女がそれとなく回避を選んだ場面があったら、それがどういう判断に基づいたものなのか、推測したり教えてもらったりすると勉強になります。
判断の根拠がなかなかわからない場合も、後々になって彼/彼女自身の口から判断の根拠がポロリと漏れることだってあるでしょう。
そうやって答え合わせを繰り返すことで、優れた危険察知をある程度まで真似できるかもしれません。
この件に限らずですが、自分よりも何かを上手くやってのける人の後を追いかけ、挙動や判断を真似て、その理由や根拠を後からしっかり考えるのは、滋味深いトレーニングになるのでおすすめです。
第二の可能性は、社会経験を積んでいくことそれ自体の恩恵です。
一般に、社会経験の豊かな人は危険に敏いものです。
人生のなかでさまざまな危険を見聞するうちに経験知が広がり、さまざまな危険に意識的になれるのも年の功の一種でしょう。
思いきったトライアルが難しくなるという弊害もありますが、少なくとも危険の察知については社会経験を積んでいる人のほうが有利と言えるでしょう。
中高生の段階から鋭敏に危機を察知する人でも、経験不足のせいで危険を読みきれない場合も時にはあり、そういう人が年寄りに”食われてしまっている”こともないわけではありません。
この方面では、素養に恵まれしかも経験も積んだ年長者こそが最も手ごわい相手で、私のみたところ、判断の根拠もなかなか掴ませてくれません。
誰もがそのような怪物になれるわけではありませんが、社会経験の積み重ねが有利に繋がるのだけは間違いないので、悲観し過ぎるのでなく、経験を積み重ねておきたいものです。
良い危機察知で、良い人生を。
今日書きたいことはそれぐらいです。
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著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo by Markus Spiske