とても美しい本を読んだ。”躁うつ病を生きる―わたしはこの残酷で魅惑的な病気を愛せるか?”である。

筆者であるケイ・ジャミソンは名門ジョンズ・ホプキンズ大学医学部精神科教授なのだが、なんと彼女はバリバリの躁うつ病当事者である。

 

この本は精神領域の専門家が躁うつ病の当事者である自分自身の事を書く、という非常にユニークなものだ。

読み進める事で躁うつという病がどのようなものなのかを追体験する事ができるようになっている。

 

本書の最大の魅力は綴られる文面の美しさにある。

よくもまあ、こんなにも美しい文章が書けるもんだと感嘆してしまうほどにケイ・ジャミンソンの書く文章は美で満ち溢れている。

 

これは本人に芸術的な素養があるという事も勿論あるだろうが、それ以上に躁うつ病という病の影響が強そうだ。

ケイ・ジャミンソン本人も躁うつ病と自分の創造性に強い相関関係があるという自覚があるようで、特に躁状態に関する記述が実に凄い。

「こんなに凄い世界の見方が人間にできるんだ」と感心してしまう。

 

ひょっとしたら…あなたも躁うつ人間かもしれない

この美しさに触れられるというだけでも本書を読む価値はあるのだが、個人的に本書で最も役立ったのは”自分も躁うつ気質を抱えている”という事を自覚できた事だった。

私事で恐縮だが、僕は体調にかなり波がある。

具体的に言うと身も心も軽くて記事のネタが山のように降り注ぐような期間と、ドンヨリとして身体が重くなり思考が全く先に進まなくなる期間が繰り返すのだ。

 

これまではこの調子の波を

「まあ人間、こんなもんだろ。世の中にはバイオリズムって単語もあるし」

ぐらいにしか思っていなかった。

 

だが、本書を読み進めるにつれケイ・ジャミソンの症状と自分の症状に随分と一致するものがある事を知り、自分も躁うつ的なものをかなりの割合で抱えているという事を遅まきながら自覚できるようになった。

 

本書でケイ・ジャミンソンに生じる心がアガって下がってのジェットコースターは正に

「あるある!そういう時、あるよねー」

としか言いようがないものであり

 

「僕の体調が悪くなる原因って…」

「躁状態の時にアクセルを踏みすぎている部分にあったのか…」

という事に35歳になってようやく気がつくことができたのは幸運以外の何物でもない。

 

本書は全ての調子や気分の上げ下げに苦しんでいる人に参考になるだろう。

あなたもこの本を読めば己の内なる躁うつ気質を自覚する事ができるかもしれない。

 

病を治療する事は単純によい事ばかりとは限らない

筆者であるケイ・ジャミンソンの躁うつ病は本当にとてつもなく重症で、未治療で見過ごせるような生易しいものではない。

故に彼女は様々な迷いを順繰りしつつ、最終的には炭酸リチウムという躁うつ病の治療薬の服用を自分の人生の中に受け入れるようになる。

 

ここまで読んで「病気なんだから、ちゃんと治療するのは当然の事じゃない?」と思う人も多いだろうが、以下で述べるようにこれが実に難しい側面を抱えている。

 

天から授けられたものは呪いであり、祝福でもあった

先にも書いた通りこの本は美しい記述で満ちている。

ケイ・ジャミンソンの視点は非常にユニークで、人を魅了してやまないものがある。

 

だが…その魅力的な記述は躁うつ病を治療する前を描いた序盤にかなり偏っている。

躁うつ病の治療薬である炭酸リチウムをキチンと服用するようになった本の後半部分からはケイ・ジャミンソンの文章から美しさや芸術性はかなり薄くなる。

病を治療する事で躁うつという厄介な気質と引き換えに彼女の魅力部分でもあった芸術的センスは損なわれる。

 

つまり、彼女の躁うつ病はある意味では確かに”病”なのが、ある意味ではそれは天から授けられた芸術的センスというギフトともいえるのだ。

 

残念ながらメリットの一点獲得はできない

故にケイ・ジャミンソンにとって薬で躁うつを抑えるという事は病に対する治療という側面もあるが、天から授けられた芸術的センスを捨てるという事にもなる。

 

自分という存在をここまで押し上げてくれたギフトを生きるために捨てる。

それを選ぶという事には私達の想像を超える重みがあるに違いない。

 

彼女が躁をフルスロットルで展開するのはロケットやフェラーリに搭載された高性能エンジンをアクセル全開でかっ飛ばすようなもので、そうする事で彼女は我々凡人では絶対に出せないスピードで世の中をぶっちぎる事ができる。

 

その一方、この高出力エンジンは彼女を人生という道路からコースアウトに誘ったり、燃費が悪すぎて彼女から生命のエナジーを枯渇させるほどに使い過ぎにさせたりもする。

こんな暴れ馬エンジンが安定した日常生活を送るのには役立たないというのは確かにその通りなのだが、じゃあ彼女はその上で自分の能力に手錠のようなものをかける事に葛藤は間違いなくあっただろう。

 

人生は選択だ。

何かを得る為に何かを失い、また何かを失う事で何かを得る。

 

果たして自分だったら生活のために自分を形作ってくれたアイデンティティの元を捨てられるだろうか…そういう観点でこの本を読むと、また実に味わい深い。

 

傷口に人生を乗っ取らせない

しかしその上でこの本を読んでこうも思った。

「筆者であるケイ・ジャミンソンは病を治療して治ってつまらなくなってしまった自分を描いたのだろうか?」

「芸術性やエンターテイメント性を考えれば、躁うつで見える風景をヴィヴィッドに書けばもっと成功できたに違いない」

「それなのに、なぜわざわざつまらなさを作品に混じたのだろうか?」

 

読後長い間この問いに答えられなかったのだが、最近になってようやく自分の中で納得がいく結論がでた。

たぶん彼女は同胞達に「生きるという事がどういう事なのか」を示したかったのだ。

 

世の中には実に波乱万丈な人生を送る方がいる。

例えば僕が大好きな作家さんに高田かやさんという方がいる。

彼女はヤマギシ会というカルト村で生まれ育ち、そこから飛び出していわゆる普通の社会へと脚を進めた方だ。

 

処女作である”カルト村で生まれました”はそんな彼女の生い立ちが書かれたものなのだけど、そこには意外というか恨みつらみのようなものはあまりない。

その後に続く彼女の作品にも恨みつらみはほぼなく、むしろ「過去は過去、現在は現在」という風に達観したスタンスが続く。

 

カルト村で生まれましたが出版された当初、この本がヒットしたからなのかこの手のヘンテコな新興宗教に幼い頃困らされたという体験談漫画が続いたのだけど、それらの多くは被害者意識を捨てされていないものが多かった。

それに対して高田かやさんの”カルト村で生まれました”の読後感は驚くほどに軽い。

どの作品も読後感は全く重くなく、なんていうか達観している。

 

人生の主人と従者

また、彼女は実に多作だ。2作目と5作目はカルト村の話題が続くが、3作目のお金さま、いらっしゃい! 、4作目のうまうまニッポン! 食いだおれ二人旅ともなると、そこにはカルト村のネガティブニュアンスは皆無にも等しくなる。

本の中に悲壮さは皆無で、むしろカルト村での経験があったからこそピュアに物事がみれるようになったといわんばかりなぐらいに本の中からポジティブさを感じられる。

 

すべての本を通じ、高田かやさんは”生活”を主体に描いている。

生活が主、カルト村での体験は従。

その方針がブレることは全く無い。

彼女もエンタメだけを意識するのなら、それこそいくらでもカルト村での物語を膨らませて誇張表現できただろう。

 

けどそれを彼女はしない。何故か?それはあくまで彼女が”普通”をキチンと生きる事を選択したからだろう。

 

彼女が幼き頃にした体験は見方によっては不幸な部分もある。少なくとも無批判に良いことだとはいえまい。

しかし彼女はその己の生い立ちを人生の主人には決して置かず、ユニークな1つの体験でしか無いと人生の従者に置く。

 

改めて考えてみると高田かやさんのこのスタンスが実に絶妙だ。

多くの類似カルト出身作家が一作目で筆を折っているのに対して彼女はその後も作品発表が続いているが、その差はここにあるだろう。

 

特異な体験に自分の人生の舵なんて取らせない。

主人は自分、お前は単なる従者。

たぶん、僕はこの彼女の強さに惹かれるのだ。

 

傷口は塞げたという事に価値がある

何が自分の人生の主人で、何が自分の人生の従者なのか。

ケイ・ジャミンソンの本と高田かやさんを何度か読み返す事で、僕はこれらの本がこの重要な問いを私達に問いかけているのではないかという事に気がつけた。

 

ケイ・ジャミンソンにとっての人生の主人は生活だ。

彼女は躁うつ病という病を愛し、そして躁うつ病を生きるという選択をした。

芸術的センスは人生の主人たり得ない。

 

だから彼女はわざわざ自分の傷口がちゃんと閉じたという事を誤魔化さずに書いたのだ。

結果的に彼女はつまらなくなってしまったかもしれないが、それは彼女が生活を人生の主人として捉えたという事の最大の証明でもある。

 

高田かやさんにとっての人生の主人も生活だ。

彼女にとってカルト村は生活に彩りを加えるための従者である。

彼女の傷口もまた閉じている。

だから彼女は被害者意識を混じること無く作品をエンタメとしておどろおどろしさ抜きに書き続ける事ができる。

 

このように人間は傷口をちゃんと閉じる事ができる。

それは傷口を無かった事にしたり忘れたりするのではなく、傷口を人生の主人にはしないという事である。

 

傷口に人生を奪われるな

京アニ事件、大阪ビル放火、京王線のジョーカー、小田急無差別刺傷事件…最近、世の中では傷口を主人にしてしまう凶行が目立ってきた。

僕が思うに、彼らは傷口に自分の人生を奪われてしまった人達である。

 

先に紹介したケイ・ジャミンソンや高田かやさんは傷口を自分の人生の従者として取り扱う事に成功した人達だが、皆が彼女らのように傷口を従者として付き従えられるわけではなかろう。

 

これを読んでいる読者の方も今までの人生で色々な事があっただろう。

中には昔うけたトラウマに今でも突き動かされるような人生を送っている人もいるかもしれない。

 

もちろん、時には塞ぐことができないような傷口だってあるだろう。

僕だって先ほど例にあげたような事件を起こした犯人のような人生を歩んだとして、その傷口を塞げたかどうかはわからない。

 

その上で思うのだ。大変で不幸な事があったとしても、傷口はキチンと塞げるという事を私達大人が態度でもって示すのが我々に課せられた責務ではないか、と。

それこそが真の意味でのレジリエンス(再生)という言葉の意味なのだと僕は思う。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

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noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Pete Walls