この記事で書きたいことは、ざっくり以下のようなことです。

 

・「頭の悪い人がよく使う話し方」というような記事を読みました

・「情報のやり取り」という意味で、対話における聞き手と話し手の立ち位置に本来差はなく、価値の高い対話は双方が協力して作り上げるものです

・それを無視して、「話し手」に一方的にコミュニケーションコストを負わせるのはあまり妥当だと思えません

・聞き手としても価値の高い対話ができるように考えたいですよね

 

よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、あとはざっくばらんにいきましょう。

 

先日、こんな記事を拝読しました。

頭のいい人はそう答えない…「頭の悪い人」が会話の最初の5秒によく使う話し方

以下、一部引用します。(引用部分は無料部分のみですが、当然記事としては全文読んでおります)

質問に対して、小学生のような答えしかできない人がいる。
仕事で講演会を聞きに行ったとしよう。帰社後、当然のことながら上司から「講演会はどうだった?」と問われるだろう。そのようなときに、「おもしろかったです」「楽しかったです」としか言わない。
課を代表して取引先主催のパーティに出席したような場合も、「料理がおいしかったです」「盛り上がりました」。打ち合わせへ出向けば、「うまくいったと思います」、出張から帰れば、「北海道は寒かったです」。
それしか言わないという点が、相手をがっかりさせていることに気づいていない。

上司からの「どうだった?」は、「きちんと報告しなさい」という意味だ。
講演会で何を発見したのか、パーティの顔ぶれはどうだったのか、契約はどこまで詰められたのかといった具体的な情報を求めて聞いている。「実際に出向いた者にしかわからないから、答える側がポイントを絞りなさい」と言っているのだ。
だから、まず答えるべきは「主観」ではなく「話の方向性」だ。大まかでよいので、これから何について答えようとしているかの概略を示せればよい。そこでキーになるのが「答えの最初のひと言」だ。

なるほど。講演会はどうだった?という問いかけに対して、「おもしろかったです」としか言わないのが「頭の悪い人」の話し方であり、話し手は最初に話の方向性を示すべきだ、という論旨ですね。

 

この記事を読んでまず最初に思ったのが、「質問に対して答える側だけに「頭が良い/悪い」という評価を押し付けるのは、ちょっとフェアじゃないんじゃないかなあ」ということでした。

記事の論旨としては「話し手としての心得」というところなのですが、とはいえこのタイトルにしてこの内容は、いささか話し手だけにスコープを絞り過ぎているな、と。

 

会話というものは、本来聞き手と話し手がセットで構築するものであって、質問に対する回答の価値は質問の質によって変わります。

「良い質問」には「良い回答」が返ってきやすいですが、一方「良い回答」をなかなか導けない質問の仕方、というものも世の中にはあります。

 

「具体的な情報を求める」という目的があるのなら、それが成立しない責任の半分は聞き手にあります。この文章で書かれているような回答が「頭の悪い人の話し方」なのだとしたら、それを導いた側は、なぜ「頭の悪い人の聞き方」という誹りを免除されるのでしょうか?

 

***

 

ちょっと昔話をさせてください。長男がまだ幼稚園に通っていた頃の話ですので、多分8,9年ばかり前のことだと思います。

 

長男をお風呂に入れていた時の話です。

当時はまだ一家5人でお風呂に入っていて、といっても長女次女は確かまだ赤ちゃん用の小さなお風呂に入っていたのですが、浴室はやたらにぎやかだったような記憶があります。

お風呂中はお話タイムでして、「きゃー」とか「ぴゃー」とか騒いでいる長女次女と、プラレールの話を楽しそうにしている長男の言葉が入り混じって、浴室の壁でくわんくわん反響していました。

 

で。今でもはっきり覚えているのですが、私がふと口にした「今日、幼稚園で何があったー?」という質問に対して、長男がしばらく困った顔をしてから、

「もう、そんないろいろ聞かないでよー」

と答えたのです。

 

これを聞いて、私は「ん?」と首を傾げました。

「いろいろ」ってなんだろう?私としては、単に「幼稚園で起きたこと」という一つのテーマで聞いたつもりだったのですが、思わぬ答えが返ってきたなあ、と。

 

この時、妻は確か横で長女次女と遊んでいたと思うのですが、私が違和感を感じていることに気づいて、こう言葉をはさんでくれました。

曰く、

「開かれた質問だから答えにくいんじゃない?」

これを聞いて、いろいろと腑に落ちたのです。

 

妻は臨床心理士でして、たまにするっと心理用語を使うことがあります。

開かれた質問というのは、明確に選択肢を提示しない、質問された者が自由に答えることのできる質問法のことなのですが、例えば「最近どう?」だとか「なんか面白いことあった?」といった質問もこれに該当します。

不勉強で、私この時まで「開かれた質問」という言葉自体知らなかったんですが。

 

つまり、長男の頭の中では、「幼稚園で起きたこと」というのは、様々な記憶が混じった、非常に雑然とした状態で保存されていると。

それに対して、「何があった?」という一切方向性を定めない質問をされると、まだ思考を整理することに慣れていない長男は、幼稚園で起きた「いろいろなこと」をいっぺんに答えなくてはいけないのか、と思って途方に暮れてしまったと。

 

これを聞いてなるほどと思いまして、「今日幼稚園で遊んだ?」「何して遊んだ?」「楽しかった?」というような具体的な質問に変えてみたところ、今度はするする楽しそうに答えてくれまして。

最近「どろけい」という遊びを教えてもらったこと。先生が地面にどろぼうの基地を書いてくれたこと。警察で何人も捕まえて楽しかった。そういう話がわんさか返ってきたわけです。

 

この時私、ちょっと反省したんですよ。

つまり、今の長男に対して投げかける質問としては、「幼稚園で何があった?」というのは適切ではなかったな、と。

本来押し付けるべきではないコミュニケーションコストを相手に押し付けてしまっていたな、と。

 

いや、決して「開かれた質問自体がダメ」という話ではないんですよ?相手に自由に発話してもらうことだって、会話の舵取りを相手に渡すことだって、時によっては大事だし、時によっては有効でしょう。それは当然です。

 

とはいえ、そもそも開かれた質問できちんと対話をする為には、ある程度「会話のパターン」や「コミュニケーションのお約束」というものに慣れていないといけません。

相手が「幼稚園で起きた全て」を知りたいわけではなく、「印象に残った何か一つ」を求めているんだ、などということは、まだ幼稚園児の長男にわかるわけがありません。

 

「最近どう?」という質問は、相手に対して「山ほどあるテーマの中から、どれか一つの適切なテーマを選択する」ということを強いている、という質問でもあります。

時にはそういう質問が有効に動作をすることだってあるでしょうが、それを無自覚に幼稚園児に押し付けるのは適切だとは言えません。

「会話って楽しいんだ!」ってことを学んで欲しい時期に、逆に「会話ってなんか難しい……面倒くさい……」なんて思われたらイヤだなあ、と思ったのです。

 

この時以来、子どもたちとの会話の時には、やや意識的に「閉じた質問」から徐々に開かれた質問に移っていく、という話し方をするようにしてみました。

会話の成功例をたくさん積ませてあげるために、まずは答えやすい入口をちゃんとこちらで用意してあげて、そこで「こういう話をするといいんだな」という実例をたくさん学習してもらう。

そういう成功体験を経た後、じゃあある程度曖昧な、自分で切り開いていく会話というのを経験した方が、まず「言葉を交わす」ということに対するハードルが下がるんじゃないかなあ、と。

 

その結果なのかどうか、今はもう中学生の長男もすっかりおしゃべりに育ってくれまして、ゲームの話や電車の話、食事の話なんかで止まらなくなることも多いです。

まあ年代的にはそろそろ一度親とあんまり話さなくなるかもなーと思ったりもしているのですが、少なくとも「会話」というものは好きになってくれたかなあ、「言葉にする」ということには抵抗をもたないで育ってくれたかなあ、とは思っているのです。

 

***

 

もちろん上記の話はほんの小さな子どもについての話ですので、大人、社会人の会話にそのまま適用できるようなエピソードではありません。

 

とはいえ、

・会話の質は、話し手と聞き手、双方のスタンスに依存する

・コミュニケーションコストというものは、本来話し手と聞き手が双方で負うもの

・コミュニケーションコストを負わないのであれば、その会話の質に対して過剰に期待するべきではない

という点については、大人、子どもに関わらず共通して言えることでしょう。

 

「最近どう?」という質問が悪い質問だ、とは全く思いません。

なんの意味もない世間話というものは案外大事なもので、「私はあなたに興味を持っていますよ」という明示、人間関係における必要不可欠な儀式でもあります。

「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」という定型句でも、少なくとも「自分には対話の意志がある」と相手に示すことはできるわけです。

 

ただし、「もうかりまっか」という聞き方をするのであれば、「ぼちぼちでんな」という以上の答えを期待するべきではない。

自分はコミュニケーションコストを負っていないのだから、会話の質は相手が投じるコスト次第になります。そこで「こいつ、ぼちぼちでんなとしか答えない!頭悪い!」というのはさすがに筋違いというものでしょう。

 

ここで話は冒頭の記事に戻るのですが、

上司からの「どうだった?」は、「きちんと報告しなさい」という意味だ。

これが相手にちゃんとした報告を求める「対話」だとしたら、質問が「どうだった?」であるべきではない、と思うんですよ。

少なくとも「自分が何を求めているのか」くらいは明示するべきだし、話の方向性だって話し手が一方的に決めるものじゃない筈でしょう。

 

「講演会で何を発見したのか、パーティの顔ぶれはどうだったのか、契約はどこまで詰められたのかといった具体的な情報を求めて聞いている」のであれば、何故そこを全て省いて「どうだった?」という言葉に集約するのでしょう?

これが仮に、上司としての部下に対する「考査」だというならまだ(好きにはなれないまでも)話はわかるのですが、聞き手がスムーズで良質な対話を求める「頭のいい人」なのであれば、「どうだった?」などという質問で相手にコミュニケーションコストを丸投げするのは、どうも私には釈然としないのです。

 

繰り返しになりますが、質問に対する回答の価値は質問の質によって変わります。

大人同士の会話なのだから、そこまで手取り足取り選択肢を提示する必要もないでしょうが、質問の質を完全に放擲しておいて、「楽しかったです」という答えにがっかりする上司にはなりたくないなー、と、私はそんな風に思ったのです。

 

私自身、管理職のはしくれとして部下から報告を受けることはままありますが、基本的に「自分が何を知りたいか」は明示しているつもりですし、それが済んだ上で「他に聞いておくべきことってあるかな?」と相手に丸投げをしたりもします。

そこで自分が思いもよらなかった情報が出てくれば感心しますし、一方何も出てこないからといって「そりゃそうやな」という以上のことは思いません。

 

私自身についていえば、こちらの方が対話として気持ちいいんじゃないかなあ、と思わないでもないんですよ。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by Jason Leung