今更だが細田守監督の竜とそばかすの姫をみた。

公開当初あまりよい評判を聞かなかった事もあって全く期待せずにみたのだが、率直にいって思っている以上に面白かった。

 

本作は言うまでもなく美女と野獣がモチーフとされて作られたものだ。

元々の美女と野獣は男と女のロマンティック・ラブの色合いが濃い作品だが、それと比較して本作の描く愛の形はより普遍的な人類への愛である。

 

僕が思うに、この作品が酷評される原因となっている一番の原因は日本人のキリスト教への理解が不足している事があるように思う(といっても最初は僕も気がつけなかったのだが)

 

というわけで今回は本作品の構図を解説してゆこうかと思う。

 

現実はやりなおせない。けど仮想空間でならやりなおせる?

竜とそばかすの姫は最初から実に印象的なシーンではじまる。

人の感情を鼓舞するメロディーラインと共に解説される本作の舞台設定は、ある意味では実にディストピア的なものだ。

 

冒頭で述べられている通り、竜とそばかすの姫の世界は5人の賢人によって作られた仮想空間Uという世界が現実世界と共に存在している。

Uは本人の生体情報をベースに作られたアバターASによって構成された仮想現実だ。およそ50億人もの人間が参加するこの世界を、冒頭のナレーションはこう説明する。

 

「現実はやりなおせない。けどUならやりなおせる」

 

仮想空間なら人生をやりなおせる。この言葉は恐らくなのだけど、なろう系を始めとする転生系といわれるジャンルを念頭に置いて発されたものだろう。

そういう仮想空間なら人生をやりなおせるという状況仮説に基づいて構成された竜とそばかすの姫の世界では、50億人もの人間が仮想空間にはまり込んでおり、そういう状況で主人公も実際にUの世界へと入り込んでいく。

 

しかし、本当に現実はやり直せないのだろうか?これがこの物語の真のテーマである。

 

仮想空間で歌姫ベルとして人生をやりなおすが…

竜とそばかすの姫という物語は主人公であるすずの人生やりなおし物語ともいえる。

 

主人公すずの人生は不幸なイベントにより壊された。

河が増水し、それによって取り残された見も知らずの女の子をすずのお母さんが救おうと画策し、その結果として彼女は母を失う事となる。

 

「なんで最も大切な家族を犠牲にしてまで、見も知らずの他人を救うのか?」

 

彼女は母親の身を挺した犠牲により、心に深い傷を負う事になる。

彼女はこのトラウマに囚われ、大好きだった(恐らく母親をキッカケとして好きになった)歌を歌えなくなる。

 

そのような心に深い傷を負ったすずを、仮想空間Uは見事にすくい上げる。

現実世界では歌を歌えないすずだが、仮想空間Uのテクノロジーはベルとして人生をやりなおす事に成功させる。

確かに仮想空間Uは人生をやりなおせるのだ。

 

こうして、Uの世界ですずは歌姫ベルとして第二の人生をやりなおせました。めでたしめでたし…とはご存知の通りならない。

彼女は竜という存在に出会い、母親が行った行為を追認する事となる。

 

本当の救済とは、心底どうでもよかった他人に尽くす事を通じて行われる

恐らく本作品が酷評される最大の原因は竜の正体にある。

率直に書くが、竜の正体を一言でいえば「本当に、まったく、何も縁がない他人」である。

 

僕を含めて、実に多くの人が竜の正体を楽しみにこの物語をみたはずだ。

サマーウォーズで家族愛の素晴らしさを書いた細田守監督なのだから、きっと竜も絆ある素晴らしき存在だと、皆が期待したはずだ。

 

「きっと幼馴染の男の子だろう」

「いや、実は河の増水で助けられた子供に違いない」

「ひょっとして、心に同じぐらいの傷を負った父親なのかもしれない」

 

細田守監督は、このいずれの選択肢も選ばず、結果として本当にどうでもよい他人を竜の正体として取り上げた。

 

正直、僕も最初この展開に本当に落胆した。

 

「いくらなんでも感情移入しにくすぎる。視聴者をなめてんのか」

 

そして本作品を佳作として心のフォルダにしまい込み、まあ冒頭のシーンだけは名作だよねといって終わらせたいという気分が最高潮に高まったあたりで、ふと

 

「そういえば…この映画はそもそもすずの母親が心底どうでも良い他人を助ける事から始まったんだったな…」

 

という事を思い出した。

 

そういう視点でモノを眺め直すと、この物語が実はキリスト教で最も有名なあのシーンのモチーフである事にやっと気がついけた。

ロンギヌスの槍とゴルゴダの丘である。

 

人はどうでもいい他人の為に、己を捨てられるのか

仮想空間Uで歌姫ベルとなる事で救われたかのようにみえた主人公すずだが、彼女は竜というUにおける厄介者に心をかき乱される。

 

歌姫ベルとして成功した彼女にとって、本来ならば竜なんて無視してもよい取るに足らない存在であったはずだ。

しかし主人公すずは竜に歩み寄り、その正体へとたどり着く。そこで彼女は竜に救いの手を差し伸べるのだが、竜はその救いの手をふり払い仮想空間からログアウトする。

 

ここで主人公すずは竜と同一の次元にまで堕ちるという事を迫られる。それは歌姫ベルとして仮想空間で人生をやりなおす事に成功した彼女にとって、歌姫ベルという存在を殺す(無かった事にする)という事にも等しい選択だ。

 

歌姫ベルを生み出し、すずを立ち直らせた友人ヒロは当然のように、その選択をあり得ないと一蹴する。

せっかく歌姫ベルとして人生を再生できたのに、見も知らずの他人の為になぜそれを捨て去る必要があるのか?そんな事をしないで、仮想空間の中でやりなおす事に成功した人生を歩み続ければよいと。

 

この葛藤を乗り越え、主人公すずはUの自警団を名乗るジャスティンに「自分をアンベール」せよと身をなげうつ。

そうして光(ロンギヌスの槍)に貫かれた歌姫ベルは死に、本作において最も感動的といえるクライマックスのシーンへとたどり着く。

 

ここで主人公すずは、本来ならば絶対にできなかったはずの歌を歌い抜く。もちろん観客の多くは彼女が歌えないはずの存在だなんて事は知らないのだが、その必死の呼びかけともいえる歌唱を通じて、意味も理解できないのに自然と涙を溢れさせ、一つの存在となる。

 

こうして、仮想空間だけではなく現実世界でも“やりなおす”事ができるのだという強い決意を示す事を通じて、主人公すずはふたたび歌姫ベルとして最後に仮想空間で再び受肉し、見事に復活を遂げる。そう、再び生き返ったイエス・キリストのように。

 

イエスが殺される事で、人類は救済された。

キリスト教において、イエスは受肉した神だ。本来ならば尊い場所にいたはずの神が、わざわざ受肉し、そしてゴルゴダの丘でロンギヌスの槍に貫かれて死ぬという強い犠牲を示す事で、イエスは人類を救済する。

 

このイベントで着目すべき点は、本来ならば神にとって人類は心底どうでも良い他人であったという事だ。

かつて罪を犯し、楽園から追放された原始のヒトの子孫は、長い月日を経て知り合いの知り合い・そのまた更に知り合いと…アダムとイブにはとてもじゃないがたどり着けないほどに別人となった。

私達だって、地球の裏側にいる人の事を親戚だとはとても思えないだろう。そういう事だ。

 

しかし神は、わざわざ受肉しイエスとなり、その心底どうでも良い人間を救済するために、ゴルゴダの丘で槍に貫かれて死んだ。

冷静に考えれば、これは単なる馬鹿である。少なくとも直接的には全く誰ひとりも救済していない。

 

しかし…この理性的に考えれば馬鹿げた自己犠牲的な行いが、結局イエスを教祖として真の意味で完成させた。

ヒトはこのように、冷静に頭で考えれば馬鹿げているとしかいいようがない行いから、理性を超越した何かを得てしまう事がある。

 

仮にだけど、イエスが友人や家族といった身近な人の為に死を選んだのだとしたら、イエスも所詮ヒトの子だったのだと後世になって全く評価されなかっただろう。せいぜい走れメロスぐらいの歴史の端役どまりだったに違いない。

 

本作・竜とそばかすの姫において、主人公すずが心底どうでも良い他人を救ったことにはキチンと理由があったのである。

本当に、どうでもよい、全世界からの嫌われ者に手を差し伸べられる彼女だったからこそ、最後のシーンで仮想空間Uにいる50億人の人間(と私たち観客)は意味もわからないのに涙を溢れさせたのだ。

 

主人公すずの母親も、きっと救済されたかったのだ

最後に本作品最大の謎ともいえる、主人公すずの母親の自己犠牲という行動原理を追ってみていこう。

 

いうまでもなく、本作品において主人公すずと母親の行動は鏡写しの関係にある。

その事を念頭に置きつつ、まずは最も深い部分にまで降り、そして竜に救いの手を差し伸べたすずのその後をみる必要がある。

 

最終的に竜を救い出した彼女は、歌姫ベルとしての自分だけではなく、本当の意味での魂の救済をえる事ができた。

それまで避けていた父とも向き合えるようになり、彼と一緒にカツオのたたきを食べられるようになった事が指し示す事は、実は心底どうでも良い他人の救済こそが、自分自身の魂を救済したという事の証明である。

 

私達がいま生きる社会はとても厳しい世界だ。

現実は簡単にはやり直しがきかず、他人の噂話の的になるなど、常にストレスフルな事態と隣り合わせにある。

 

そのような苦しい現実社会にいきる私達は、理性的になればなるほどに利己的にならざるをえなくなる。

身近な人を尊重し、どうでもよい他人の事を蔑ろにする。

それはとても普通の事のように思えるし、ロジカルに考えればとても合理的で正しい行いのようにも思える。

 

しかしである。そのような利己的な立ち振舞いでもって構成された社会は、果たして本当によい社会であるといえるのだろうか?

というか全くよい社会ではないからこそ、50億人もの人間がわずか5人の人間によって構成された仮想社会に逃げるような事態に陥っているのではないだろうか。

 

人は…合理的に他人に冷徹になればなるほど、結果的には己の首をキツく締め上げる事になる。

そうして己の蜘蛛の糸をプチンと切っていった果ての果てが、誰も救われない辛く苦しい社会の到来へとつながった。

 

恐らくなのだけど…すずの母親もまた、そのような苦しい社会がとても辛かったのだ。

きっと河が増水するその日まで、何度も何度も見も知らずの他人の助けてという声を「聞かなかったこと」として切り捨ててきたはずだ。

 

あの日救いを求める子供の声を聞き、母は子の泣き叫ぶ声を振り払ってまで、本当に心底どうでも良い他人の命を助けるために命を張ったのは、たぶん母もまたこの救いようがないほどに苦しい社会から、救われたかったからなのではないだろうか。

 

もちろん、その立ち振舞いには多くの批判があろう。いちばん大切な自分の家族を不幸にするリスクを負ってまで、あんな事はやるべきではないというのは、誠に誠にロジカルで理性的で、圧倒的に正しい意見である。

 

しかし…それでは私達は本当の意味では永遠にこの辛く苦しい世界で救われないのである。

利己から脱する事ができなければ、この世界は永遠に“地獄”のままであり続けてしまう。

仮想世界でしかやり直しができない、煉獄であり続けてしまう。

 

己を大切“ではない”ものになげうつ事ができる事こそが、真の意味での魂の救済であり、人が現実をやり直す為の条件だ。

たぶん、細田守監督は、こういう事が言いたくてこの物語を作ったのだと僕は思う。

 

常に己の命をなげうつまでの献身的な犠牲を続ける必要まではないけれど、時には優しく他人に対して合理性を超えた立ち振舞いをしてみてはいかがだろうか?

それが巡り巡って、本当の意味で自分の魂を救うのだ。

無償の愛は何も無価値で意味のないものではない。そこにしか、我々の真の意味での救済はないのである。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

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noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

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