チェーホフに「タバコの害について」という一幕ものの戯曲がある。

登場人物は冴えない中年男一人で、奥さんに「タバコの害について」という講演をして来いといわれた男として舞台に登場してくる。

 

氏は細君に全く頭があがらない。それで奥さんが会場にいないのをいいことに、「タバコの害」ではなく、奥さんの悪口や自分の愚痴を延々と演壇で語る。が、終わり近くになって楽屋に奥さんが来ているのに気づき、あわてて「ただ今、申し上げたように、タバコにはおそろしい毒が含まれているという事情から見て、どんなことがあっても喫煙など、いたすべきではないのであります。・・」などといって講演をおえるという話である。

 

わたくしも、「酒と煙草の害について」正面から論じる気はない。

ただ、なぜ現在世界中でタバコや酒、とくにタバコがかくも嫌われるようになっているのかということについて、少し考えてみたいと思っている。

 

まずアルコール。

昨年末現役を引退するまで50年間医療の場にいたので、一応、肝臓専門医として、時に相談をうけることがあったのが、アルコール依存症の患者さんである。典型的な場合は以下のようなケース。

 

患者は男性で奥さんが病院まで引っ張って来たようである。

本人は項を垂れていてほとんど口をきかない。奥さんが一方的に話す。勝気そうで元気な奥様である。

そしてこういう。「この人はお酒さえ飲まなければ本当にいい人なのです!」 そうなのだろうなと思う。

この男性が酒を飲むのは「いい人」なので奥様に頭が上がらないからで、酒をのんでようやく奥様となんとか対抗している。

 

奥様がいう。「先生! 何とかこのひとに酒をやめるように説教して下さい!」 そんなの無理でしょ、と内心では思うが一応医者なので、「いつぐらいからこのような状態なったか? 仕事はできているか?・・」などの問診をする。

「おいしくて飲んでいるのですか?」 これに対する返答は微妙で奥さんがとなりにいては本当のことを話すわけがない。

 

多量飲酒であるから当然身体の検査にも異常があるわけで、血液検査をし、超音波検査などの予約をしてその場は帰す。

そして暫く通院しても(当然だが)状態はかわらないので、「やはり専門の先生にお願いしましょう」といってアルコール依存症専門の病院に紹介するのだが、半分は病院から拒否される。

「当院はやめる意志があるのだがそれでもやめられない方を対象にしているので、やめる意志がないかたはお受けしておりません!」

 

しかし「止める意志があるひと」についても治療成績は惨憺たるもので、アルコール依存症専門病院は、現在は若者のゲーム依存症の治療に軸足を移してきているという話もきく。しかしこの治療もまた惨憺たる成績のようである。

僅かに効果があると言われているのがアルコホーリクス・アノニマス(Alcoholics Anonymous)というアルコール症患者の自助グループで、患者同士が各々の病歴を話し合うことから時に道が開けてくることがあるらしい。

 

もう一つのアルコール依存のタイプとして、いわゆるキッチン・ドリンカーがあるが、これはまず病院にこない。

ご主人が原因は自分にあると自覚しているので内々に抱え込んでしまうようである。

 

日本はまだアルコールに寛容な国である。たとえ酒をどんなにたくさん飲んでいても仕事がなんとかまわっているうちは許容される。

しかし、一旦、仕事に支障がでてくると途端に手の平を返すように冷たくあつかわれるようになる。

 

そういう日本社会であるから、医療者の世界でもアルコール依存に近い方々も少なからずいらっしゃる。

わたくしの知っているある内視鏡医は検査にいく前に一杯ひっかけていく。「だって飲まないと手が震えるんですよ。」

その先生と酒の席に同席したことがあるが、一杯目はグラスが口に来ないで、口がグラスにいく。そうしないと手の震えが止まらないと、特に悪びれることなく本人がいう。

 

ある臨床分野ではそれなりに高名な某大学教授の机の引き出しには何本もウイスキーの瓶が入っているという噂もきいたことがある。

本人はおれの実績ではこんな地位では不満であると思っていて、それでその憂さをはらすために飲んでいるらしい。

しかし、周りはあんなにお酒をのんでいるようではこの上は無理と思っている。

 

どの組織でも、その人の能力からみて不遇だなあ、とおもわれるひとが存在している。そういう人がたまたま酒にむかうと、ひとによってはアルコール依存にまでいってしまう。

おそらく酒はどこでもそうなのかもしれないが、人間関係を円滑にするものとして日本の企業の活動でも不可欠のものとなっていて、そのため、アルコールに対してはかなり甘い対応になっている。

 

それに対して非常に厳しい対応となっているのが煙草である。

会社でも、とても環境の悪い隅っこに喫煙コーナーを設け、吸うならここで吸えということになっている。

もちろんこれは日本の社会が煙草に冷たいことの反映であり、もっといえば、世界全体が煙草に冷たいことの反映でもある。

 

わたくしも医療関係者であるから煙草が健康にいいとは思わないが、しかしそれを承知で自己責任で吸うのであれば、あれほど肩身の狭い思いをしているのはいささか理不尽ではないかと思っている。

人は自ら不健康になる権利もあるのではないか?

 

誰かがいっていたが、生きていること自体が健康に悪い。ましてや、仕事をするというのはとても体に悪い。

それを何とか乗り切るために酒も煙草も利用されてきたという側面もあるのではないか?

 

煙草は軍隊あるいは戦争には必須であるらしい(恩賜の煙草)。

オーウェルの「カタロニア賛歌」では兵隊さんは食べ物よりも煙草を欲しがっていた。

いまのウクライナの戦場ではどうなのだろう? 健康のために禁煙が推奨されているのだろうか?

しかし、戦争事体が健康に悪い。

 

アメリカの人文学者R・クラインに「煙草は崇高である」であるという本がある。(太田出版 1997)

煙草は崇高である (批評空間叢書 11)

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  • リチャード クライン,Krein,Richard,晋, 太田,健彦, 谷岡
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20年ほど前にはまだこんな本も出版できたわけである。

崇高というのは「質」の問題であり、健康というのは、あるいは長寿への志向は「量」の問題である。世界は着々と質より量の方向にむかっている。

 

現下の反=煙草の状況で生じている喫煙者いじめ的な動きからくる弊害については、反=タバコ派の方々もさすが考えているようで、そこで持ち出されてくるのが「受動喫煙」という問題である。

煙草の煙は吸っている本人以外にも周囲にいる人の健康にも悪影響をあたえるという指摘で、煙草を本人が吸っている時の高温の燃焼よりも、灰皿に置いてある煙草から出る低温燃焼の煙のほうが有害物資が多いということがいわれている。だから他人の健康のためにも煙草はやめなさい!

 

もちろん、これに対する反論も当然でてきて、大分古い本であるがトリトンという人が編集した「喫煙と社会 よりバランスのとれた評価にむけて」(平凡社 1987)には受動喫煙者が喫煙者より健康を害するという証拠はないと書かれている。

もっともこの本は「たばこ総合研究センタの全面的協力、援助をえて訳出された」のだそうである。

喫煙と社会: よりバランスのとれた評価にむけて

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  • ロバート D.トリソン
  • 平凡社
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何万組かの夫婦を集め、夫妻ともに非喫煙、夫のみ喫煙者で比較し、夫が喫煙者である方が有意に妻に肺がんが多くなるというような結果がでれば、間接喫煙の問題に決着が着くのではないかと思うのだが、そういう方向の疫学的研究はあまりみないように思う。

 

さらに反喫煙に対して煙草会社がだしてきたのが無煙煙草で、煙草の葉を温めることで燃焼という問題を回避している。

本当の?煙草吞みは「あんなもの煙草じゃない、喫えるか!」と言って両切りのピースなどを未だに粋がって吸っているようだが、多くの煙草吞みはないよりましということで(泣く泣く?)無煙煙草に移行してきているようである。

 

しかしネットをみればわかるように、紙煙草が辞められないひとはせめて電子煙草へというような記事は皆無で、紙煙草より電子煙草のほうが健康にいいなどというのは嘘の皮であって、これだけの有害物質が電子煙草でも出るという方向の論一色である。

今、世界のどの医学雑誌の査読者も「煙草にはこういう利点もある」といった論文は絶対に採用しない。

むかしどこかで喫煙は潰瘍性大腸炎を改善させるという話を聞いたことがあるが、どうなっているのだろうか?

 

煙草に比べれば俺たちはましだな、とここまで読んで思っているお酒派の方もあるかもしれないが、今、反タバコ派を牽引している世界保健機関の偉い方々は「本丸はアルコールである。アルコールという健康に悪い飲料を世界から一掃することがわれわれの最終の目的である」と公言しているのだそうである。

 

アルコールはいうまでもなくそれ自体とその代謝産物が発癌物質であるから(特にもともと顔がすぐに赤くなるなど、お酒に弱いひとが頑張って吞めるようになったかたは危険)、健康を管理する団体である世界保健機構がそれの駆逐を目指すのは当然であろう。

しかしあるイギリスの作家は「もしもアルコールというものがなければ人類はとっくに滅びていただろう」といっていた。

 

禁煙・禁酒の問題は内科医より精神科医に相談がいくことも多いわけで、この問題に関心がある方は、精神科医・中井久夫氏の「臨床瑣談 続」(みすず書房 2009)所収の「煙草との別れ、酒との別れ」「現代医学はひとつか」なども参観していただければと思う。

ここで氏は「アルコール症になる人は大真面目な人のようである」といっている。

臨床瑣談 続

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また同書の「現代医学はひとつか」では。「祈りは、人間が万能でないことを自分に言い聞かせる意味があると私は思っている。」「宗教は時間に洗われて生き残っているものほど、医者は信用を置くしか目安がない。」などということもいわれている。

また同書の「インフルエンザ雑感」は現在のコロナ流行についても示唆に富むものと思う。

酒も煙草も、十分に「時間に洗われて生き残って」来ているとわたくしは思う。

 

以上ぐだぐだと書いてきたが、何をいいたいかというと、結局、今日本で(世界でも)着々と進行している「管理社会」化ということなのだろうと思う。

例えば今いろいろなところにある喫煙指定場所をみると、煙草を吸う方々はよく我慢しているなと思う。狭いところにぎっしりと詰め込まれ、ただ黙々と吸っている。相互に話をするでもなく、ただ吸っている。

これも「そんな思いをしてまで煙草を吸うこともないでしょう。もう煙草はやめましょう」という設置者の意図に素直に従ってしまっている。

 

作る気があれば、もっと衛生的でいい環境の喫煙所も作れるはずである。そうしないのは喫煙者に対する嫌がらせである。

性的マイノリティーの権利が声高に主張される時代に、喫煙者というマイノリティーの権利もまた尊重されるべきではないだろうか?

 

そして、そういう喫煙者への差別をおかしいと思わなくさせる最大の根拠が「健康」なのである。

喫煙で自分の健康を害するのは自業自得だが、他人の健康まで害することは許せない、ということである。

そう遠くない昔に専売公社が「煙草は動くアクセサリー」などというコマーシャルを流していたのが嘘のようである。

 

医療者は医療の進歩が長寿をもたらしたと喧伝しているが、おそらくそれは嘘で、寿命の延長は、栄養の改善が最大の原因である。

戦後すぐには医療現場の最大の問題は結核を含む感染症であった。それは貧困と低栄養がもたらす病であって、もちろん結核治療薬の出現ということもあるが、基本的に戦後の復興とともに日本人の栄養状態が改善するとともにコントロールされていくようになった。(結核症は抗結核薬が臨床の場に導入される以前から減少に転じている)

 

結核が後景に退くと脳血管障害が問題になってきた。

しかしこれもさらなる高栄養化で脳血管が丈夫になると減ってゆき、(まず脳出血が減り、次いで脳梗塞が減った)、あとは基本的に老化の病気である癌が残った、もしもそれが克服されれば後に残るのは老衰である。

しかし、すべての人が老衰で死ぬ社会が理想の社会なのだろうか?

 

日本人の死因のトップは1947~1950年が結核、51~80年が脳血管障害、81~現在が悪性腫瘍である。

これを抗生物資の出現や血圧やコレステロールの薬の進歩によるものと医療業界あるいは製薬業界は宣伝しているが、はなはだ疑わしい。

 

50年前わたくしが医者になったころは、血圧やコレステロールに有効な薬はほとんどなかった。

血圧についてはカルシウム拮抗剤(1990年前後)、コレステロールについてはスタチン系の薬(これも1990年前後)が出て、ようやくそれらの薬物によるコントロールが可能になった。

 

しかし、コレステロールのコントロールについては、事後的にみて服薬が有効であったと判断されるのは、15人に一人くらいらしい。

またわたくしが医者になったころ、高血圧とは160/100以上くらいであったが、いまは「血圧が130を超えたら」とテレビのコマーシャルなどでは言っている。

 

わたくしは、酒は吞むが、煙草は喫わない。

煙草については、学生時代遊びに吸ったとはあるが、ちっとも美味いと思わなかった。

しかし、酒も最初は全然美味しいとは思わなかったのにいまだに続いている。なぜなのだろう。

 

「酒も煙草も女も知らず 百まで生きた馬鹿がいる」という都都逸があるらしい。

わたくしは清教徒的見方というのが、どうも苦手なようである。

 

白河の清きに魚もすみかねて

もとのにごりの 田沼恋しき

 

問題はお上が禁欲しろといっているわけではないのに、勝手に下々が禁欲していることで、その片棒を医療者が担いでいるのだとしたら、大きな問題である。

しかし昨年まで一緒に仕事をしていた保健師さんは仕事熱心でとても優秀な方だったが、また極めて熱心な禁煙活動家であったし、大学同期の某先生も「禁煙学会」を立ち上げて熱心に活動されている(この「学会」は公的な学会ではなく私的な学会)。

ということで何だかもう多勢に無勢なので、ここで少し書いてみた次第である。

 

そういえば、チェーホフも医者だった。44歳で結核で死んでいる。

 

 

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【登壇者紹介】

安達 裕哉(あだち・ゆうや)
ティネクト株式会社 代表取締役/ワークワンダース株式会社 代表取締役CEO
Deloitteにてコンサルティング業務に従事後、監査法人トーマツの中小企業向けコンサル部門立ち上げに参画。大阪・東京支社長を経て、2013年にティネクト株式会社を設立。
ビジネスメディア「Books&Apps」運営。2023年には生成AIコンサルティングの「ワークワンダース株式会社」も設立。
著書『頭のいい人が話す前に考えていること』(ダイヤモンド社)は累計82万部突破。2023年・2024年と2年連続で“日本一売れたビジネス書”に(トーハン/日販調べ)。
日時:
2025/7/14(月) 16:30-18:00

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(2025/6/2更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者:jmiyaza

人生最大の体験が学園紛争に遭遇したことという団塊の世代の一員。

2001年刊の野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされてブログのようなものを始め、以後、細々と続いて今日にいたる。内容はその時々に自分が何を考えていたかの備忘が中心。

ブログ:jmiyazaの日記(日々平安録2)

Photo by Gabriele Stravinskaite