もう30年前くらいの話です。

僕の父親は生前、田舎で診療所をやっていた。医者ひとりで、内科一般、整形外科など、とりあえずその地域の患者さんをなんでも診る、という仕事をしていました。

(ちなみに、もともとは整形外科医なので、高齢者が多い地域でけっこう重宝されていたらしい)

 

僕は内心、「こんな『なんでも屋』みたいな診療所を継がされたら嫌だなあ。大病院の中核とか、研究者として名を上げたい。自由にやりたい」と思っていたのですが。

結果的に、父親は僕が研修医時代に急に亡くなったので、僕がそこを継ぐことはありませんでした。

 

今から考えると、経営者として人を使う仕事を、頼まれたら断れない、外面のいい性格でやっていたのは大変だっただろうと思うし、まがりなりにも「自分の城」を持っていたのだから、けっこうたいしたものではありました。

実家を継がなければいけないなんていうのは、若い頃にはしがらみだとしか思えませんでしたが、自分が年を重ねてみると、大きな組織でハンドルを握れるほど、僕は優秀でも勤勉でもなく、賞罰なしの勤務医生活を50歳になっても続けています。

 

前置きが長くなってしまいました。

30年くらい前、父親の診療所に用事があって行ったことがあります。

こんなところで仕事をしているのだなあ、と思いながら院内を見まわしていると、待合室の新聞や雑誌が置いてある場所に『赤旗』がありました。

 

思わず、「共産党なの?」と父親に尋ねたのだが、「いや、違うよ」と。

常々、「そんなにカープが負けるのがイヤなら巨人ファンになれ、巨人ファンのほうがいつも勝っていて楽しいぞ」とか「選挙はいつも共産党に投票している。勝ち馬に乗ったって面白くないからな」とか、矛盾したことばかり言っている人だったのです。

そもそも、本人はずっとカープファンで、「カープのスポンサーだから」とビールはキリンと決めているくらいだったのに(単にキリンビールが大好きだっただけかもしれない)。

 

「『赤旗』を取ってるのは、地元の共産党の人に頼まれたからだよ。『聖教新聞』もあるぞ。朝日、読売、毎日……『週刊少年ジャンプ』とか、けっこうみんな喜ぶんだよな。お前が読んだやつもけっこう病院に持ってきているよ」

 

「でも、『赤旗』って、共産党の人が読むやつじゃないの?」

「ああ。でもここは田舎の病院だからさ。医療っていうのは、相手がどんな宗教を信じていようが、政治的な信条がどうであろうが、『それじゃ診ない』ってわけにはいかん。だから、頼まれれば『3ヵ月だけですよ』っていうことで、みんな同じように置いているよ。それこそ、『赤旗』も『聖教新聞』も。俺は全く信じていないけど、あれはダメ、これはダメ、と言うより、そうしたほうが丸く収まる。ただし、院内での宗教や政治団体への勧誘は絶対にやめてもらっている」

 

そのときの僕の率直な気持ちは「そんなの置いていると誤解されるんじゃないか」という不安と「自分で信じてもいないものをこうして置いているのは不誠実ではないか」という苛立ちが入り混じったものだったんですよ。

僕がそのときの父親の年齢に近づき、最近の悪質な新興宗教について、「政治と宗教」の話が採りあげられるたびに、このときのことを思い出すのです。

 

僕自身も、25年くらい医療の仕事をやっていて、新興宗教のパンフレットを渡してきて「集会に来てください」と言う外来患者さんや、「絶対に輸血はしないでください」という入院患者さんもみてきました。

 

現実問題として、外来の限られた時間で、「その宗教が正しいかどうか」を議論するわけにはいかないので、とりあえずそのパンフレットは預かって、あとで処分していたものです。

あと、自分の著書を持ってくる患者さんもけっこういるんですよね。僕にはもっと優先順位が高い本があるので、断り切れずにもらっても読まず、次の外来のときに感想を聞かれて困ることもありました。

 

ニュースなどで、「反社会的な、信者を洗脳して過剰なお布施や他者の勧誘を強いる新興宗教」の話をみたり、子どもたちが「二世」として苦しんできた告白を本やネットで読むたびに、僕も「そんなふうに人を幸せにしない『宗教』なんて、単なる集金マシンだろ」と思うのです。

 

その一方で、ほとんどの信者たちは、オウム真理教のようなテロリズムに向かうわけではなく、社会のなかで、(少なくとも非信者の僕からみれば)「普通」に生活しているのです。

電車に乗っている人をみても、誰が信者かなんてわからないよね。

 

僕も若い頃は、カール・マルクスの「宗教は民衆のアヘンである」なんて言葉に頷いていたのですが、年を重ねるにつれ、「それを信じることで、死への恐怖が和らいだり、日々の憂鬱が軽減されたりするのなら、それはそれでうらやましい、というか、信じられる人は幸せなのかもしれないな」なんて考えることもあるのです。

 

僕などは「どう考えても、死ぬっていうのは電気製品のコンセントが抜けるようなものなんだろうな」としか思えない。

「無」になってしまえばわからなくなるんだろうけど、この先の世界を見ることができない、というのは、想像すると怖い。

「死」に限らず、人生には、個人の「実力」や「努力」ではどうしようもない苦難や挫折が多すぎる。

 

出口治明さんという方が、『仕事に効く 教養としての「世界史」』という本のなかで、こう書いておられます。

ただ、こうして、神様や宗教が生まれたのですが、なぜそれが発展して今日まで長続きしているかと言えば、その存在が、本質的、歴史的には「貧者の阿片」だったからです。不幸な人々の心を癒す阿片です。もちろん、生きるよすがを与えたり、人を元気づけるなど宗教にはその他にも積極的な存在理由を見出すこともできますが。

農業が発達して余剰生産物ができると、支配階級と非支配階級が必ず生まれます。もちろん、大多数は貧しい非支配階級です。彼らにしてみれば、王様に収穫の大半は取られてしまって生活が苦しい。頑張ってもそんなにたやすく報われそうにない。けれども、この理不尽さを持っていくところがありません。そのときに、次のようなことを囁かれたらどうでしょうか。

「現世はいろいろな苦しみに満ちているけれど、死んだら次の世界があるよ。いま苦しんでいる人は、みんな救われるよ」

現世とあの世を分けて、あの世では救われるという宗教のロジックは、普通の人には非常にわかりやすい。納得できるロジックです。

もしも、こういう行いを積めば2年後には金持ちになれますよと言って、そのとおりになれば、それは圧倒的な力を持つ宗教になるでしょう。けれどそれは、誰にもできない。どんなに力のある宗教でも、これをやれば必ず成功する、などという教えはない。

そうすると、貧しい人を納得させようと思えば、この世はいろいろな理由があって苦しみに満ちているけれど、彼岸に行ったら楽しいことがありますよ。だから、いまは忍んで耐えて明るく暮らそうね。そう言ってごまかすのが、一番てっとり早い。

宗教は現実には救ってくれない。けれども心の癒しにはなる「貧者の阿片」なのです。いつの世も貧しい人が大多数ですから、「貧者の阿片」の需要は多い。宗教は盛んになります。

こういうのを読んで感じるのは、「宗教を『貧者の阿片』と断言できる人というのは、よほどの合理主義者か、理不尽な不幸に見舞われたり、どうしようもない状態に置かれたりしたことがない人なんだろうな」ということなんですよ。

 

大部分の人は、そんなに強くはなれない。

溺れそうになったら、藁をもつかむのが、ふつうの人じゃないですか。

新興宗教は危険で、伝統的な宗教は「まとも」なのかと考えるとき、僕は、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸著/講談社現代新書)のなかで紹介されていた、『ヨブ記』のあらすじを思い出すのです。

 

『ヨブ記』は、旧約聖書のなかでも有名な「諸書」のひとつです。

これは、「神を信じて正しく生きていた『義人』ヨブの話」なのですが……

それ(ヨブが正しく生きていること)をヤハウェ(ユダヤ教の「神」)が満足していると、サタンがやって来て、こう言います。

「ヨブがああなのは財産があるから。それに、子どもも立派だからです。それを奪ってごらんなさい。すぐに神を呪うに決まっています」。

ヤハウェはそこで、財産を奪い、子どもも全員死なせてしまった。でもヨブはまだ神を信じていた。「神は、与え、神は、奪う。神が与えるものを感謝して受け取るべきなら、苦難も同様に受け入れよう」。

そこで今度は、サタンの提案で、ヨブの健康を奪ってみた。ひどい皮膚病になり、身体を掻きむしって血だらけで、犬に傷口をなめられる。ゴミ溜めに寝ころがる、ホームレスになっちゃった。それでもヨブは、まだ神を信じていた。神とヨブの根比べです。

そこへヨブの友達が三人やってきて、いろいろ質問をする。「ヨブ、お前がこんなにひどい目にあうのは、何か原因があるにちがいない。おれたちに隠して罪を犯しただろう。早く言え」。ヨブは反論して、「私は誓って、決して神に罪を犯していない。何も隠してもいない」。すると友達は「この期に及んでまだ罪を認めないのが、いちばんの罪だ」。話は平行線で、友達もなくしてしまった。

ヨブにとっていちばん辛いのは、神が黙っていることです。ヨブが神に語りかけても、答えてくれない。ヨブは言う、「神様、あなたは私に試練を与える権利があるのかもしれませんけど、これはあんまりです。私はこんな目にあうような罪を、ひとつも犯していません」。

するととうとう、ヤハウェが口を開く。「ヨブよ、お前はわたしに論争を吹っかける気か。なにさまのつもりだ? わしはヤハウェだぞ。天地をつくったとき、お前はどこにいた? 天地をつくるのは、けっこう大変だったんだ。わしはリヴァイアサンを鉤で引っかけて、やっつけたんだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も退治した。そんな怪獣をお前は相手にできるか?」みたいなことをべらべらしゃべって、今度はヨブが黙ってしまうんです。

さて、最後にヤハウェは、ヨブをほめ、三人の友達を非難する。そして、ヨブの健康を回復してやり、死んだ子どもの代わりに、また息子や娘をさずけた。娘たちは美人で評判で、ヨブはうんと長生きをした。財産も前より増えた。めでたしめでたしです。ヤハウェも、ちょっとやりすぎたかなと反省した。

ヨブの死んだ子供はどうするんだよ、神様!

『聖書』というのを読んでみると、神は人間を幸せにしようと頑張ってくれるわけではなく、気まぐれでやりたいことをやっているだけ、のようにも感じるのです。

人間は神の意思に従う、あるいは「信じる」ことしかできない。

 

「現世利益」なんていうのは、伝統的な宗教からみれば「邪道」でしかありません。

(キリスト教でもプロテスタントには、「約束された成功」へ人々を駆り立てるような面があるのですが、もうすでにこの文章はけっこう長くなったので、興味がある人は、マックス・ウェーバーとかを読んでください。かなり難しくて、僕も理解している自信はないんですが)。

 

ここで、冒頭の話に戻るのですが、いまの日本は、「信仰の自由」と「愚行権(明らかにデメリットが大きいことでも、被害を受けるのが本人に限定される場合には、それを制限されない自由がある。たとえば周りに人がいない場所での喫煙とか)」が保たれている社会ですよね。

 

「すべての人は平等という建前で、選挙で1票ずつ持っている『民主主義社会』」では、どんなに「普通の人」たちからは異常にみえる宗教団体でも、オウムのようにテロをやって社会に挑戦する、という状況にまで至らないかぎり、強制的に排除したり、制限をしたりすることは難しいのです。

 

いやあれはさすがに異常だ、洗脳されているんだ、と思うような状況でも、本人が「好きでやっているんです」と言えば、それ以上は立ち入れない。

身内ならともかく、他者の信仰なんて、関わるとリスクは巨大で、メリットはほとんどありません。少なくとも、いまの日本では。

 

政治家だって、有権者が何を信仰していようが、一票は一票ですからね。確実に集票できる宗教団体は味方につけたいはずです。

明らかな「反社」はさすがにマズイとしても、政治家なんて、まず選挙で「当選」しなければ「ただの人」でしかない。

それこそ「集票のためなら、なりふり構ってはいられない。多少問題がありそうな宗教団体にも、少なくともわざわざ嫌われる必要はない(できれば好感を持ってもらったほうがいい)」。

 

インターネットの「くだらなくてもPV(ページビュー)が稼げる記事」にウンザリしている人は大勢いるけれど、「高尚な社会問題を扱った記事」があったとしても、誰も読んでくれない、という状況にも言えることです。

 

政治家って、炎上系YouTuberに近いところがあるのです。

とにかく票(YouTuberならPV)を集めることが最優先。悪名は無名に勝る(ただしやりすぎると強制退場のリスクあり)。

実際、それで国政選挙に当選した暴露系YouTuberもいます。僕もあの当選には驚きました。

 

「信じている宗教や政治的な信念で、差別をしない」

というのは、医療においても、政治においても大原則なのです。

それが教団内での暴力行為や教団外の他者に危害を加えるものでないかぎり。

 

独裁者が「あの宗教は気に入らん!」ということで、特定の宗教やその信者を排斥した例は、歴史上たくさんあります。ローマ帝国でのキリスト教徒の迫害や、中国での「廃仏」など。

しかしながら、「民主主義」で「信教の自由」があり、「個人の意思を尊重する」社会ならば、「弾圧」はできない。

限度があるだろう、という気持ちはわかるけれども、現状、その線引きは「暴力か外界へのテロ」にせざるをえない。

 

信じた本人だって心が弱っているとことにつけ込まれた面はあるかもしれないし、二世とかであれば「自由意志」とも言い難いとは思うけれど。

では、親の推し活やソーシャルゲームへの課金で家計が苦しくなった家の子どもも「救済」すべきなのか。

 

僕だって、自分の子どもがああいう宗教の信者になったらキツイだろうなあ、と考えずにはいられません。

学生時代に失恋からオウムを信仰するようになり、出家して行方不明になった知り合いもいます。

 

ただ、今の日本ではデータ上、新興宗教の信者は減少傾向が続いています。

皮肉なことかもしれませんが、現代人は様々な経路から情報を得ることができるようになり、集会や伝道で人と接しなくても、SNSで人とつながっています。「人が孤独なのは悪いことだ」という観念も、かなり薄れてきているように思われます。

新興宗教に惹かれるような「人生に対する悩み」よりも「経済的な生活苦」が先に立つ人も多いのです。

オウムやノストラダムスの大予言をみてきた人たちは、新興宗教を敬遠しています。

 

だからこそ、まだ残っている信者たちへの締め付けや搾取が強まっている、という面もありそうです。

身も蓋もない話をすれば、今後、選挙の候補者は宗教関係の付き合いや本人の宗教的なスタンスを全部開示するようにして、有権者が「カルト宗教と癒着している政治家には投票しない」ことが徹底されれば、そういう政治家は議会から居なくなるはずです。

 

しかしながら、それが実現可能なのかどうか、それはそれで「信教の自由」に抵触するのではないか、特定の宗教とのつながりを理由に「排除」するのは「包摂」という思想に反しているのではないか、など、けっこうややこしいところはあります。

 

そもそも、特定の宗教との癒着がわかったとしても、「あの人はいい人だから」「お世話になったことがあるから」「地元のためにがんばってくれているから」というような理由で、「例外」として投票する有権者が多いのではなかろうか。

 

正直、僕自身は特定の信仰を持たない人間なので、実感としてはよくわからないんですよ。

たぶんそれは幸せなことなのでしょうけど、何かを信じられたら、もう少しうまく生きられたのかもしれない、と思うこともあるのです。

 

父はあの世で、「まあ、田舎の開業医とか政治家って、綺麗事だけじゃやっていけないからな……」と言っているのではなかろうか。

……とか「死後の世界幻想」みたいなものを僕も捨てきれないんですよね、僕も。

社会のシステムやコンピュータの急激な進化に比べると、悲しいほど人間は変わらない。

 

 

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(2022/11/25更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

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