人脈って、何だろう。
語意としては「人と人との繋がり」らしいが、何がどう繋がっていれば有用で、仕事に生かせるのかと聞かれれば、すぐに答えが出てこない。
分かっているようで実はあやふや、でもなぜか「彼には人脈があるから」などと、能力と同列で語られたりする不思議なシロモノだ。
実務こそ正義をモットーとする筆者としては、話の中で人脈自慢をする者には、とりあえず「おっ、眉唾野郎だな」という印象を持ってしまう。
だが同時に、自分は究極のコネ社会・中国で暮らしているせいか、時として人脈が輝きを放ち、ミラクルを起こすことも理解している。
そこで最初の問いに戻ると、筆者は人脈とは「己に利用価値がある場合、仕事で生きる人の縁」と考える。
人脈の太さ細さは常ならず。
自分の持つ人脈がイザという時に頼れるか、職を移っても使えるかどうかは、あなたの主観では決まらない。
むしろ人脈のキモは、相手の目に自分がどう映るかに尽きる。
これが、自らの人脈を常日頃誇りつつ、肝心な時に全く生かせなかった悲しき「人脈おじさん」を多々見てきた筆者の持論である。
では、なぜそう思うかということについて、ここでは自身の体験ベースで語ってみたい。
利害関係なくして人脈に意味なし
現在、筆者が拠点とする中国は、コネが何よりも物を言う世界である。
何しろ政治界隈では、国家の最高尊厳サマが己のかつての部下や子分を続々と抜擢しまくり。
それを目の当たりにした人民たちは、目先が利く人ほどもはや能力うんぬんではなくコネが全ての時代到来と理解している。
そうでなくても中国社会では、普通なら煩雑な手続きが必要だったり、話が全く進まない案件でも、コネさえあればスンナリと物事が運ぶケースが珍しくない。
また、中国型組織ではタテの関係が全てであり、いかにして上の目にとまるかが己の人生を左右する。
このような世界に生きる上では人脈作りに命がけとなるのも、そこに正しさがあるかどうかはともかく合理的。
むろん、単に顔見知りくらいの縁で、こちらの人が誰かのために動いてくれるとは限らない。
コネの強さを決める上でポイントとなるのは、利害関係が成り立つかどうかだ。
例外的に幼なじみや古い友人など「義」で繋がる人脈もあるにはあるが、基本的には縁を保つことにお互いメリットを見い出せて初めて、コネは生きたものとなる。
これは裏返せば、どちらかが相手に利用価値がないと思えば、いくら古い付き合いであっても死んだ人脈となってしまう。
つまり、中国においてせっかく作った人脈を途絶えさせないためには、自分は相手に何を提供できるのか、いかなる価値があるかを絶えずアピールする必要があるということだ。
少なくとも政治とビジネス、つまり食うか食われるかの世界では、おおむねそのような原則で人は動く。
人脈が心の結び付きや信頼などといったあやふやなもので成り立っているなどと考える者は、中国においては単なる世間知らずに過ぎず、食われる側でしかないのである。
他者からの評価で人脈の価値は決まる
さて、そのようにビタ一文甘さのない中国の人間観に触れてしまった自分からすると、無意識に人脈マウントを取りたがる日本の一部おっさん社会人には、ついつい薄ら寒いものを覚えてしまう。
日本で出版社に勤めていた頃、話のフシブシで「ああ、作家の誰々なら俺よく知ってるよ」といったことをやたらと口にする上役がいた。
そこまで言うなら今すぐウチから書籍の1冊や2冊出してもらえばいいものを、そういう動きは絶対しない。
何のことはない、その人脈は「知ってるだけ」の薄っぺらいものということだ。
それに対し、サッカー日本代表やらプロ野球選手を本当の意味でよく知っている優秀な若手編集は、人脈アピールなどという無意味なことはしない。
社内の人間にすら情報を漏らさず、毎月発表される刊行予定を見てようやく、ああアイツにはこういう人脈もあったのかと知らされるのが常だった。
これは端的に言って、「相手に能力を認められているかどうか」の違いであると言っていい。
書き手だって本を出すなら担当くらい選びたいし、能力のある者と一緒に仕事をしたいもの。
同じ人脈と言っても、知ってるだけ、付き合いがあるだけにとどまるか、それともタッグを組む関係に持ち込めるか。
それを決めるのは最後は実力、腕次第の部分が大きいというのが、自分がさまざまな事例を見てきた中での思いである。
一方、仕事上の能力やスキルに関係なく、ベテランや役職持ちになると、職権の絡みで人の縁が広がっていく場合がある。
仕事ができようができまいが、人間的に好きだろうが嫌いだろうが、業務上必要ならば良好な関係を築くのが大人というもの。
たとえ顔を見るだけで反吐が出そうな相手とでも、いいお付き合いを「させていただく」。
なんなら飲みやプライベートの交流だって、「喜んでお付き合いする」。
その時点であなたは相手の人脈網に組み込まれているはずだが、こちらからすれば先方が持つ役職上の権限に用があるから、縁を持っているに過ぎないのは言わずもがな。
世の中にいる「人脈おじさん」の中には、こんな単純なことが分からない人もいる。
そんな方が勘違いをこじらせて転職したり、はたまた独立したりしたのち、頼みの人脈を生かそうとすると、どうなるか。
己が築き上げてきたはずの人の縁が砂上の楼閣であったことを知り、地獄を見るのである。
職責に伴う人脈はタダの人になれば消えてなくなる
これはかなり極端化した話だが、どだい人脈などというものをアテにして何かをやろうとする人間は、多かれ少なかれこの勘違いを持ちがちである。
もっとも、日本人は優しいので、「長い付き合いだから」などといって最初は相手にしてくれる場合がそれなりにある。
それが温情に過ぎず、そう何回も使えないものと理解しているなら話は別だが、これまた中には「どうよ、俺の人脈」と勘違いを重ね、ことあるたびに一方的なお願いばかりをする者がいる。
特に、筆者も知り合いの多いアジアビジネス界隈にはこの手の人間がやたらといて、はるか昔のうっすらとした仕事の縁を不滅の人脈と思っているのか、話に一口乗って欲しいだの名前だけでも貸してくれだの、とにかく一方通行な要求をしてきたりする。
そしてこれもまた日本人あるあるだが、うっとおしいと内心思いながらも、押しの強さに負けてそんな人のふんどしで相撲を取る輩とダラダラ付き合ってしまう方もいる。
その意味では、使いようによっては利害関係の成立しない人脈も一定程度は生きるとも言えるが、このたぐいの人が勝ち抜けた例を、自分はそう多くは知らない。
突き詰めれば、自分にとって利用価値がない相手に、利用されるいわれはない。
貸した恩を返す人間か、頼まれた分こちらの頼みも聞いてくれるのか、またそれだけの力があるのか。
そんなふうに自分が値踏みされることを理解せず、いくら人脈を広げたつもりになっても、仕事に生かせるものとはならない。
自分が他人にどう見られているかを客観視するのは、なかなかどうして難しい。
それゆえに、本気でピンチに陥った時、己の人脈がどれほど頼りになるかということも、そう簡単には判断できない。
だが、われわれには少なくとも、誰であろうと必ずできることがある。
勤めている会社、就いている役職など、自分のいるポジションに付随する人の縁を、一切頼みとしないことである。
例えば、自分が何かの拍子に丸裸で世間へ放り出された時、目の前でペコペコしている人間が手を差し伸べてくれるかどうか、考えてみるといい。
そうやって想像してみた時、人脈なるものがいかにあやふやで頼りにならないか、少なからず理解できるはずだ。
自分に価値があれば、拾ってもらえる。
そうでなければ、捨て置かれる。
極端すぎるという意見もあろうが、社会人たるものこれくらいシビアな目で人脈というものを捉えてもよいのではないか。
そうすれば、勝手に期待をして裏切られるというマヌケな事態だけは避けられるのだから。
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【プロフィール】
御堂筋あかり
スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。
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Photo by Towfiqu barbhuiya