「ドイツはどう?」
「めっちゃ楽しいよ~! 日曜日はお店全部閉まってるし、電車はしょっちゅう遅延するからちょっと不便だけど(笑)」
「え、そうなんだ~! それならわたしは住めないかも(笑)」
「慣れたらそんなに不便じゃないし、こっちも適当で許されるから楽といえば楽かなぁ」
こんな会話を楽しんでいたとき。
隣でうんうんとうなずいていたもう1人が、こう言った。
「まぁ、どの国を快適だと思うかは人それぞれだからね」
そう言われたわたしたちは、それまで盛り上がっていた会話をやめ、
「まぁそうだね」
「うん、たしかに」
と黙り込んだ。
はーあ、白けた。
いるんだよねー、話が盛り上がってるのに「まぁ人それぞれだから」と会話を終わらせる人。
その人次第なんてみんなわかっていて、そのうえでどっちがいいかっていう話をしているのにさ。
「言い合いはやめよう、人によっていろんな意見があるんだから」って仲裁者ぶって、やってるのは会話をぶち壊すだけっていう。
どんな会話でも、「人それぞれ」と言ってしまえばそこで話は終わる。
人によって正解が違うんだから話してもムダだよね、それぞれ違う意見があるもんね、なんて言われたら、それ以上会話する意味なんて一切ないもの。
いわゆる、「それを言っちゃあオシマイ」系の言葉だ。
「人それぞれ」と言って議論に水を差す人たち
わたしはコメントウォッチャーで、毎日多くのネット記事を読み、コメントをチェックしている。
自分で書いた記事はもちろん、気になった記事はエゴサもする。いろんな意見を見ること自体が好きなのだ。
コメントがたくさんあれば当然賛否両論、場合によっては批判の声のほうが大きいこともある。
それはそれで、「なぜ批判されているのか?」「なぜ批判される視点で記事が書かれたのか?」を考えれば新たな学びになる。
が、いろんな意見があって当然という前提のなかで、一番「いらねー」と思うのが、「結局は人それぞれ」「個人によってちがうってだけの話なのに騒ぎすぎ」といったコメントだ。
いやいや、みんなが意見を出し合ってこの議題について考えてるのに、水差さないでくれます? 人それぞれで議論する価値がないと思うなら、コメントしなきゃいいじゃん? そのコメントにいったいなんの価値があるの?
議論を楽しめない人は議論に参加しなくていい
例えば、「朝食はご飯とパン、どちらを食べるべきか」という記事があり、コメント欄でさまざまな議論が巻き起こったとしよう。
「自分はご飯派。パンよりよく噛んで食べるしお腹いっぱいになる。玄米なら体にもいい」
「いやいや、パンは準備が楽だから朝にぴったりだし、サンドイッチにしたら野菜も摂取できるじゃないか」
そうやって意見を出し合っているなかで、「まぁ別に好きなもの食べればいいでしょ」と言い出す人が現れる。
「そんなこと議論してなんの意味があるの? 個人の自由なのに、熱くなってダセー。結論なんて出ないんだから話すだけムダ」のように。
うん、そんなのみんなわかってるんだよ。
わかったうえで、娯楽として議論を楽しんでるんだよ。
自分の意見を言語化して、自分自身と向き合うこと。
他人の意見を聞いて、自分にはない視点を学ぶこと。
いろんな意見を総合して、自分の意見を変化させること。
そういうのが楽しいから意見を出し合っているわけで、議論を楽しめない人は、議論の場に来なくていいんだよ。
「一段上で悟っている風」だけど実際はなんの意見も出さない・持っていない人は、議論になんの利益ももたらさない。興ざめするだけなんだよな。
根拠がある「人それぞれ」と議論を無価値だとする「人それぞれ」
もちろん、議題によっては、「人それぞれ」が最適解になることもある。
例えば、リモートワーク。
「コロナ禍で広がったリモートワーク、撤回する企業が続々と……。リモートワークを続けるべきか否か?」という議題があったとする。
「自分は出社派だけど、子どもが熱を出したときにリモートできて助かった。どちらもメリット・デメリットがある」
「業種によるから一概にはいえない。リモート撤回した企業は、もともとリモートが困難だったのをコロナで無理やり成立させただけじゃないか」
このように、「どちらともいえない」という考えが一意見として成立することもある。
しかしそれは、なぜそう考えたかの根拠があり、議論続行が可能という点で、「議論に水を差すだけの人それぞれ論」とは異なる。
議論自体を否定するわけではなく、むしろ議論に参加し、別の視点を提供しているから。
一方、「リモートしたいやつがすればいいだけ。議論する意味がない」「理想の働き方はそれぞれなんだから、好きな方を選べばいいじゃん」のように、議論自体を無価値だというような意見は、何も生まない。
だから、「いらねー」と思うのだ。
空気の読めない「人それぞれ」に価値はない
「そんな話し合いをすること自体がムダ。人それぞれなんだから」
こういったスタンスは、一見賢そうに見えるかもしれない。というか、賢く見られたいがために書いているのかもしれない。
「自分はそんな低次元の言い合いに参加しないぞ。広い視野をもって、中立の立場で物事を考えているからな」と。いわば、自分は一段上から物を見ているアピールだ。
でも実際やっているのはただ議論に水を差しているだけで、頭がよさそうどころか空気が読めない人でしかない。
もちろん、どう考えるかは個人の自由だ。
「そんな議論くだらねぇ」と思うのも、本人の自由。
が、それならその「くだらねぇ」議論にわざわざ首を突っ込んで、場を白けさせる必要もないだろう。議論自体を楽しんでいる人も、たくさんいるのだから。
もし「人それぞれ」というのであれば、その後も議論が継続できるようにしっかりと根拠を添えるべきだ。それができないなら、言うべきじゃない。
そもそも議論とは「論じ合う」という意味であって、必ずしも「絶対的に正しい唯一無二の結論を出す」必要はないのだから。
まぁこういう記事を書いたら、「どうコメントするかは人それぞれ。いちいちお気持ち表明することじゃない」って書く人が現れるんだろうけどね! それがネットだから!
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【著者プロフィール】
名前:雨宮紫苑
91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&
ハロプロとアニメが好きだけど、
著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)
ブログ:『雨宮の迷走ニュース』
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Photo by :Alex Quezada