ここ数か月、色々な人と「推し」について意見交換する機会があり、そうしたなかで「そういえば、承認欲求の時代の限界や最果てとして『推し』ブームを捉えることもできるよね」みたいな考えが温まってきたので、今日はそれをまとめてみる。

 

前置き:実際は、「推し」ブームの背景はたくさんある

どうして「推し」がブームが起こったかを考えると、ブームが到来した原因や要因はあれこれ思い浮かぶ。だから、これから述べる「承認欲求の時代の限界」だけが原因とは言えない。

 

たとえば「推し」という言葉の使い勝手の良さや、SNSをとおして「推し活」をリアルタイムにシェアできるようになったことや、20世紀末~00年代にかけてオタク界隈のコンテンツとみなされていたものが市民権を獲得してきたことetc……も、「推し」をブームたらしめた要因として挙げやすい。ほかにも色々あって、たとえばコロナ禍が流行してコンテンツやエンタメの需給関係が変化したこと、なども挙げたほうがよさそうだ。

 

だから、以下の話は「推し」がブームになった要因のひとつをクローズアップした話として読んでいただきたい。

 

自分をキラキラさせなきゃいけない時代があった

で、ここからが本題。

「推し」ブームが広がっていった背景のひとつとして、私は「承認欲求に動機づけられることにみんな疲れちゃったんじゃないか」を疑っている。「自分をキラキラさせるのに疲れちゃったんじゃないの?」とも言い換えられるかもしれない。

 

承認欲求ベースで充足感を得るのも、それはそれで楽しかったり心地良かったりする。

自分らしい表現、自分らしい仕事、みんなが注目してくれるメンション・アクション・ファッション。それらをインスタグラムやFacebookやtwitterにアップロードする──2010年代は、そうした自分をキラキラさせることで心理的充足をめざす活動がきわまった時期のひとつだった。

 

2017年には「インスタ映え」が流行語大賞に選ばれている。この頃は、いわば猫も杓子もインスタ映えやSNS映えを意識していた。

インスタグラムというツールも、つぶさに見れば「推し」がブームになっていく前提条件として見逃せないのだけど、さしあたり多くのユーザーの「映える投稿」を動機づけていたのは自分(や自分のアカウント)を良く見てもらいたい欲求、そして自分がキラキラしたい欲求だった。

 

でも、誰もがキラキラできるわけがない。

まだフォロワー数が伸びる余地が大きかったあの頃、実際にキラキラを演出してみせ、インフルエンサーになりおおせた人はそれなりにいた。でも、全体から見ればほんの一握りでしかない。

インスタグラムやSNSは「キラキラした自分」という金塊を全員に配っていたわけではなかった。「あなたもこれでキラキラした自分を掘り当ててください」というツルハシを全員に配っていたのだ。

 

一部の人間がキラキラできて、そうでない大多数はそこまでキラキラできない、のみならず、「キラキラ格差」を直視しなければならない──承認欲求のゴールドラッシュに沸いた2010年代の狂騒の正体は、だいたいそんな感じではなかっただろうか。

 

そうした状況が周知されていくなか、自分自身のキラキラにリソースを費やし続け、なかなかフォロワー数も増えないのに頑張り続けるのは修行僧のようにストイックなことだったし、誰もが続けられるわけがなかった。

 

キラキラできるツルハシは、それを十分に生かせる人には福音でも、生かしきれない人には呪いたりえる。自分自身と他人のフォロワー数を比べて羨むような心性が加われば、特にそれは呪わしくなりやすい。

承認欲求が心理的充足の重要なファクターだからといって、人はそこまで自分自身にリソースを突っ込みきれないし、自分を磨いて印象づけるインプレッション機械にはなりきれない──そういうことを皆が骨身にしみて理解した時期と、「推し」や「推し活」が浮上していった時期は、タイミング的にはだいたいあっている。

 

ついでに言うと、そうした承認欲求ベースであくせくする者の哀歌である「タワマン文学」が盛り上がってきた時期もタイミング的にはだいたいあっている。

 

「自分キラキラ」の病根は深い

誤解のないよう断っておくと、自分キラキラというか、承認欲求ベースの心理的充足の根っこはかなり深く、インスタグラムやSNSよりずっと前まで遡ることができる。

むしろ、インスタグラムやSNSは、既存の承認欲求ベースの社会病理に乗っかるかたちで流行した、と考えるほうが自然だろう。

 

20世紀後半を振り返っても、そこに自分キラキラを良しとする心性を発見できる。

「新人類」の本質とは実は消費者としての主体性と商品選択能力の優位性にある。つまり、自分たちは自分で自己演出する服を選べる、といったより主体的な消費者である、というのが「新人類」の根拠であった。
大塚英志『「おたく」の精神史』

評論家の大塚英志は、『「おたく」の精神史』というオタクについての書籍のなかで、マイノリティとして軽蔑されるオタクの対照として、アーリーアダプター(そして以後のマジョリティの雛型)としての「新人類」についても解説している。その新人類を理解するキーワードが、商品選択能力、そして自己演出である。

 

では、ここでいう商品選択能力とは一体何なのか?

それは自己演出のツールとして服や車やレストランといった商品を選択できる能力、という意味だ。

インスタグラムのなかった20世紀において、自分自身をキラキラさせる手段は自分自身の着るもの・食べるもの・消費するものを選ぶこと、その選択をとおして自己演出をやってのけることだった。

 

田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』で偏執的に記されている、タワマン文学のご先祖様のような光景と心性は、はじめは首都圏の富裕な子女のものでしかなかったが、90年代には地方の津々浦々にまで広がり、最終的には田舎の高校生までもがブランド品を身に付ける社会状況を生み出した。

 

自分でお金を稼ぐ。自分で商品を選ぶ。自己演出をとおしてキラキラした自分になる──それは福音だったろうか、それとも呪いだったのだろうか?

大塚英志は、オタクたちはそうではなく、自分の好きなものにお金や情熱を傾けていた、といったことを記している。

 

新人類とその追従者たちがマジョリティとなった自分キラキラの20世紀末にあって、自分キラキラにリソースを費やさず、自分の好きなキャラクターやアイドルにリソースをなげうつオタクたちは異端であり、理解しがたい存在だった。

当時、オタクが激しくバッシングされていた理由は多岐にわたるが、その一部は、オタクたちが新人類的な自分キラキラの規範から逸脱していたことによると私は想像する。

 

なお、この話をさかのぼっていくと20世紀後半の日本ではケリがつかなくなって、しまいには個人主義の誕生や宗教改革の話にたどり着いてしまうので、そこは割愛させていただくことにする。

 

とにかく、ここで言いたいのは「インスタグラムやSNSが登場する前から、自分キラキラを求める心性は存在していて、しかもそれがユースカルチャーのなかではマジョリティだった」ということだ。

自分キラキラに背を向け、アニメや漫画や鉄道やアイドルに夢中になっているオタクたちは一方的に異端者とみなされ、ダサいとみなされたのだった。

 

だけどオタクたちはずっと「推し」や「萌え」をやっていた

そんな時代にあっても、オタクたちは、自分キラキラに重きを置かず、自分が好きなキャラクターや人物をしゃにむに追いかけ続けていた。

今でいう「推し」や「推し活」に相当する活動を、女性側のオタクも男性側のオタクもそれぞれ熱心にやっていた。そうした営みは現在も続いている。少なくとも各界隈、各ジャンルの中核をなしているのはそのようなオタクたちだ。

 

オタクにだって多かれ少なかれ承認欲求はあっただろうし、その兆候を読み取ることは不可能ではない。だからといって、オタクたちが自分自身をキラキラさせるための自己演出に力を注いでいたとは思えない。

 

自分のジャンルを深堀りする・キャラクターを愛する・「〇〇はわしが育てた」などと思いながらコンテンツにお金や時間や情熱を突っ込んでいく、等々は自分キラキラベースではない。個人主義と承認欲求の時代が猖獗をきわめていた時代にあってもなお、そうでないかたちで心をみたし、楽しみを享受していたのがオタクたちだった。

 

00年代後半~10年代にかけて、そのオタクたちが愛し、育てたジャンルやコンテンツは次第に市民権を獲得し、ユースカルチャーの片隅からユースカルチャーの真ん中へと移動していった。

 

オタク的なコンテンツだけでなく、オタク的な心性やライフスタイルまでもがマイノリティからマジョリティへと変わっていくなかで、「オタクが薄くなった」「オタクが出がらしになった」等々、色々なことが言われた。それらの指摘にも、納得できる部分はある。

 

でも私は、それだけでもなかったんじゃないか、とも思う。マジョリティから軽蔑されながらもオタクたちが大切に育んできた、「誰かを推したり愛したり、キャラクターやタレントに夢を仮託したりする」心性やライフスタイルは、案外ちゃんと伝播したのではないだろうか。

 

オタク的な心性やライフスタイル、特に自分自身をキラキラさせることを至上命題にせず、自分の好きなものにリソースを差し向ける心性やライフスタイルは、自分キラキラに疲れ果ててしまった社会において実は大切なことではなかっただろうか。

 

その大切なことが、オタクがマイノリティからマジョリティに変わっていくなかで伝播し、そのおかげもあって「推し」という行為と言説がこんなに広がったんじゃないかなーと私は考えたりする。

 

結語

カジュアルに「推し」という言葉が広がっていくことには功罪あるだろうし、かつて「萌え」や「オタク」が通ったように、「推し」もまた言葉ごと消費され、やがて出がらしになっていくのだろう。

 

だとしても、自分キラキラが加速し尽くし、承認欲求ベースの欲求充足に傾き過ぎた社会に「推し」ブームが起こったことにはなんらかの必然性があるだろうし、「推し」が担っているニーズは鼻で笑うべきではないとも思う。

 

誰もが四六時中、自分キラキラを追求しなければならない社会は、ほとんどの人にはディストピアだ。

誰もが自分の夢を追いかけなければならないのも同様である「推し活」はそうではない。そうではないから、生粋のオタク以外にも刺さっているんじゃないだろうか。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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