「期待値を考えればパチンコは絶対に損をする」
「それなのにパチンコなんてやってる連中は頭が悪いとしか思えない」
かつてこんな感じの言説をよく聞いた。
それを聞いて僕は「確かに」と思う一方、この手の言葉がパチンコをやっている人達に「こいつはなんもわかっちゃいねぇ」という風に全く刺さっていないようにも見えた。
「パチンコにハマる奴はただの馬鹿と切って捨ててしまうのは物事の本質をみていないのではないか?」
そもそも人間は数円単位でケチをする生き物であり、少額でも損をしたら物凄く落ち込む生き物である。
そんな損が大嫌いな人間が、果たして絶対に損をするとわかっている行為にこんなにも夢中になるのだろうか…
その長年の疑問に最近ようやく回答が得られた。
そして冒頭の期待値云々の話は完全に誤りであった事を理解したので、今日はその話をしよう。
スロットマシンで超簡単に”ゾーン”に入れる
「デザインされたギャンブル依存症」という本に出てくるエピソードを紹介しよう。
以下はニューヨーク大学准教授ナターシャ・ダウ・シュールが実際にラスベガスにてスロットマシンにドハマリしている人にインタビューしたものである。
これを読むと多くの人は衝撃をうけるはずだ。
「スロットマシーンで大勝したかったのか」と聞くと、彼女は短い笑い声をあげ、片手を振って否定した。
「初めのころは勝とうっていう意気込みがあったけど、賭けつづけていくうちに自分にどの程度勝算があるかぐらいはわかるようになったわ」
「ただ、それがわかっていてもやめることができなくなっていました。今では勝ったら勝っただけ、そのままマシンにつっこみます」
「人からは理解されないんですが、私は勝とうとしてスロットマシンをプレイしてるんじゃないんですよ。プレイしつづけるため…ほかの一切がどうでもよくなるハマった状態、”ゾーン”に居続けるためにスロットマシーンをプレイするのです」
これはこの本の冒頭場面だが、僕はこれを読んでぶったまげてしまった。
それまではゾーンというと、将棋やスポーツといった崇高な活動を通じる事のみで入れる深い集中の事で、とても神聖で高貴なものだと思っていた。
だが、世の中にはそんな事をしなくてもゾーンに入る方法があったのである。スロットマシーンにコインを入れてリールを回すだけ。この作業を繰り返すだけで人間はゾーンに入り込めるのである。
現代ギャンブルはハラハラ・ドキドキではなくゾーンを提供している
かつてはギャンブルというと、一点に大きく賭けてダイスを振ったり、当たれと念じてカードをめくったりといったハラハラ・ドキドキを楽しむものだった。
このようなアドレナリンがどっと駆け巡る血湧き肉躍るようなホットなもの。
それが多くの人が思うカジノにおけるギャンブルの像ではないだろうか?
ところが、現代のギャンブルではそういう熱狂的なものは既に時代遅れなモノだそうだ。
淡々と目の前のマシンに没頭し、ひたすら回転を続けるリールが生み出すなめらかな無感覚状態に没頭し、ただひたすらクールに”ゾーン”に入り続けるもの。これが現代カジノのメインストリームだというのである。
先の本はアメリカの研究事例なので日本とは少々事情が異なるが、日本でもこれと全く同じ現象がおきている。そう、パチンコである。
パチンコ屋で淡々と過ごしている人達は、ある意味では現代ギャンブルにおける最先端ランナーである。彼らは傍からみる分には黙々としているだけだが、その実はチベットの修行僧もビックリな程に深い深い集中状態に入り込んでいたのである。
ゾーンは人をひきつけて、そこにくっつけてしまう
かつてのギャンブルはお金を欲しがる人の為のものだった。
しかし現代におけるマシンギャンブルが提供するものはお金ではない。”無”だ。ゾーンに入り込む事で人は「ほかの一切がどうでもよくなる」状態に居続ける事が可能となり、それがある種の人達にはお金以上に求められているのである。
「マシンを一度まわせば…没頭して、トランス状態が永続する」
「すると主観が停止して感情が落ち着く。それはまるで…世界が溶けて消えていくような感覚」
「この感覚に入り込める。それだけで十分報われるんだ」
ある者はマシンギャンブルにハマる理由を尋ねられこう述べたという。
こう聞けば冒頭の期待値のロジックがとんでもなくずれている事に誰だって気がつくだろう。
誰もお金なんて目的にしていなかったのだ。皆が欲していたのは深い深い集中状態で、それにスゥッと入る為にお金を湯水の如くぶちこんでいたのである。
隣で人が倒れても、全く助けようとも思わない
何かに深く集中しすぎて、周りのものが目に入らないような状態というのがある。
一般的にはこれは美談として語られる事の多いもののように思うが、カジノではこの現象が驚くような形で起きている。
既に述べた通り、カジノではにゾーンに釘付けになってスロットマシンに延々と興じ続ける人がたくさんいる。
何も飲み食いせずにあまりにも長時間プレイに没頭する人も多数いるからか、中には心臓発作を起こして倒れる人もいるのだという。
この心臓発作が起きた場面の描写が実に凄い。カジノに置かれたビデオを分析すると、多くの人は意識不明の人間が自分の足元に倒れ込んだとしても、そのままギャンブルに興じ続けるのだという。
なぜか?言うまでもなくそれは彼らが真に深い”ゾーン”に入り込んでいて、深く深く集中しているからだ。
多くの人はせっかく入れたその深く集中した気持ちの良い状況から抜け出す事をひどく嫌がり、隣の人が命の危機に瀕していようが”ゾーン”から抜け出る事を選ばないのである。
こういう風に聞くとゾーンの末恐ろしさのようなものを感じてしまわないだろうか?
現代社会において”何かに没頭して深く集中する事”は称賛されるべき事となっているけれど、本当にそれはよい事なのか…改めていろいろ考えさせられてしまう。
マシンに没頭していれば、嫌なことでも全てが忘れられる
かつて生活保護をうけている人が昼からパチンコをしている事に憤る言説を目にした事があった。
僕も当時はこれを聞いて微妙な気持ちになったように思うのだが、この本を読んでその認識はかなり改められた。
南カリフォルニアのボウリングチャンピオンだった男の話だ。
彼は以前は悩みがあったらボウリングのレーンに向かってゲームに集中したり、友人たちとしゃべったりして気を紛らわせていたという。
それが今では悩み事があるとカジノに来るのだという。
うまくいかない人間関係。
それにより生じるどうしようもない孤独感。
そして薬物依存。
これらの大人になって直面するようになった己の厳しい現実を、スロットをプレイする事で一切合切忘れられるのだというのである。
人生がうまくいっていた頃は、ボウリングや友人といった”社会的によいとされる対象”を通じて何かに夢中になり、嫌な現実から目を一時的に離すことができた。
それが大人になって、そういう”社会的によいとされる対象”が手の中から離れた人に残った気晴らしの対象は、お金を入れれば絶対に動くスロットマシンしかなかったのである。ギャンブルが生み出す”ゾーン”は弱い人の為の心の鎮痛薬だったのだ。
彼はスロットマシンについてこう語る。
「 いわば俺にとってマシンは恋人であり、友人であり、デートの相手ともいえる」
「だけど本当はそんなもんじゃない。 掃除機だよ。俺から人生を吸い込む、 人生から俺を吸い込むものなんだ」
夢中になれる事は何よりも尊いことではあるのだが
何かに夢中になれるというのは大変に尊い事だ。
自分自身も、趣味や仕事といったものに時を忘れて没頭していると
「やっぱし世の中お金じゃないよなぁ」
なんて事を考えてしまうのだけど、改めて考えてみるとポリコレ作法に則って誰からも後ろ指をさされずに”ゾーン” に入り込めるのは特殊な特権階級に位置する人だけだろう。
どんな勝ち組に位置する人であろうが、退屈というのは耐えがたい程に苦痛なものである。
じゃあ負け組の人の退屈は…もう言うまでもないだろう。少なくともそれ以上に苦しいものである事だけは間違いない。
少なくとも生活保護をうけている人が昼からパチンコにいっているのを仮に目にしたとして、それを「ふざけるな」と怒るのは色々な意味で物凄く筋違いな怒りだという事だけは間違いない。
その行為を笑顔でニコニコ許容しなくてはいけないとまでは言わないが、難しい感情に囚われるぐらいには多角的な思慮をしたいものである。
いやはや、世の中は本当に難しい。誰もが尊敬される形でゾーンに入れるような社会が、くればいいんですけどねぇ…。
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【著者プロフィール】
都内で勤務医としてまったり生活中。
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