概要

国の大事な決定、たとえば立法は、民主的に選ばれた国民の代表が国会で決めることになっている。

ところが世の中には民主主義や国会をとおさず、官僚や専門家が大事なことを決めていることもあったりする。たとえば医療の分野では、厚労省の官僚や医療の専門家が現場を左右することを決めていたりする。

 

彼らの決定も必要だ。現代社会には専門的知識が必要な分野が無数にあり、なにもかも国会で取り扱うわけにはいかないからだ。それに法改訂には小回りがきかないという問題点もある。

 

じゃあ、そういうことを官僚や専門家にお任せし過ぎてしまったらどうなるだろう?

たとえば人の生死に直結する事柄が民主主義や国会を介さず、官僚や専門家によって決められていくとしたら……。

 

もし、診療報酬改定によって「看取り」が義務になったら

今は消えてしまって読めなくなっているが、先日、インターネットの医療系アカウントとしては古株のある人が、以下のようなことをポストしていた。

老人ホームはどこも人手不足で、将来的にはもっと人手が足りなくなる。
そうなると老人ホームは組織的にサービスの削減をせざるを得なくなり、「介護に手がかかる人・看取りの人は病院へ」という流れができるように思える。
次の診療報酬改定あたりで、今度は「病院あたり年間看取り義務件数」が設定されて、未達成の病院には減算もありそうな気がする。

看取りの件数が少ない病院に、診療報酬の減算ペナルティがつく未来。これを読んだ私は「次の診療報酬改定ではこうならないとしても、未来の診療報酬改定ではあり得るかもしれないな」と思った。

 

医療関係者なら、これがどぎつい未来予想だとすぐに読み取れるだろう。

目のつけどころは、なんといっても「看取り義務件数」だ。上掲のポストは、「老人ホームはこれから人手不足になる」→「病院で患者さんを看取ることが義務になっていく」と予測しているのだ。

 

「看取りが義務になる」と書くぶんには、へえ、それがどうしたの? と楽観的に思えるかもしれない。

看取る、というフレーズには優しささえ感じられる。

 

しかし「看取りが義務になる」を「病院では年間に必ず一定数の患者さんに死んでもらわなければならない」と意訳したらどうだろう? この場合、病院では患者さんに死んでもらわないと困ってしまうから、数合わせ的に患者さんに死んでいただくか、それを避けるために、もうじき死にそうな患者さんを探して連れて来なければならないってことなのである。

 

「看取りが義務」と並んで重要なキーワードが「診療報酬改定」である。

診療報酬改定は、厚労省に授けられた魔法のステッキである。もちろん、この魔法のステッキは法律を遵守するかたちでしか使用できない。しかし法律を遵守する範囲内でなら、日本の医療現場の風景を変えてしまう、すごいステッキなのである。

 

たとえば過去には、高価な点滴製剤を大量に患者さんにどんどん注ぎ込んで金儲けする病院の、そういった金儲けスキームが診療報酬改定でやっつけられた。患者さんをやたらと長期入院させる精神科病院も、この診療報酬改定をとおして経営しづらくなっている。

 

逆に、この診療報酬改定をとおして新しい治療や将来必要になりそうな医療が普及していくこともある。たとえば在宅酸素療法や訪問診療は、厚労省がそうあれと魔法のステッキをふるった結果、たちまち普及していった。精神医療の領域では認知行動療法がそれにあたる。

 

ここまでお読みいただいた人なら想像できるだろうが、診療報酬改定がこのように医療界の魔法のステッキたりえるのは、診療報酬という、病院や施設の経営にとってクリティカルなルールをいじっているからだ。

経営破綻したくなければ診療報酬改定に従うべきだし、これから開業医として大成功したい医師も診療報酬改定の現在とこれからについてよく学んでおかなければならない。

 

さて、冒頭の投稿に戻ろう。

もし厚労省が未来の診療報酬改定で「病院に看取りの義務件数を課す」と決定したら何が起こるだろう? これも病院や施設の経営にとってクリティカルなルールになるから、病院経営者は無視できない。診療報酬改定を無視すると、ときに病院や施設は数千万円単位、場合によっては億単位の減算ペナルティを食らってしまう。診療報酬改定という魔法のステッキは、すべての病院や施設に紐付けられた財布の紐でもあるのだ。これに逆らうなんてとんでもない!

 

そうなれば、看取りになりそうな瀕死の患者さんの争奪戦だ。厚労省はこれまで自宅での死を推進してきたけれども、「病院に看取りの義務件数を課す」診療報酬改定が起こったら、そんなものは吹き飛ぶだろう。

瀕死の患者さんの争奪戦で済むうちはまだいい。もし、看取りの「ノルマ」が達成できそうにない場合はどうなるだろうか?

 

いっそ患者さんを殺してしまう? さすがにそこまではやらないだろう。

けれども病院経営者の患者さんを見る目は間違いなく変わるし、それは病院スタッフ全体の雰囲気をも変える。そして病院での患者さんの死は忌むべきものではなく、積極的に看取るものになるだろう。

 

だけどこれは、政治じゃない

ここまで読み、「厚労省は、診療報酬改定という魔法のステッキを振り回す悪の組織!」と早とちりする人もいるかもしれないが、実際の厚労省はまったく悪の組織ではない。さまざまな決定に際しては各方面の専門家や有識者を招いて意見を集めているし、法改訂が必要な事柄については、その準備に莫大な労力を投入することもいとわない。「世間知らずのお役人と専門家が行政を壟断(ろうだん)している」的なイメージは、持つべきではないと私は思う。

 

とはいえだ。

これって政治じゃないですよね? 統治ではあるかもしれないけれども。

また、民主的というよりエリート寡頭制的かもしれない。

 

さきに書いたように、現代社会は専門分化が進んでいるから、各省庁で行われているすべての決定を国会や国民に委ねるのは不可能だ。だから些末な決定については行政や専門家が(診療報酬改定のようなかたちで)決めればいいのだと思う。

とりわけ、それが有識者会議なども踏まえてよく練られたものなら、私たちは行政や専門家を信用していいはずである。

 

けれども人の命を左右する決定や人生の自己決定に関連したことまで、行政や専門家にまかせっきりで本当にいいのだろうか。

 

行政や専門家におまかせの問題点はいろいろある。

ひとつは、有識者会議を開くとはいっても、それは「出来レース」になってしまいやしないか。「御用学者」という言葉もあるが、そのようなことが起こってしまいやしないか心配である。

私は医療に携わっているから厚労省がどれぐらい「出来レース」をやっているのか判断できないが、他の省庁に関しては、有識者会議といいつつも、おいおい、それって出来レースじゃないんですか、と疑ってしまう場面もあるし、以前、居酒屋で公務員らしき人々が「行政と出来レースの話」で盛り上がっているのを聞いたこともある。

 

もうひとつは、それが技術の問題であって政治の問題ではないとみなされること。

診療報酬改定も含めた省庁レベルの決定は、さきに書いたように政治ではない。少なくとも立法府をとおして有権者が議論する、というフォーマルな政治の回路は経由していない。たとえば病院の運営形態や雰囲気を一変させるかもしれない決定は、人の命のありようや、ひょっとしたら人の命の値段まで左右するインパクトを持っていそうだけど、省庁レベルの決定は政治の立ち入る余地をショートカットし、専門家の領域、そして専門技術の領域へと矮小化してしまう。

 

もちろん実際には矮小化というほど深刻ではないことが多かろう。

政治家は省庁の動向をよく勉強するし、世論やマスコミが省庁の動向に目を光らせている部分もある。だとしても、政治家や世論やマスコミが騒がない決定に関しては官僚と専門家が采配を振るうことになるし、その問題は政治家の問題ではなくテクノクラートの問題となる。

 

このように政治や政治家の問題たりえるものがテクノロジーとテクノクラートの問題に置き換えられてしまう現象は、「脱政治化」と呼ばれる。医療に限らず、教育や法曹など、さまざまな領域で脱政治化が起こり得る。「医療の世界ではこれが常識」「教育の世界ではこれが当たり前」「警察の世界ではこれが必要」と言い切られてしまえば、素人はなかなか反論しにくいものだ。だが、いったいどこまでテクノロジーとテクノクラートの「当たり前」を受け入れるべきなのか、どこから立法府や国民が議論すべきなのかは、本当は曖昧だ。

 

先日のコロナ禍でも、コロナ禍対策はどこまで政治家や国民が決定すべきで、どこから官僚や専門家が決定すべきか、考えさせられた人も多かったはずである。コロナ禍に際しては、官僚や専門家に委ねる必要性を(ある程度まで)認めた人は多かろう。だがそれだけでなく、なにもかも官僚や専門家に委ねるほど「脱政治化」が起こったらおかしなことになるのではないか、と心配になった人も多かったのではないだろうか。

 

「脱政治化」が起こりまくった領域では、官僚や専門家がもっともっと采配を振るうことになるだろう。そして専門分化が進んだ現代社会では、本当はそういうことがあちこちで起こっていてもおかしくないのである。

 

ある程度はしようがない

少子高齢化が進み、人手がどんどん足りなくなっていくなか、行政サービスや福祉サービスのスリム化が図られ、看取りの位置づけや病院の姿勢が変わっていく可能性は、実際問題あると私は思う。その時、看取りという問題をどこまで「脱政治化」していいものだろうか。

 

私は、あまりにも脱政治化してはいけないと思う。官僚や専門家がテクノクラートの立場から決定したり、その手前の提言を行ったりするのは、それ自体悪いことではない。けれどもあまりにも脱政治化してしまって、政治も国民の声も届かないなかで色々なことが決まってしまったら、そのとき看取りの問題は国民の意識のとどかないところでドシドシ変わっていってしまうだろう。

 

なかには目端の利く政治家やジャーナリストもいて、そうしたテクノクラートの決定や提言に目を光らせ、政治問題としてピックアップしてくれるかもしれない。が、それだけで本当に大丈夫なのかはよくわからない。

では私たちはどうすればいいのかといったら、やはり、関心を持つことだろうと思う。看取りや生死の決定についてテクノクラートにすべてをお任せするのでなく、自分たちが本来は当事者であり責任を負うべき者であることを思い出し、たとえば診療報酬改定がこれからどんな風に変わっていくのか、官僚や専門家が今、何を考え、何をしなければならないと考えているのか、多少なりとも知っていくことが必要なのだろう。

 

そして看取りも含め、自分たちの生死は自分たちが決めるもので、脱政治化しすぎてはいけないことを折に触れて思い出すべきなのだろうと思う。

 

ただ、断っておかなければならないことがある。それは、官僚や専門家が決めることが国会や国民が決めることに比べて冷酷だとは限らないことだ。

 

むしろ、国会や国民こそが冷酷な決定を望み、官僚や専門家がそれにブレーキをかけたがるけれども押し切られる、なんてことがこれから起こるかもしれない。

民主的な手続きを経て決まったことのほうが、テクノクラートの決定よりもよほど残酷で、国民自身を苛むものである可能性はぜんぜんある。脱政治化されていたイシューを政治や国民に差し戻した結果、衆愚政治のお手本のようなことが起こることだってあるかもしれない。

 

けれども、民主主義の国に生まれた者として私は思う。

国会や国民の決定が愚かしいことになったとしても、民主的なプロセスでそれが決定されるなら、テクノクラートがエリート寡頭制的に決めるよりもよほど「正しい」のではないだろうか。

 

手続きが正しくて、国が亡ぶ、ということは起こり得るかもしれない。だとしても日本が民主主義の国である以上、手続きがおかしい善政より手続きが正しい悪政を私たちはマシだと思うべきで、その逆はあってはならないのである。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo:engin akyurt