最近、ある人と「中年危機」の話をする機会があった。
「最近、中年危機の話をよく見かけますね」
「phaさんの『パーティーが終わって、中年が始まる』がヒットした影響じゃないですか」
「まあでも、年の取り方については割り切ったつもりでも、なかなか割り切れないですね」
個人のレベルでは、年の取り方をスムーズにし、中年危機を回避する方法は色々と思いつく。
けれども社会全体の話として考える場合、私たちの世代には私たちの世代ならではの年の取り方の難しいポイントもある。そうしたことについて、この文章では指摘してみたい。
ロールモデル不在のなかでどうエイジングしていくか
現代日本の・私たちの世代ならではのエイジングの問題点、ひいては中年危機への対策の話として意外に馬鹿にならない盲点は、
《ロールモデルの不在》
だと私は考えている。
中年危機という言葉が生み出されたのは日本ではなく、アメリカだ。まず、そのアメリカの比較において、日本はアメリカと同列には論じきれない問題を抱えていた。
戦前世代の価値観を体現していた人々は、戦後世代が新しい価値観をインストールする際のロールモデルではなくなりました。旧来的な価値観は天皇制ごと否定され、GHQの推奨した民主主義と、エルビス・プレスリーのような舶来文化が新しい理想とみなされました。
(『「若作りうつ」社会』)
日本では、太平洋戦争とその敗北によって、それ以前の大人のロールモデルが否定されることになった。
アメリカの場合はそれが起こっていないから、戦後世代にとって戦前世代はロールモデルとしてそこまで忌避されるものではなく、戦後ベビーブーム世代もある程度までは戦前世代の年の取り方をある程度までロールモデルにすることができた。
ところが団塊世代以降の日本人には、戦前世代の大人たち、ひいては戦前までの年の取り方のありようはロールモデルとして棄却されてしまったのである。
そうしたロールモデルの不在を突くように流入し、はびこったのは、舶来のユースカルチャーだ。
エルビス・プレスリーやビートルズなどはその一例だろう。戦後世代は戦前世代を年の取り方のロールモデルとしない一方、舶来のユースカルチャーをロールモデルにした。
団塊世代が若かった頃は、それでも良かったのかもしれない。ユースカルチャーは若者が模倣するには心地良いものであり、きっとそれは民主主義のにおいがした。
だが、エルビス・プレスリーやビートルズが運んできたのは思春期~青年期のロールモデルでしかなく、中年~壮年~高齢者のロールモデルまでもが併せて流入したとは言い難い。
結果、何が起こったか。
団塊世代たちは中年~壮年~高齢者といったロールモデルなき加齢を、ひいてはいつまでもユースカルチャー気分を引きずったままの加齢に傾いた。一回り若い世代である1950~60年代生まれの人々も基本的にはそうだ。
何歳になってもユースカルチャーを引っ張ったまま暮らすことが常態化し、本物の若者に比べれば劣化していても若者に似せた容姿やライフスタイルを繕う「美魔女」や「ちょい悪オヤジ」といったキャッチコピーが00年代には流行した。こうした流行に前後し、「友達親子」といった、年の差をうまく認識できない家族像がクローズアップされたこともある。
00年代の頃の私は、こうした「美魔女」や「ちょい悪オヤジ」の時代をつくりあげてきた年上世代とその旗手たちに対し、「社会的加齢に対する怠惰な態度」とみていたが、歴史的経緯を考えるうちに、それも仕方のないことだと思うようになった。
だが、私たちの世代にはリソースがない
だが、仕方がないで済まないのは私たちの世代である。
今更、戦前世代をロールモデルにした年の取り方が時代錯誤なのは言うまでもない。それは家父長的で、男尊女卑的で、自由を尊重する社会に似つかわしくないものである。
それなら、団塊世代やその少し後の世代をロールモデルとし、ユースカルチャー気分を引っ張り続けたまま生き続ければいいだろうか?
実は、これも難しい。より正確には「たっぷりとお金と暇を持っていればできるかもしれないが、そうでない人には難しいし、きっとロールモデルたり得ない」となる。
就職氷河期世代は年上世代のように「美魔女」や「ちょい悪オヤジ」を気取ることはできない。なぜならお金がないのに加えて、「貧乏暇なし」ゆえに暇もないからだ。
もし、私たちにもお金と暇があったなら、コスメティックやエステティックやファッションを介して「美魔女」や「ちょい悪オヤジ」的なものを目指すことも可能かもしれない。だが、そのようなお金と暇を持っている中年は、私たちの世代において少数である。そこに、タイパやコスパに神経質な風潮が拍車をかける。
だからだろう、00年代あたりまでは盛んだった「中年の若作り」を持て囃す風潮は後退した。今、大枚をはたいて若者のライフスタイルにしがみつくアラフォーやアラフィフやアラ還がいたとして、それを好ましい年の取り方とみてくれる人はたぶんあまりいない。
こうしたことから、氷河期世代やそれ以降の世代は、ちょっと上の世代を年の取り方のロールモデルも頼りにできない。自分たちの世代の年の取り方、自分たちの中年像や老年増をこれから・みずからの手で模索していかなければならない。
なおかつ、その模索は金銭的・時間的に差し迫った状況のなかで行っていかなければならないと思われるのである。。
「いつの時代にもあった問題」とどこまで言い切れるか
このように書くと、「それは他の時代・他の世代にもあった問題だ」と述べる人がいるだろう。ある程度はそのとおりだと思う。たとえばちょっと上の世代がユースカルチャーにしがみついたのも、敗戦をとおして戦前世代がロールモデルとしていきなり失効したためだ。
こうした「先行世代がロールモデルとしていきなり失効する事態」は、他の時代の変わり目にも起こった可能性が高い。
そして個人レベルに目線をおろせば、近しい場所に好ましい年上を見つけ、その人をロールモデルとしてつつがなく年の取り方を進めている人は今も昔もそれなりに存在するだろう。
とはいえ、社会的加齢を積み重ねていくにあたって年上を参照しやすかった程度や難易度が時代によってまちまちなのもまた事実だ。
さきほど書いたように、アメリカの場合、日本に比べれば戦前世代~戦後世代にそこまで大きなロールモデルの断絶は起こらなかった。日本においても、たとえば江戸期の比較的治世が安定した時期にはロールモデルの変化が比較的穏やかで、先行世代の年の取り方を模倣しやすい一時代があっただろう。
それこそ縄文時代あたりまで遡れば、テクノロジーの進歩やライフスタイルの変化はもっと緩やかになり、年上の生き方と年下のライフスタイルがほとんど変わらず、そのままコピーできた一時代もあったに違いない。
もちろん、「だから昔のほうが良かった」などと言うつもりはない。縄文時代は今日よりも生きていくのがずっと過酷だっただろうし、江戸時代にしても、家父長制的で男尊女卑的な社会から逃れようがなかっただろうから、いくら年上世代の年の取り方がロールモデルとして参照しやすいと言っても生きづらい時代だったのは想像できることだ。
今日はその正反対で、生存条件が緩和され、自由なライフスタイルが選べる良い社会になった。そのかわり、テクノロジーの進歩が著しく、誰も年の取り方について教えてもくれないし強制しようともしないから、めいめいが自分の力で年の取り方について考えなければならず、そこを無視してノホホンと過ごしていると、ある日自分の社会的加齢や身体的加齢に愕然とすることになる。
私たちの世代の場合、それはロールモデルがはっきりしないなか、お金や暇の余裕のないなかで進めていかなければならないわけだから、なかなか大変である。
「年を取る」とは、個人的なことであると同時に社会的なこと
それから、私たちの世代の挙動は、年下世代によって逐一観察されている。
かつて、団塊世代やその少し下の世代は、「自分たちの年の取り方が、年下世代からどのように見られているのか」に鈍感だったように思う。まるで、世代の違いや年の取り方についてこれっぽっちも考えなくて構わないかのような振る舞いに私は納得しがたいものを感じていた。
一人ひとりの生き方は、今日までもこれからも自由ではある。だが、私たちの年の取り方、ひいては一人ひとりの年の取り方というのは、個人的なことであると同時に社会的なことでもある。
私が、私たちだけがスタンドアロンに年を取っているわけではない。そのことを思えば、本来「年下世代なんて存在しない、私たちはいつまでも若者だ」といった風情の年の取り方はどこかおかしかった。そのおかしかったところを、お金も暇も乏しいなかで私たちは見つめ直し、21世紀ならではの年の取り方について答えを探していかなければならないのだろう。
お金や暇が乏しく、年下からの厳しい目線が集まるなかで、どう年を取っていくのか。中年や老年の境遇にどんな希望を見出していくのか。そうしたことが、個々人にも、世代全体にも、問われているのだと思う。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo:engin akyurt