「文化資本」のことを棚上げにして、田舎=心が豊か、というのは、あまりにも短絡的だ。
自然に触れて、のびのび育つことができる、とは言うけれど、田舎の子どもたちは、学校の統廃合で通学に時間がかかるためにバス通学になって、自然に触れる時間が増えているわけではないそうです。
いくら自然に触れていても、それを「表現する能力」がないと、いまの社会では評価されないのではないか、と平田さんは仰っています。
冷徹なようだけれど、僕も、そのとおりだな、と思うのです。
結局のところ、「自然のなかで、のびのび育つ」ことを美化する人は多いけれど、それが「長所」として役立つ場面というのは、少ないんですよね。
数年前、上掲リンク先の文章を読み、地方で子育てをしている私は悲観的な気持ちになった。
私は、地方の国道沿いの、イオンやユニクロやニトリが近くにあるような郊外に住んでいる。
普段の買い物を済ませるには便利だし、東京のような不動産の高騰にも直面していない。
私立中学校にお受験させなければならないわけでもなく、公立高校を選べば学費はそれほどかからない。
高専に進学するならもっと安くて済むだろうし、地元の国立大学を選べば大学でも費用は少なめになる。
すべてを地元で完結させるぶんには、子育てを安上がりで済ませやすい場所だ。
けれども冒頭リンク先で述べられているように、都会で豊かな文物に触れている子どもたち・早くから進学校に通い高学歴になっていくだろう子どもたちと比べた時、地方暮らし・田舎暮らしに利点があるかというと、昔ほどアドバンテージが思いつかない気がする。
そのことについて、books&appsにも掲載してみたくなったので掲載する。
かつてはあった「田舎暮らしのアドバンテージ」
私が生まれ育った昭和時代後半の頃、私の郷里にはいかにも地方らしいメリットがあったと思う。
ひとつは「自然との触れ合い」。
海、山、川、堤防、沼沢地、雑木林。
そういったものはすべて遊び場で、私は文字どおり自然と触れ合いながら育った。
父によれば、昭和20~30年代は自然がもっと豊富で、身体をフル稼働させる遊びももっと多かったという。
そういった自然だけでなく、町全体も遊び場だった。
近所の家の裏庭も、空き地も、私有地か公有地かにかかわりなく子どもが遊んで構わず、近所のお年寄りと軒下で会話することもよくあった。
町内のあらゆる隙間を知り、町内のあらゆる住人を知り、老若男女とたえずコミュニケーションすること自体が、社会性の獲得を後押ししてくれていたと思う。
親と対立したとしても孤独になることはあり得なかった。
親以外にも年上がたくさんいたし、親の価値観が絶対ではないことを肌で感じさせてくれる年上に囲まれて育ったからだ。
野山を駆けまわり、草野球ができる空き地がどこでも利用でき、町内の年上や年下と豊富な接点が持てたあの頃の生活は、私の社会性の基礎になっていると思うし、これが無ければ、不登校時代の遠回りを挽回できなかったと思う。
東京の劣化コピーとしての「現在の田舎暮らし」
ところが現在の私の子どもを見ていると、そういったメリットのことごとくが失われてしまったようにみえる。
海も山も川も沼沢地も、子どもが遊んで良い場所ではなくなった。
道路や私有地は子どもが遊んではいけない場所になり、子どもたちは、決まった時間に・決まった場所で遊ぶようになった。
その公園も、代々木公園や世田谷公園のような広大なものではなく、古い時代の都市公園法を不承不承守ってつくられた、お粗末なものでしかない。
町全体が遊び場ということもなくなってしまった。
近所の家の裏庭や空き地に子どもが入ることは、21世紀の郊外では非常識なこととみなされている。
それぞれの家の家主がそう思っているだけでなく、子どもも、子どもの親も、そのことを不文律とみなしている。
新しく建てられた家屋には、軒下なんてものは存在しない。
現代の家屋は、家族がスタンドアロンに過ごすことに最適化されていて、近所の人々と繋がりあうことを前提につくられているとは言えない。
結局、地方に住んでいるからといって、自然を謳歌する機会も、伸び伸びと草野球をする機会も、地域社会をとおして社会性を獲得する機会も、あまり無いのである。
どうしても自然を謳歌させたかったら、お金を払って自然を謳歌できる場所に行くしかないし、どうしても草野球をさせたければ、お金を払ってスポーツクラブに通わせるしかない。
学校と自宅を往復するばかりで、専らゲーム機で遊んでいるような子どもは、地方ならではのアドバンテージなど望むべくもない。
それなら塾や稽古事の選択肢が多いぶん、大都市圏のほうが子育てに有利ではないか。
「それは、おまえが中途半端な郊外に住んでいるからだ。もっと過疎地に行けば自然を謳歌できるはずだ」と反論する人もいるかもしれない。
だが私の知る限り、そうでもないようにみえる。
過疎地に行くと、熊や猪、猿がかなりの頻度で出没する。
切り立った崖や怪しい獣道のたぐいといった、安全面の覚束ない場所もたくさんある。
令和時代の親の感覚としては、熊や猪や猿が出没する場所で子どもを放っておくわけにはいかない。
また、近所の家の裏庭や私有地で子どもが遊ぶ行為も昔ほど許容されない。
「子どもといえども、私有地には勝手に入ってはいけない」という意識が、過疎地にもそれなり定着しているのがわかるからだ。
それでなくても、少子高齢化が進み過ぎた過疎地には、子どもにバリエーション豊かな社会的経験を提供するだけのゆとりがない。
かつて、都会の子どものステロタイプとして「学校から塾への行き帰りに携帯用ゲーム機で遊び、帰った後も自宅で一人で遊ぶ」というものが語られたけれども、結局、地方に住んでいても大同小異ではないか。
子どもが外遊びしなくなったのも、ボール投げの成績が年々落ちていくのも、子どもがゲームで遊ぶのが悪いというより、社会全体として、子どもを外で遊ばせておいて勝手に経験を積み重ねてもらうことを許容できなくなっている故のように、私にはみえてしまう。
結局、親が子どもにバリエーション豊かな経験を積ませようと思ったら、カネを積んで、経験を買うしかない。
「契約社会のロジック」が子どもにも適用されるようになった
こうした、子どもを勝手に外で遊ばせない意識の浸透は、人格形成期の人間関係や社会性の獲得に響くので、私は小さくない問題だと思っている。
そして、この意識の浸透はいろいろな切り口で語り得るものだろうとも思う。
この文章では、「契約社会のロジックの徹底」という切り口でこのことについて考えてみたい。
かつて、地域社会が社会関係の大きなウエイトを占めていた頃は、地域の子どもはまったき「他人の子ども」ではなく、「地域の子ども」でもあった。
地域の子どもの遊び場は、地域の共有材だった。
親子関係にせよ、地域の年上と年下の社会関係にせよ、その共有のありかたには契約社会のロジックが浸透しきっていなかった。
社会学者のテンニースの言葉を借りるなら、「子育ての相当部分がゲマインシャフトのなかで行われていた」と言えるかもしれない。
ところが大都市圏では比較的早く、地方や郊外ではそれより幾らか遅れて、地域社会は希薄化していった。
子どもの一人一人は「他人の子ども」でしかなく、「地域の子ども」とはみなされない。
私有地という概念が浸透するにつれて、軒下でのコミュニケーションも裏庭を歩く子どもも少なくなり、子どもの遊び場=地域の共有財という意識はなくなった。
道路で遊ぶ子どもや空き地で草野球をする子どもは、イリーガルとみなされるようになる。
このことは、「子育てが契約社会(ゲゼルシャフト)に完全に組み込まれた」と表現することもできるし、「契約社会化した街から子どもが締め出され、子どもも契約社会のロジックに従わなければならなくなった」と表現することもできよう。
アメリカでは、バス停の近くに住んでいる住民が庭に子どもが入らないよう電気柵をもうけ、賛否両論を呼ぶという出来事があった。
結局電気柵は撤去されたそうだが、契約社会のロジックに従って考えるなら、私有地への子どもの闖入を防ぐために土地所有者が電気柵をもうけても、おかしくないように思える。
「農家が田畑を荒らす猪を避けるために電気柵をもうけるのと変わらない」とどこが違うというのか。
これはアメリカの話だが、私の周囲の子どもたちを眺めていると、わざわざ電気柵をもうけるまでもなく、「私有地に勝手に入ってはいけない」という意識はインストール済みのようにみえる。
外遊びに最適な空き地があっても、ご近所の庭に好奇心をそそるものがあっても、2020年代の子どもはまず侵入しない。
少なくとも、私が育った頃の子どもと現代の子どもでは、契約社会のロジックを内面化している度合いがぜんぜん違っているようにみえる。
契約社会化した子育てに、社会は、あなたはどこまで対処できるのか
こうした社会の変化に対して、行政はそれなり手を打っているようにみえる。
首都圏の湾岸マンションに限らず、比較的新しい住宅街には、だいたい広々とした公園が併設されている。
契約社会のロジックに沿ったかたちで子どもが遊びやすい空間を確保するためには、「公園」とレッテルづけされた空間を増やしていくしかない。
このあたりは、都市公園法の改正、少子高齢化を懸念する行政の思惑、不動産販売業者の戦略などが絡み合っての結果だろうけれども、少なくとも二十年前ぐらいの住宅街に比べればマシになった。
また、上掲の自転車の練習写真のような、近所でやりづらくなった体験を授けるためのイベントや場所も、都市部には存在している。
こういった計らいも、契約社会のロジックから逸脱しにくくなった子育ての助けになっているとは思う。
それでも、これらですべてが解決するわけではないし、これらは”恵まれた”都市部で行われていることだ。
数十年前のニュータウンがそのままになっている地方の郊外では、こうした恩恵に与るチャンスが少ない。
結局のところ、契約社会のロジックのもとでは、ほとんどの部分は親の能力と判断でどうにかしなければならないのである。
「田舎=自然や地域社会のアドバンテージが得られる」という図式が無くなった今、契約社会のロジックに即した子育てのアメニティが取り揃えられた大都市圏の子育てに、地方の子育てが太刀打ちできるものだろうか。
我ながら、ちょっと少し先走ったことを考えてしまっているとは思う。
だけど地方で子育てしている者の一人として、最近は大都市圏の公園の芝が青くみえてならないので、今の気持ちを書いてしまうことにした。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo by MI PHAM