少し前に、ツイッターで「センスは生得的なものではなく、知識が足りないだけ」といった内容のツイートが数万いいねを集めているのを見かけた。

 

 

いや、まさに。

 

知識なくしてセンス無し。

センスのかけらもなかった初学者が、知識を積み重ねるうちにセンスを身に付けていくさまを、私は精神医療の世界でも、アニメ愛好家やゲーム愛好家のコミュニティでも見てきた。

 

なにより、ワインを理解しようとするプロセスで強く実感してきた。

そこで今回は、マット・クレイマーというワインライターの人にかこつけたかたちで、以下のような文章を書く。

 

概要

1.ワインのセンスを身に付ける近道のひとつは、先達の知識をなぞってみること。偏りがあってもいいから知識をなぞる価値がある。

2.知識や経験は、まだセンスではない。センスを構築するのに適した態度やアプローチが伴っていないと、知識や経験はセンスとして昇華されない。

3.他の趣味や仕事にもこれは言える。態度やアプローチが正解なのか、よく確かめよう。

 

1.センスの前に知識を溜める──みようみまねでワインを学んだ日々

本気でワインを理解したいと思った人は、どのようなワインを飲み、どのような知識を手に入れればいいのだろう?

 

ワインの世界に入門した12年ほど前の私には、これがさっぱりわからなかった。

ワインの知識を身に付けようといわれても、なにしろワインというジャンルは広大だ。

 

世界じゅうのワインを飲みつくすのは肉体的にも経済的にも不可能だし、当時、手許にあったワインのガイドブックはデータカタログ的なものだった。

ワインを理解し、なんらかセンスを身に付けるには知識が必要だとわかっていても、どれが飲むべきワインで、何が必要な経験なのか、データカタログ的なガイドブックを読んだだけでは見当がつかなかった。

 

途方に暮れつつ、私は世界じゅうのワインをおそるおそる、価格の手頃な品から飲み始めた。が、いつになっても五里霧中のままだ。

当時、私は2ちゃんねるのワイン板に潜り込んでいたのだけど、ここでもワインというジャンル全体をわかるための俯瞰的なヒントは手に入らなかった。

 

そんなある日、書店でマット・クレイマーというワインライターが書いた、イタリアワインの本に出会った。

 

 

この『イタリアワインがわかる』は、それまで読んだワインのガイドブックとは様子がぜんぜん違っていた。

 

まず、ワインの分類が結構めちゃくちゃだ。

シチリアやサルデーニャのような広い地域でまとめられたカテゴリーもあれば、キアンティ・クラシコやバローロといった、狭い地域で特定の製法でつくられたワインをまとめたカテゴリーもある。

かと思えば、特定のぶどう品種でまとめられたカテゴリーもある。

 

しかも、有名なイタリアワインのジャンルをいくつも切り捨ててかかっている。

 

たとえばイタリアには、フランスのシャンパンに匹敵するクオリティの「フランチャコルタ」というスパークリングワインや、お手頃価格でおいしい「プロセッコ」というスパークリングワインがあるけれども、この『イタリアワインがわかる』では無視されている。

こんなことは、他のガイドブックではあり得ないことだ。

 

また、ワインのレコメンドについても【飲まずに死ねない】【かならず苦労のしがいがある】【たまたま目にとまったら】といった、わかりやすい売り文句でまとめられていて、一部のワインには辛辣な言葉が添えられている。

たとえばイタリアワインのなかでもとりわけ有名なサッシカイアというワインを、筆者は「いいにはいいが、ティファニーの宝飾品のように名声そのものが自立してしまっていて、特別なところは見あたらない」と言い切ってみせている。

 

 

こんなに偏った『イタリアワインがわかる』で大丈夫だろうか? いや、大丈夫なわけがない。

しかし筆者がどんな風にワインと接し、どんな風にワインを見ているのかがこれほど鮮やかに伝わってくる本を私は観たことがなかった。

これは、ただのイタリアワイン本ではい。

マット・クレイマーという人のワイン観が損なわれることなく出版された、そういう本だったのだ。

 

私は、たとえ偏りがあってもいいから、この人のワイン観を物まねしてみたいと思い、彼が【飲まずに死ねない】【かならず苦労のしがいがある】と評しているワインを次々に試してみた。

 

……なるほど!

この人は、こうやってイタリアワインと付き合っていったのか!

 

 

さらに一年後、私はこのマット・クレイマーが書いた『ブルゴーニュワインがわかる』という本を見つけたが、これもブルゴーニュワインの中立的なガイドブックからは程遠く、一部のワインがケチョンケチョンに批判されている点も含めて、ものすごく個性的だった。

 

私は自分のポケットマネーの許す範囲で、彼の薦めるブルゴーニュワインをどんどん試していった。

ブルゴーニュワインを試しているのか、それともマット・クレイマーという人のワイン観を追いかけていたのか、思い出しても判然としない。が、とにかくこれは貴重な経験で、私自身のワイン観をつくる基礎を与えてくれた。

 

2.「ワインがわかる Making Sense of Wine」のための秘訣

さて、このマット・クレイマーという人は、その名も『ワインがわかる(英名:Making Sense of Wine)』という本のなかで、ワインがわかる、つまりワインのセンスを掴む秘訣として、以下のように書いている。

 

 

何ごとによらずその世界に通じるには、対象に立ち向かう態度とアプローチの方法が問題である。驚く人もいるだろうが、知識がそこに占める割合はきわめて少ない。とはいえ傑出したコニサー(目利き、鑑賞家)あるいはエキスパートになるためには、その分野に関する膨大な素養を積んでおかなければならない。充分な知識を身に付けること自体は、さほど難しくはない──まずまずのコニサーであろうとすれば、の話だが。それに対し、さまざまな知識を照合したり総合したりする精神のはたらきは、およそ機械的なプロセスではない。コンピュータは、決してコニサーにはなれないのである。

 

クレイマーによれば、センスのうち、知識が占める割合はそれほど大きくないのだという(とはいえ上記にあるように、充分な知識も必要だが)。

それより重要なのは態度とアプローチだ。

ワインでいえば、どれだけたくさんのワインを飲んだかではなく、ワインをどう飲むか、ワインに立ち向かう態度やアプローチこそがセンスを身に付けるうえで重要だと彼は説く。

 

本当のところ、コニサーであるためには、知識の多寡よりもアプローチの仕方のほうがはるかに重要だ。誰しも「好き、嫌い」型の反応パターンから脱却したとたん、いくらかコニサーの気配を帯びてくる。コニサーについていちばん要を得た、おそらく最上の定義は、「好きなもの」と「良いもの」の区別ができる人、である。なにぶん両者がつねに一致するとは限らないのだから。

もちろん、コニサーにもさまざまな段階がある。大コニサーとは、膨大な経験にコニサー流のアプローチがともなう人のことをいう。経験だけでは充分ではないのだ。膨大な量の、しかも高価きわまるワインを味わってきたはずなのに、とうていコニサーとは申しかねる人物に、なんと多数お目にかかってきたことか。そんな彼らにしても自分の好みだけはさすがに心得ており、手にしたグラスのワインにこんな物差しをあてがって評価する。「このワインは、私の好きなシャトー・ラトゥールを彷彿とさせるところがある。だから上等なワインです」と。理想的なコニサーとは、ワインを味わったあと、たとえば「こいつは偉大なワインだが、私はご免だ」と言ってのけられる人物である。

 

センスを身に付けるには知識や経験が必要というが、その知識や経験が「好きと嫌い」という物差しだけに基づいているなら、好きなワインと嫌いなワインしかわからないままだ。

 

極端に言えば、そういう人は1000円の好みなワインを10万円の苦手なワインより好きだと述べることはできても、後者のほうが優れている点、優れているとしたらどう優れているかを理解も表現もできないだろう。

ワインを100本飲んでも1000本飲んでも、きっとそのままだ。

 

もちろん好き嫌いも重要で、クレイマー自身、「センスを好き嫌いに優越させなければならない義理はない」と述べてはいる。

けれどももしワインをわかりたいと思ったら、「好きと嫌い」とは異なった評価軸、たとえば「良いものと悪いもの」「単純素朴なものと複雑洗練されたもの」を判別するようなアプローチや態度が必要で、そうした目線にたって知識や経験を積み重ねていくのが望ましい。

 

『ワインがわかる』という本は、まさにそのワインをわかるために必要なアプローチや態度について教えてくれる本となっている。

絶版になって久しい本だが、中古市場で安く売られているので、ワインについてわかりたい人は買ってみるのもいいだろう。

 

「アプローチや態度が重要」なのはワインだけではない

ここまで、ワインのセンスを身に付ける方法についてあれこれ書いてきたわけだが、思うにこれは、他の趣味や仕事や人間関係にも通じる話ではないだろうか。

たとえば世の中にはアニメ愛好家が無数にいるが、そのうち、好みのアニメと優れたアニメの区別がつけられる人、好き嫌い以上の言葉でアニメを評してみせられる人はどれぐらいいるだろうか。

 

SF小説にしても同様だ。SF小説の世界には「SFを1000冊読むまではSF語るな」という言葉があったと聞く。

しかしその1000冊を「好き嫌い」という物差しだけに基づいて読むのと、もっと異なった物差しをまじえた態度で読むのでは、SF小説がわかる度合い、つまりSF小説を読むセンスはかなり違ってくるだろう。

 

これは仕事や人間関係にも言えることだ。

クライアントを100人相手取ったとか、患者さんを1000人診療したとか、それだけでセンスが向上するとは思えない。

その経験をセンスへと昇華するためのアプローチや態度が伴わなければならない。

だから、それらを初学者の段階でどこで教わるのか・誰のセンスをコピーアンドペーストするのかが切実な問題となる。

 

逆に言うと、知識や経験を積み重ねているはずなのに、なかなかセンスが身に付かないと感じている人は、知識量や経験量に問題があるとみるのでなく、その知識や経験に対する自分の態度やアプローチにどこか問題がないか、点検する必要があるだろう。

 

点検しても自分の態度やアプローチの問題点がわからない場合、はっきりとセンスがあるとわかっている人をコピーアンドペーストして「まず形から再入門してみる」か、いっそ誰かに点検を依頼すべきかもしれない。

 

なんにせよ、知識や経験をセンスへと昇華するためには、それに適した態度やアプローチが必要だ。

そこを無視したまま場数を稼いでも、得るものは期待ほどには大きくないのでご注意を。

 

 

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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