「お前にはこの美しさがわからないだろ?」
中学生ぐらいの頃、親にインドネシアに連れられて旅行に行った事があった。
その時に、棚田という山を階段状に切り崩して水田にし、米を育てている場所に連れて行かれたのだが、そこで親は僕に対して冒頭の言葉を投げかけた。
夕焼の空を背景に、金色の光が水田に降り注ぐその姿は、いま思うと確かに美しい自然の風景であったように思う。
しかしその当時の僕は、その光景が大変にツマラナイもので、親が何に惚けているのかが、サッパリ理解できなかった。
子供は山の景色を美しいと思わない?
ちょっと前に家族旅行に出かけた時の話だ。
その道中で田舎道の途中にポツンとあるベーカリーに立ち寄り、表のテラスで買ったパンを食べる事にした。
そこではまあ、美しい群馬の山々があり、僕は晴れたその天候の中でパンをかぶり付く事に、尋常じゃない喜びを感じていた。
一方で子供はまるで自然に興味を示さなかった。ふと、冒頭の場面が頭をよぎった僕は、子供に
「この山、美しくない?」
と聞いてみたのだが、子供は「全然そう思わない!ツマンナイ」と全力で言い放ち、ニンテンドースイッチのあつまれどうぶつの森に夢中になっていた。
自然は何も面白くない
ジブリの宮崎駿さんが、かつて「子供には野山で駆け巡って欲しいのに、自分が作ったトトロや天空の城ラピュタに夢中になって、家でテレビに夢中になっていると言われるのが辛いんだ」というような事を仰っているのをみた事がある。
こういう主張を宮崎駿さんがされる事は何となくわかるのだが、じゃあ自分が子供だった頃を振り返ってみると、ぶっちゃけまるで自然に興味など無かった。
子供の頃の僕は家でテレビやゲームに夢中だったし、漫画にも夢中になっていた。たまに自然を誰かに強制されて見にいかされる度に「なんでこんな退屈な場所に来なくちゃいけないんだ」と苦痛で苦痛で仕方がなかったぐらいである。
なんで自然が苦痛で、人工物は楽しかったのかを考えると、人工物はそこに意味が見出せたからだと思う。
テレビやゲームは何をすればよいのかを常に提示してくれたし、漫画はちゃんと次のページに人間を引きつけるぐらいには、キチンとしたストーリーや演出がある。
一方で自然はどうかというと、別にそこに派手な演出やストーリーはない。
厳密にいえば、ちゃんと歴史とか動物や植物とかに詳しくなれば、そこに何らかの意義は見いだせるのだが、子供がそんなものを知るわけがない。
意味や意義は考える人もいるし、考えない人もいる
個人的には、この演出とか意味に強くこだわるのは、僕自身の発達気質がだいぶ影響しているようには思う。
僕はどうも昔から意味とか意義のようなものに対して強いこだわりがあり、それが無いものに対して価値を感じられない傾向があった。
だから自分の行いは常に意味や意義を考え抜く傾向があったし、他人にもそれを強く求める傾向が高かった。
この気質は、こうやって文章を書いたりするのには強く役立つが、一方であまり難しい事を考えずに社会をやれてしまっている人や、権力をふりかざすタイプの人には嫌われる傾向が高かったように思う。
「うるさい、つべこべ言わずに、言われたことをやれ」
こういう事を言う人の事が、昔から本当に嫌いだった。
今はまあ、丸くなったのに加え、多くの人は僕のように全てのものに意味や意義を見出したいという狂った執着は持たないのだと理解したので、あまりカドを立てないようにしてはいるが。
人は、結論だけで生きている
脊髄反射という言葉がある。
かつて女の人が「私、生理的に受け付けない」と言ってキモい人間の事をバッサリと切り捨てているのをみた事があるが、僕はこの「生理的に受け付けない」という言葉が前から不思議だった。
そりゃ、僕にだって異性の好みみたいなのはある。
だからパット見で惹かれる人間もいれば、あんましタイプじゃないなーという人もいる。
じゃあタイプじゃない人間の事を好きになれないかというと、そんな事はない。
ちゃんと相手の事を理解さえすれば、だいたいの人の事は、僕は好きにはなれた。
意味や意義さえ感じられれば、ありとあらゆる苦行であっても僕は遂行する事はできる。
だから、生理的に無理だという主張は、単なる自分の努力不足を誤魔化しているだけのようにしか、感じられなかったのである。
快・不快の脊髄反射で人は動く
しかしそれから長い年月を経て、僕は「別に異性の好みに限った話ではなく、多くの人は脊髄反射だけで快・不快をベースに動いているだけだ」という事を徐々に理解するようになった。
耳に心地よい音楽が”いい”音楽である事は誰もが疑わないと思うが、これが耳に心地よい”言葉”だとどうだろうか?
「カッコいい!」あるいは「カワイイ」でもいいが、こういう言葉を言われて悪い気持ちになる人間なんて、ほとんどいない。
逆に「頭悪い」とか「ブサイク」という言葉を、不快感なしに受け入れられる人間はほとんどいない。
この事から分かる通り、人は何らかの刺激に対して、常に快あるいは不快の反応を発生させて生きている。
そしてその刺激に対して一定の脊髄反射が発生しており、そこから次の行動を発生させて生きている。
人は幸福になるためには生きてはいない?
この事自体は単なる現象を切り取った説明に過ぎないが、じゃあこれを積分させるとどうなるだろうか?
前から思っていたのだが、人間は口ではみな「幸せになりたい」というのに、どう考えても幸せになろうという行為を主目的には誰も動いてはいないのである。
この言行不一致が僕は前から不思議で仕方がなかったのだが、最近になって「人間の行動ベースは快・不快を総合させた積分量にある」事にふと気がついた。
例えばちょっと前にストロングゼロが覚醒剤よりもキくなんていう発言をインターネット上でみかけた事があった。
その発言者は確かちょっと社会的にシンドそうな立場にいる人だったように記憶しているのだが、その人にとってストゼロは確かに辛いことを緩和させてくれるような作用があるだろうな、とは何となく思いはした。
不快だけにとどまる事は、人間には難しい
精神科医の松本俊彦氏は薬物などの依存症を「意志の弱さ」ではなく「生きる苦痛を緩和するための病気(慢性疾患)」と主張するが、自分も辛いことから逃げ出したい時ほど、快楽を強く追い求める傾向は高かったなと思う。
そもそも僕は快楽がかなり好きな人間であった。
性的快楽は言わずもがな、美食やサウナ、ランナーズ・ハイのような、気持ちのよいとされるタイプのものがあれば、どれも積極的に突き進んでいたように思う。
しかし今の僕は快楽にはさして興味が無い。これは単に中年になって心が摩耗したというのもあるとは思うが、それ以上に「生きるのが楽になったので、心にカンフル剤をわざわざ打ち込む必要がない」というのが大きいように思う。
僕は少し前に「多くの人間は、結論だけで生きている」と書いたが、そういう意味では僕は「生きる事自体が苦しすぎるので、快楽による除痛」を目的として”生きていた”。
しかし生きる事が苦しくなくなった僕は、快楽は快楽として過度に神聖視しなくなった。
今でも性的快楽にしろ美食にしろアルコールによる陶酔にしろランナーズ・ハイにしろサウナでのととのいにしろ、やればちゃんと「気持ちはいい」のだが、心の痛みに対して鎮痛剤として「無くてはならないもの」としては欲してはいない。
そう、かつての僕は苦しさから逃げ出すのを目的に生きていたのである。自分はちゃんと物事に意義や意味を見出すタイプの人間だと思っていたが、肝心の自分自身の行動原理について理解したのは、40年もの月日が必要であったわけだ。
退屈さを、愛せるようになった
冒頭の自然の話に戻ろう。
今の僕が自然に美しさを見いだせるようになったのは、一つには加齢に伴う知識による補正が働いているのだとは思う。
赤城山という名前を知ることで読みとける景色の情報量は、なにも知らない子供の脳とは前提条件が異なる。
大人の僕にとっては興味深い景色も、子供にとっては単なる起伏でしかない。そして単なる起伏に、面白さは無い。
だが、それ以上に影響しているであろう事は、大人としても僕の感性が、素直な子供と比較してヒネクレているという事があるように思う。
良くも悪くも、大人の世界は擦り切れている。単純な勧善懲悪のような分かりやすい世界ではこの世はなく、故に僕はこの世界をとても曲がったものとして、当たり前のように受け入れている。
そういう歪んだ眼鏡をかけて生きている今の僕にとって、ありのままの自然法則を堂々と提示される事は、なんていうか曲がった心を真っ直ぐに伸ばしてもらえるような、不思議な清涼感が感じられるのである。
そこにあるのは、ある意味では演出やストーリーとは無関係な、退屈な世界である。
赤城山が割れて中から世界の巨悪が出現したり、あるいは天から天使が舞い降りてきたりだなんていう”余計さ”はありえないし、特に必要はしない。
むしろ逆だ。退屈だからこそ、いいのである。その退屈さが、心にとても、響くのだ。
ひねくれる事なく、退屈に退屈に日々を堅実に積み重ねるその所業こそが、わかりやすい興味深いイベントに満ち溢れた刺激的な日々よりも尊く感じる。
そういう”結論”でもって生きる事を全力で肯定できるようになった事に、僕は喜びを感じるのである。
【著者プロフィール】
都内で勤務医としてまったり生活中。
趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。
twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように
noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます
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