丸山ゴンザレスさんの本を読んでいて、非常に懐かしい気持ちが沸き上がってきた。

丸山ゴンザレスさんはこれらの本を通じて私達を見たことがない異世界へと旅立たせてくれる。

 

例えば世界の混沌を歩く ダークツーリストではラスベガスに住むホームレスの話が出てくる。

このホームレスがいわゆる私達の想像する浮浪者のようなものとは全然違って、凄く普通風の人なのである。

 

僕はよもやラスベガスなんていうカジノのイメージしかない場所に、家賃が高すぎてバカバカしくなって路上生活をキメた人が沢山いるだなんて思いもしなかった。

日本はアメリカの10年後を追いかけるだなんて言葉があるけど、今後日本も普通の人が家賃を払う事からイクジットする新しいタイプの生き方をする人が出てくるかもしれない。

 

他にもGONZALES IN NEW YORKに出てくるゾンビ・マクドナルドのエピソードなんかもぶっ飛んでてなかなかに気持ちいい。

ニューヨークにはジャンキーの巣窟となっているマクドナルドがあるようで、そこに足を踏み入れると、まるでバイオハザードのゾンビがウロウロ徘徊しているかのような雰囲気が醸し出されているのだというのである。

 

世界は広い。本当に広い。

こういう奇想天外な話を聞くたびに、自分がいかに狭い世界でしか生きていないか思い知らされる。

 

インドの思い出

「インドは一度行くとハマるか、もう二度と来たいと思わないかのどちらかだ」

 

大学生の頃、海外旅行にでかけたという人を捕まえては色々な話を聞いていたのだが、このような表現で説明される国はインドだけであった。

果たしてインドはどのような国なのか興味が尽きず、僕は社会人二年目に1人で訪れた。

 

インドでとにかく驚いたのが、街を歩いていると、どこからともなくインド人が現れて話しかけられる事だ。

やれどこの国から来たやら、観光案内はいるかとか。

 

日本で他人から声をかけられる機会なんてまずない。

よくもまあ、ここまで他人に話しかけるハードルが低く設定できるもんだと妙に感心してしまったものである。

 

ボッタクリは金銭面ではなく、ナメられてるのが腹立たしい

旅行に来ているわけだから、いろいろな買い物やツアーなどをしたいわけだが、当然のごとくタクシーやリキシャといった乗り物は相場の数倍の値段をふっかけてくる。

 

日本にいた頃は

「数倍の値段をふっかけられようが、日本でやるのと比較すれば安上がりでサービスが利用できるのなら別に構わなくないか?」

と思っていたのだが、いざ現地でボッタクリを経験すると何に腹がたつのかがよくわかった。

相手がこっちの事をナメてかかってきてるのが腹立たしいのである。

 

「どうせ相場も知らないツーリストだろ?」

 

変な思い込みなのかもしれないけど、そういうニュアンスの目で1円でも多くの金をぶん取ってこようとする人間を相手にするときほど、自分がナメられてると感じたことはない。

そしてその目線に晒される事が何よりも人としての尊厳を傷つけられるのである。

 

「なるほど、現地に適応した人が100円単位でも値段交渉するのは、オレのことを舐めるな!という意思表示だったのか」

この事を理解してから、いち早く現地の空気になれて相場を掴み、ナメられないような存在になろうと奮起したものである。

 

インド人はどこからともなく現れる

インドのある観光地での事だ。

そこでリキシャというバイク便を捕まえた僕は、運転手のインド人から「へいジャパニーズ、観光しようぜ。値段はお前の言い値でいいからさ」と提案された。

 

こいつぼったくる気満々やろと内心思いつつ、中途半端に現地人との交渉に慣れてきた僕はそれにのっかった。

金を稼げるとわかった時のインド人の陽気っぷりは半端ない。

どう考えても普通ではないオベンチャラを雨あられのように投げかけられ、2~3の観光地を回った後に、僕は値段交渉に取り掛かった。

 

向こうが提示してきた金額はもう忘れてしまったのだが、相場と比較してかなり高かった。

現地感覚になれてた僕は「ふざけんな、高すぎるだろ」と英語で切り捨て、「そんな高いならここで500円払ってお別れだ」と最終通告を出したのだが、ここにきて完全に相手の調子が変わった。

 

金を稼げないとわかった時のインド人の顔は恐ろしい。

完全に頭が逝ってしまったんじゃないかというような目をひん剥いた彼は、Fワードと共に大声でわめき始めた。

 

当然、僕もまけじと大声で罵りあったのだが、するとこれがまあ不思議な事にワラワラとどこからともなくインド人が湧き出てくるのである。

 

「おい、どうした日本人」

「まあまあ、落ち着けって」

 

お互いの陣営を取り囲む数多のインド人。

確かそこまで人通りが多い場所ではなかったはずなのだが、彼らはいったいどこから現れたのか。謎である。

 

結局、一時はつかみ合いになりそうな剣幕までいったのだが、最終的には僕がプラス数百円か払う形い、モブインド人が怒れるインド人をなだめすかせる形で決着がついた。

 

若さというのは大したものである。いまならあんな少額を争うだなんてことはまずやるまい。

 

ひょっとしたらあの時、死んでいたかもしれない。

とまあ、今では温厚な僕もインドではこんな若気の至りみたいな事をやっていたのだが、丸山ゴンザレスさんのアジア「罰当たり」旅行 改訂版を読んで、冷水を浴びさせられるような気持ちになった。

 

この本で、ゴンザレスさんと同年代の日本人旅行者がガンジス川のふもとでインド人と言い争いになり、殴り合いの喧嘩に発展した結果、最終的にインド人の報復にあい殺されてしまった話がでてくる。

 

このエピソードを読んだ時、10年ぶりに僕がインドで遭遇していたかもしれない未来の伏線回収が自分の中でなされ、文字通りゾッとした。

あのモブ・インド人は僕を助けようとしてくれたのではなく、仮に言い争いで済まずに殴り合いに発展した時・・・ひょっとして僕をリンチできるぞとワラワラと集まってきたんじゃないか・・・

 

まるで騙し絵のように観る角度で風景が異なるが如く、僕の思い出はこのエピソードを読んで天使が悪魔になったかのように一変した。

ひょっとしたら、あのとき死んでいたのかもしれないな・・・ミステリー小説のトリックが解説されるかのような、長い長い伏線回収にただただ圧倒された一時だった。

 

古典的名著の条件は読む年齢で感想が変わること

なぜ一部の古典は長く読みつがれるのか。

これに対して、かつてある人が僕に「ホンモノの古典というのはね、読む年齢によって感想が変わるんだ」と言った事があった。

 

例えば太宰治の人間失格。初めて僕があれを読んだのは確か高校生の頃だったけど、あのときは本当に意味がわからなかった。

一ミリも面白いと思えなかったのである。

 

つい最近になり、気が向いて読み返してみたのだが「えっ?こんな話だったっけ?」と驚くほどに読後感が異なっていた。

なるほどなぁ。古典というのは、立ち位置でこんなにも読んだ時の風景が変わるからこその古典なのか、と妙に納得してしまったものである。

 

その時、突然何の脈絡もなく「ひょっとして、旅行ってのはある意味では古典に近いものがあるのではないか」とピンときた。

あのときは若気の至りだった行為が、何年もたって様々な知識が身につき、別の角度から見直すと命の危機になる。

 

なるほどな、インドにハマるってのは、たぶんこういう事なのだろう、と遅まきながらようやく納得した。

今では僕が初めて訪れた時と比較して、随分様相が違うだろうけど、時間ができたらまたインドに行こう。

 

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高須賀

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