新型コロナウイルス感染症がパンデミックとみなされるようになってからずっと、私は『ハーモニー』というSF小説のことを繰り返し思い出すようになった。

ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

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たぶん、『ハーモニー』を読んだことのある人はみんな、最近の世の流れから『ハーモニー』を連想せずにはいられないのではないかと思う。

そんなわけで、今日は『ハーモニー』の話をしてみたい。

 

パンデミック後の健康管理社会を描いたSF小説

『ハーモニー』はSF小説家の伊藤計劃が2008年に世に出した、パンデミック後の未来を描いた作品だ。

そこでは旧来の政府にかわって「生府」という組織が、健康や医療に重心を置いた施政を行っている。

 

「生府」は国民全員の体内にナノマシンを埋め込み、病気の兆候や不健康の兆候をたえずモニタリングしている。と同時に病気や不健康の兆候を見つけ次第、ナノマシンによって即座に治療をほどこす。

そうやって病気や不健康をすぐさま除去する『ハーモニー』の世界では、誰もが健康に、100歳以上まで生きることができる。

 

そのかわり、『ハーモニー』の世界では健康は義務とみなされ、不健康は不道徳とみなされている。

タバコや酒といった不健康をもたらし得る嗜好品は禁じられている。

カフェインですら、『ハーモニー』の世界では不健康・不道徳な物質として批判の矢面に立たされていた。

カフェインは根本的に中毒物質です、と某夫人は言う。

あくまで控えめに。

控えめに断言する。

長期摂取による悪影響には、猥褻ささえ感じませんでしょうか。

娯楽や文学や芸術にしてもそうだ。

トラウマやストレスをもたらすかもしれないメディアは厳しく検閲され、特殊なライセンスを持っていなければ鑑賞できないメディアも多い。

パンデミック以前のメディアの大半が「とうてい許容されない暴力にみちている」と作中にあるから、『ハーモニー』の世界では、よほど無害なメディアしか鑑賞できなくなっているのだろう。

 

健康のために市民が果たさなければならない義務も多い。

<i:>メディケアが吐き出す朝の錠剤一服
<i:>ライフデザイナーの送りつけてくる適正生活表
<i:>身体に余計な負荷をかけない健康食材
<i:>適切な健康コンサル
<i:>適切な健康食品
<i:>肌のデキモノを兆候のうちに潰してくれる医療分子の群
</list>
肌荒れというのは要するに、生命社会の最低限のたしなみであるそれらのうち、どれか一つ以上をサボっているという証。調和を乱す者の証。生命社会とは男女問わず不摂生を許さないライフスタイルのことである。不摂生は必ず肉体に刻まれるのだ。

『ハーモニー』の世界の人々は、健康を守るためにあらゆることに気を配らなければならない。

もし、それらをサボり、不健康の兆候が発見されようものなら、それはセルフコントロールの喪失、社会性の欠如とみなされる。

不健康の兆候はソーシャル・スコアの評価点にも反映され、不健康な人間の社会的地位は低いものとならざるを得ない。

 

くわえて、市民は定期的に倫理セッションに参加し、健康倫理について”積極的な議論”をしなければならない。

『ハーモニー』を読んで未来を感じ取るポイントのひとつは、もちろん、現代の水準を大幅に上回る医療テクノロジーの描写だ。

作中に登場する生体ナノマシンや生体デバイスは、まるでおとぎ話のようだ。

 

しかしもうひとつ、『ハーモニー』に未来を印象付けるものがあるとしたら、これも現代の水準を大幅に上回っている、健康にまつわる倫理観や道徳観ではないだろうか。

健康と倫理と道徳がしっかりと結びつき、ひいては社会的地位とも紐付けられ、健康でいられるようになったのと同時に健康でいなければならなくなった、そういう健康ディストピア然とした描写にも私は未来を感じずにいられなかった。

 

ところが現実にパンデミックが起こってみると『ハーモニー』に対する私の印象はだいぶ変わってしまった。

『ハーモニー』で描かれているのは、遠い未来というより、すぐ隣の未来ではないか。

このパンデミックをとおして、私たちの現実世界は『ハーモニー』のほうへと足早に向かっているのではないか。

 

そう考えずにはいられなくなってしまったのである。

 

健康管理社会の先駆けをゆく中国

新型コロナウイルス感染症が初期から蔓延し、どうにかロックダウンの解除までたどり着いた中国・武漢では、個々人にヘルスコードなるものが割り当てられ、これによって個人の行動範囲が決められている。

ロックダウンが解除された中国・武漢では、人々が「ヘルスコード」で管理される“新たな日常”が始まった

各自治体ではヘルスコードを使う個別の小規模なシステムを立ち上げているが、ユーザー側のインターフェースはすべて同じものに統一されている。

基本的な考え方としては、バス、鉄道、航空機の予約などから割り出した移動経路、既知の有症者や感染の疑いがある人物、感染が確認された人物との接触の有無、自己申告に基づく症状などのデータを当局が一元的に集約し、信号機(赤、黄、緑)になぞらえた色を割り当てる。それぞれの色は、その個人にどれだけ感染の危険があるかを示している。
(wiredより抜粋)

この、ヘルスコードをはじめとする中国の健康・防疫テクノロジーはまだまだ不首尾な部分も多く、実際にはローテクによって多くの部分がカヴァーされている、とwiredの記者は述べている。

 

それでも少なくとも二点、気に留めておかなければならない点があるように、記事を読んで私は思った。

 

ひとつは、中国の健康・防疫テクノロジーよりもずっと優れたものがgoogleやAppleから出てくる可能性がある、という点だ。

同記事によれば、googleやAppleはもっと精密に個人の接触を分析できるシステムを目指しているという。

 

位置情報も含めた膨大な個人情報を持つこれらの企業が、ハイテクな健康管理システムを打ち出してくる未来を想像するのはたやすい。

げんに、googleやAppleには健康部門が設立され、資金をどんどん投資している。

 

もうひとつは、たとえ医療・防疫テクノロジー水準が低くても、それらを周辺で支える情報テクノロジーやアーキテクチャが発達し、市民が制度にふさわしい倫理観や道徳観を身に付けるよう飼い馴らされてしまえば、その社会は『ハーモニー』に近づく、ということだ。

 

『幸福な監視国家・中国』によれば、近年の中国では、人々の態度の良さや行儀の良さが急速に改善したという。

そうなったのは、人々が議論を重ねて市民感覚に目覚めたからではない。

企業や国によるソフトな監視と統制と引き換えに、自由な商取引やコミュニケーションが実現したためであり、そうした実現に市民がポジティブな印象を持っているからでもある。

「プライバシーを守りたいか? 守りたくないか?」。そう聞かれれば、すべての中国人が「守りたい」と答えるでしょう。

それでも自らの行動すべてが記録されるスマホアプリをはじめ、デジタルエコノミーの導入に積極的なのはなぜでしょうか。

次の一言が理由を端的に示しています。

「中国の消費者はプライバシーが保護されるという前提において、企業に個人データの利用を許し、それと引き換えに便利なサービスを得ることに積極的だ」

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人は、なんらかの必要性がある限りにおいて監視や統制を引き受け、それにふさわしい振る舞いをこなしてみせる。

そうやって態度の良さや行儀の良さに慣れていくうちに、態度の良さや行儀良さを当然のものとみなす倫理観や道徳観まで身に付けていく。

 

そういうソフトな監視と統制によって変わりゆく中国で、今度は、新型コロナウイルス感染症によって健康を守らなければならない必要性が強まった。

健康を守らなければならない必要性がある限り、中国の人々は監視や統制を引き受けている。

 

日本でも、新型コロナウイルス感染症が広がっていくなか、監視や統制に肯定的な声をあげる人々をネットで散見し、私はちょっと驚いた。

いつもは個人の自由やプライバシーを重んじている人でも、健康という必要性を前にすれば意見を変えてしまうことがあると知ったからだ。

 

もし、新型コロナウイルス感染症との戦いが数年単位になり(そうなる可能性は高い)、パンデミックへの警戒が緩まないとしたら、私たちの倫理観や道徳観は間違いなく健康の監視、健康の統制へと傾き、『ハーモニー』の世界へと近づくだろう。

 

健康マネジメント社会は前世紀には始まっていた

ちなみに、こんな風に健康をマネジメントする社会は新型コロナウイルス感染症によって始まったのでない。

少なくとも先進国では、ずっと前から始まっていた。

 

というのも、ナノマシンやスマートメディアこそなかったものの、20世紀末には日本人の健康は検診や健康診断をとおしてマネジメントされ始めていて、そうしたなかで日本人の健康観や道徳観も変わり始めていたからだ。

 

新型コロナウイルス感染症が蔓延するよりずっと前から、私たちは検診や健康診断をとおして健康を守ることを当たり前のこととして受け入れ、医療者による健康アドバイスに耳を傾けるのを良いこととみなしていた。

 

そうした営みをとおして、健康な生活は良いことに決まっていて、不健康な生活は悪いことに決まっているという倫理観や道徳観を内面化しはじめていた。

社会的地位の高い人々は率先して健康に気を配り、健康にコストを費やし、不健康な状況を避け続けた。

 

20世紀の検診や健康診断は、『ハーモニー』の世界に比べれば著しくローテクだ。現在の検診や健康診断にしても、比較にはならないだろう。

 

それでも、医療制度をとおして健康がマネジメントされるようになって、二十年、四十年と経つうちに、私たちはそうすることにすっかり慣れてしまった。

健康にまつわる倫理観や道徳観も、昭和時代とは比較にならないほど進歩し、日本は世界でもトップクラスの健康福祉国家になっている。

 

この変化をさらに遡ると、健康を管理するための統計的・生物学的な基礎が生み出された19世紀にたどり着く。

始めはごく一部の人だけが気にしていた健康は、20世紀をとおして広まって、百数十年のうちに健康にまつわる倫理観や道徳観はすっかり変わってしまった。

健康という概念の乏しかった時代のことなど、今はほとんどの人が憶えていない。

 

今回のパンデミックをとおして、社会はますます潔癖に、清潔に、健康になっていくだろう。

不摂生や不清潔が今まで以上に忌み嫌われ、皆がますます健康にデリケートになった未来を想像するのはたやすい。

 

でもそれは、パンデミックによって始まったというより、これまでの健康史がパンデミックによって加速しただけのことかもしれない。

 

こうした健康の定着と加速の行きつく先について、『ハーモニー』は本当に色々なことを考えさせてくれる。

その興味深い結末も含めて、今という時に読むのにぴったりのSF小説だと思う。

オススメしたい。

 

 

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安達 裕哉(あだち・ゆうや)
ティネクト株式会社 代表取締役/ワークワンダース株式会社 代表取締役CEO
Deloitteにてコンサルティング業務に従事後、監査法人トーマツの中小企業向けコンサル部門立ち上げに参画。大阪・東京支社長を経て、2013年にティネクト株式会社を設立。
ビジネスメディア「Books&Apps」運営。2023年には生成AIコンサルティングの「ワークワンダース株式会社」も設立。
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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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