シロクマ先生が書かれた”健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて”を読んだ。
本書は現代日本における”生きにくさ”の正体を分析する。
現代社会の科学技術の発達は凄い。
先進国である日本に住む私達はその結果とても豊かになり、大なり小なりその恩恵をうける事となった。
では現代の快適さが全ての人を生きやすくしたかというと、そう事は簡単ではない。
科学・経済ともに高度に発達した結果、日本の街は潔癖といえるほどにキレイになり文化もかなりリベラルになったが、その結果、そこに住む人としてのある種の特別な文化コードのようなものが自然と要求されるようになった。
快適さの代償として要求される、その特別な文化コードこそが現代の生きにくさにつながっているのではないか、というのが筆者が世に問いかけた事であり、本書は精神科医としての視点を持ち合わせた上で現代社会を様々な形で分析していく。
経済人としての人間と動物としての人間
プログラム化された動物は時に”個”ではなく”種”としての最適解を選ぶ。
DNAレベルで考えれば、生物が最も優先すべきことは種を残す事だ。
そのために個が犠牲になる事を時にいとわない。
一方、人はDNAに基づいた直線思考はあまり行わなず、種よりもひどく個や共同体の利益を優先する傾向がある。
昨今、行動経済学の発達により人間の行動原理にもある種の法則性がある事がわかりつつあるが、ミクロとしての私達の動きは動物とは随分異なる。
なぜそのような事になったのか。
一つのありえる仮説としては、私達には動物としてのホモ・サピエンス的な性質に加えて、経済人としてのホモ・エコノミクス的な新しい思考回路がインストールされたという考えはありうるだろう。
実際、ヒトという種は新皮質というもう一つの脳を他の種と比較して上手に使いこなす事が知られているが、動物としてのむき出しの本能は旧皮質に情動として上手に収納しつつ、利己的な個に徹するのがヒトという種が見出した自然界における最善戦略だったのだろう。
そしてヒトが地球上を広く支配するようになってから長い歳月がたち、この新皮質の支配領域は社会の中でとても広いものとなった。
現代の東京はそのホモ・エコノミクス的な要素がひどく結晶化し具現化している。
生産性を主眼に構築された東京という町は酷く清潔だ。
そこでは生産性がないとされたものは自然淘汰されてゆき、生き延びる事ができない。
結果、街自体がホモ・エコノミクスとしての文化コードを要求するようになり、そこに住む人達も自然とホモ・エコノミクスとしての立ち振る舞い方を強くとるようになった。
そうした結果、出生率の減少というとても興味深い現象がおきた。
先程、動物の行動原理は基本的には総体としての種が残ることを第一の基本原理とすると書いたが、高度にホモ・エコノミクスとしての文化コードを身に着けた東京人はホモ・サピエンスとしての功利主義である子育てを意図して切り捨てる事に違和感を感じなくなったのである。
子育ては忙しく、個人の生産性をひどく損なう。
「生産できない人間はこの街には要らない」という都市環境のカタチを介した無意識の強制力は凄い。
現代の東京では子育ては”贅沢品”であり、エンターテイメントの一つとしてほかの何かと擬似的に置換可能なモノとみなされるまでになったのである。
いくらカネがあろうが、人は動物としての幸せは超克できない
近代における科学技術の発達は自然を人間がコントロール可能であるかのような夢を私達にみせてくれた。
「科学は万能だ」と夢にむかって突き進んだ先で、結局私達は自然に打ち勝てないという現実を目の当たりにする事にはなったのだが、私達は人為で世の中全てを支配下に置けるという幻想をどうしても持ちがちだ。
たとえば1997年に発表された『もののけ姫』では、エボシはシシ神殺しを成すが、結局エボシは自然を超克することができなかった。
あの話が私達に特に違和感なく受け入れられるのは、これは物語だけの話ではないからだ。
例えば、このエピソードの類似系は現代でもコロナのパンデミックなどで簡単に見いだす事ができる。
ヒトとモノがグローバルに簡単に行き来できるようになり、グローバル化が全世界を覆ったかのようにみえた瞬間でのウイルスのパンデミックは、まさにシシ神の首を撃った瞬間、シシ神の体から不気味な液体が大量に飛び散ったような有様である。
私達はグローバル化の良い側面だけを見すぎていたが故に、グローバル化が感染症のパンデミックを促進するという負の側面をみきれていなかった。
グローバル化は不可逆的な変化ではあり、アシタカとサンが手を取り合って街に下れないように”もう戻れない”ものではあるのだが、自然界の神域を土足で駆け抜けていいものではないという事をまるで警告されたかのような気持ちにならないだろうか?
この事はヒトにもいえる。
経済人としての私達は、ともすれば動物としての人間性をひどく軽んじる。
その最たるものがカネの産む幸せだろう。
5億円手にしたら人は簡単に幸せになれるのだろうか
カネは物凄く複雑な感情を私達にもたらす。
Twitterでも現代社会の生き辛さにため息をつく形で「5億円欲しい」とつぶやく人が散見されるが、実際問題5億円手にしたら人は簡単に幸せになれるのだろうか?
「なれるに決まってるだろ」という人は、正直な事をいうとかなりホモ・エコノミクス的な思考に毒されているように思う。
実は僕も割とそういう思考に毒されていたのだが、最近は動物としての人間の幸せというものから目を背ける事が、巡り巡って自分の生きにくさを増幅させる事につながっている事にふと気がついた。
もちろん、ホモ・エコノミクスでもある私達にとってカネの無い人生はひどく不幸だ。
しかしその逆・・・カネで全て解決できるという幻想・・・は残念ながらあまり正しくない。
カネは万能薬では無い。カネがいくらあろうが友達や配偶者が居なければ多くの人間は寂しくなるものだし、カネがいくらあろうが多くの人間は社会における自分の役割や尊厳を強く欲しがる。
とても面白い事に・・・本当にカネを持った人間は、逆にカネの力が動物としての自分に介する事を酷く嫌う。
自分の身の回りには結構な資産家も多いのだが、なぜか彼らは金持ち以前に付き合っていたパートナーの事を強く選り好みする傾向がある。
あれはカネが動物としての自分の生活を不幸にする事をよく理解しているからだろう。
「お金ではなく、人間性を見込んで選んでくれた」というナラティブの力は強い。
ホモ・エコノミクスとしての豊かさは、ホモ・サピエンスとしての幸せにはそのままつながらない。
サピエンスとしての幸せにカネは余計なお世話なのだ。
現代社会は確かにカネがなければ息苦しい。
その息苦しさの解消の為に、カネ欲しさに東京に人が集まる気持ちはよくわかるし、そのカネが産む文化を愛するものの一人として東京の素晴らしさは筆舌に尽くしがたいものがある。
だが、その一方で動物としての幸せがカネによりマスクされ、かつそれが万能性を帯びているかのような幻想がうっすらと香る現代の有り様は、かなり異常である。
もちろん東京にも特有の動物臭さはあるのだが、それは種としての生産性とはかなり程遠い何かのようになってしまったように思う。
おそらく、動物としての幸せを再び見直していく作業が必要なのだろう
幸せの為に皆で一丸となり、資本主義の豚として生産性にシャカリキになった結果、現代社会はとても豊かになった。
そして私達は豊かさという幸せの一つの形を手にする事ができた。
が、しかし現代ではこの豊かさを凡百の手が生み出せる場所から、あまりにも遠いものになってしまった。
GAFAを代表として、現代社会ではカネを産むものは頭脳明晰で美しく毅然とした才気ある姿をとるものに酷く集約されており、そのヒトの姿を模倣するかのように東京の街も酷く清潔でキレイなものと化した。
経済人としての最低限のノルマをこなさなければ、動物としての幸せを追い求めてはならないと感じている人は結構多いのではないだろうか?
少子化はわかりやすく数値化されたその一つの結果だが、暗に私達は”キレイではない”ものを”要らない”ものと本気で思うようにすらなりつつある。
『キレイではないから』『種としての幸せを追い求めてはならない』
というメッセージが成り立つような社会は、動物としての私達の存在に対する究極のアンチテーゼだろう。
そもそも経済人として自立しなければ、動物をやれないような社会が生きやすいはずがない。
動物が経済をやってるのではなく、経済人が動物をやるような社会は主従が完全に逆転している。
現代社会に感じる生き辛さというのは、たぶん数値化されない形での動物としての幸せを無視した事による返す刃なのだろう。
もちろん、私達は森には帰れないし、変えるべき森も既に無く、好むかどうかを別としてこの現代の世の中を生き抜かなくてはならない。
しかしそこで生きるにあたって、不幸せにならなくてはいけないというものでは決してない。
現代社会を幸せに生きるための一つのキーとなるのは、おそらく動物としての自分の幸せにキチンと腰を据えて向き合えるか否かだ。
頭脳明晰、美しさ、才気、といったカネを産みやすい”美しい”ものではなく、見方によっては醜い部分もある、カネ的な意味では生産的が無い「動物」としての幸せを良いものであるように思えるようになり、それを「美しくないモノ」として卑下しない立ち振る舞い方ができた時、たぶん本当の意味でヒトとしての幸せな第一歩が踏み出せるのだろう。
よきケモノビトたれ
私達はあまりにもカネの産む豊かさを良いモノと思いすぎて、非生産的な動物本来の幸せから目を背けすぎたのかもしれない。
「よきケモノビトたれ!」というセリフが最近BNAというアニメで出てきた。アニメをみていた時は特にこのフレーズについて何も思う事はなかったのだが、よくよく考えると、これは令和の世を象徴するフレーズなのかもしれないなと本書を読了した後に思わされてしまった。
私達はヒトである以前にケモノなのだ。
令和の世は、もうちょっとケモノとしての立ち振る舞い方を学びなおすいい頃合いなんだろう。
年収のような生産性を高める事にばかり目をむけず、非生産的な惰眠を貪るといった事に後ろめたさを感じないような生き方を、もうちょっと追求していこうと強く思った次第である。
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