先月、「読み手を怒らせて、ビューを稼ごうとするコンテンツには気を付けよう」といったご主旨の記事をbooks&appsで読みました。

「読み手を怒らせて、ビューを稼ごうとするコンテンツ」には、気をつけなくちゃ。

「ちょっと立ち止まる」って本来物凄く大事だと思うんですよね。

怒っちゃいけないとは言わないけれど、せめてちょっとだけ確かめてみませんか、操られてないか考えてみませんか、と。ただそれだけで防ぐことが出来た不幸な事件って、実際のところ山のようにあると思うんですよ。

だから我々は、「怒り」という感情のトリガーを他人に明け渡してしまうべきではない。

「煽られる」ことに慣れっこになるべきではない、憤るにしても、自分の意志で、きちんとした情報で、主体的に憤らなくてはならない。

怒りという感情のトリガーは自分のものであるべきで、アジテーターに簡単に煽られ、他人の意のままに怒りを表出するのは違うんじゃないですか、というご指摘は本当にそのとおりだと思います。

 

その一方で、記事を読んだ私はのどに小骨が引っかかったような感覚をおぼえたりもしました。

 

ネットでアジられた群衆が怒りをあらわにするのは個人にとっても社会にとってもあまり良いことではないでしょう。

たとえば東日本大震災や現在の新型コロナウイルス騒動に際しては、そうした怒りがインターネットに溢れすぎた結果、個人が冷静さを失ってしまったり、ネット世論が騒然としてしまったりする一面があったように思います。

 

だからインターネットに簡単に怒りを表出するな、とりわけアジテーターに煽られるまま怒りを表明するのはよろしくない、というのはそのとおりなんですが、だったら現代人はいったいどこでどうやって怒りを表出するのが望ましいのでしょう?

 

そもそも、怒りという感情は現代人に「いらない感情」扱いされていませんか?

 

怒りが役に立っていた時代があった

人間の感情をあらわす言い回しとして「喜怒哀楽」というものがあります。

喜ぶこと、楽しむことが望ましい感情なのは多くの人が認めるところでしょう。

 

では、怒ることや哀しむことも望ましい感情だと認められますか。

現代社会では、怒りの表出や哀しみの表出はネガティブな感情、ともすれば迷惑な感情だとみなされがちです。

学校や職場で、怒りをあらわにして構わない場面はもうほとんど残っていないのではないでしょうか。

 

哀しみについても同様です。

親しい人が亡くなった時などは涙を流すことが許容されますが、ちょっとしたことで嘆いたりメソメソしたりして、それらを人前でみせることは歓迎されません。

でも、昔から怒りや哀しみが現代社会と同じ扱いを受けていたわけではありません。

 

『文明化の過程』や『男らしさの歴史』といった過去の社会生活についての書籍を読むと、昔の人々が喜怒哀楽をもっとはっきりと表出していたさまがみてとれます。

 

そして怒りや哀しみは社会的地位やジェンダーとも結びついた、ソーシャルな役割を受け持った感情でもありました。

 

たとえば戦いに際して憤怒しなければならなかった中世北欧のベルセルク(バーサーカー)の男性にとって、怒りはネガティブな感情であるより、戦いに臨むにあたって必要な感情だったことでしょう。

あるいは面子を傷つけられた時なども、怒りは社会的地位を守るために必要な感情でした。

 

ときには殺し合いに発展する危険はあったにせよ、面子を守るために怒らなければならない場面で怒れなければ社会的地位を失いかねないのが昔の社会で、それをやってのけられなければ落伍者とみなされるおそれすらありました。

 中世の人間生活は現代とは異なる情感の条件を基盤としており、不安定で、未来に対する十分な見通しに欠けていた。そうした社会では、全力を尽くして愛さないもの、あるいは憎悪しないもの、また激情の渦中でおのれを全うできないものは、修道院へ入ったのであった。
ノルベルト・エリアス『文明化の過程 上』より

 

そういえばフィクションの話になりますが、アニメ『Fate/Zero』に登場するアレクサンダー大王(イスカンダル)も、王の資質についてこんなことを言っていました。

王とはな、誰よりも強欲に、誰よりも豪笑し、誰よりも激怒する、清濁含めて人の臨界をきわめたるもの。そう在るからこそ臣下は王を羨望し、王に魅せられる。一人一人の民草の心に、“我もまた王たらん”と憧憬の灯がともる
『Fate/Zero』より

彼の語る王の資質も、現代のリーダーに求められる資質とぜんぜん違っていますよね。

現代のリーダーが誰よりも豪笑していてもどうにか許してもらえそうですが、誰よりも激怒していたら誰もついてこない……というよりリーダー失格とみなされてしまうでしょう。

 

なぜなら、古代や中世のリーダーシップに必要だった怒りは、現代社会では迷惑なこと、許されないこととみなされているからです。

 

怒りが社会関係や社会的地位と密接に結びついていた時代には、怒りはしばしば必要なシグナルで、ポジティブな感情表出ですらありました。

しかし、法治や倫理が近代化し、礼儀作法が行き届いていくなかで、怒りは社会関係や社会的地位を守るための感情表出ではなくなり、とにかく迷惑な感情表出、とにかく不躾な感情表出へと変わっていきました。

いまどきは、上司が部下に対して怒りを表出すればハラスメントとみなされかねず、親が子どもに怒りを表出すれば虐待とみなされかねません。

 

怒りが禁じられたことで、現代人の生活からは緊張や揉め事が少なくなり、力の弱い者・立場の弱い者が強い者の怒りのなすがままにされる危険性も減りました。

個人の権利を守るという意味では、怒りが禁じられていくプロセスはおおむね弱者を助け、強者をくじくものだったと思います。

 

そのことを承知してもなお、怒りという、人類にとって馴染み深かった感情がひとつ、事実上封印されてしまったことのインパクトはもっと大きく受け止めてもいいのではないでしょうか。

だって、いわば現代人は「喜怒哀楽」ではなく「喜哀楽」の感情で、いや、「喜楽」の感情で生きていかなければならなくなっているわけですから。

 

たとえばあなたは「喜楽」の感情だけで生きていけますか?

私なら、たぶん無理です。

どこかに怒りや哀しみを表出できる安全弁のような場所が必要ではないでしょうか。

現代人の生活のうちに怒りや哀しみを吐き出せる場所が少なくなったからといって、人間、そう都合良く怒りや哀しみといった感情を捨てられるものではないですから。

 

本当はみんな怒りたがっているんじゃないか

こうした、感情表出の時代的変化を踏まえたうえで、冒頭のテキスト、「読み手を怒らせて、ビューを稼ごうとするコンテンツ」について思い出してみてください。

 

かつては私も「アジテーターに煽られるままのネットライフは個人にとっても社会にとっても危険である、煽られた怒りや哀しみに振り回されないネットリテラシーを身に付けるべきだ」と主張していました。

ネットリテラシーについて議論する時には、今でもだいたいそのように主張しています。

 

しかし現代社会において、怒りという感情を持っていける場所というのは、いまどきSNSぐらいしかない……というか、いまどきのSNSは怒りの最終処分場みたいな役割を担っているのではないでしょうか。

 

怒りを扇動するアジテーターの存在はもちろん問題です。

が、アジテーターの扇動がこのように受け入れられ、怒りの入道雲をSNS空間につくりあげるのは、怒りを扇動されたいニーズが現代社会に存在すること、そしてSNS空間以外で怒りを表出・処分することが容易ではなく、怒りの感情を処分する場所としてSNS空間以上よりお手軽な場所が存在しないから、という一面もあるのではないでしょうか。

 

だから怒りの入道雲をSNS空間で見かけるたびに、私は思うんです。

「あっ、今日もみんな怒りたがっているんだなー」

「世界は怒りで満ち溢れている……」

って。

 

あるべき「怒りの最終処分」とは

とはいえ、情報メディアの一部でもあるSNS空間にみんなの怒りが集まるのは弊害が多いと言わざるを得ません。

SNS空間が怒りの最終処分場として機能すれば、私たちが見聞きする情報までもが怒りのフレーバーに染まってしまいますし、ますます怒りを扇動する極論が飛び交うことにもなりかねません。

というか、もうそうなっているのではないでしょうか。

 

SNS空間に怒りを表出するハードルを高めることで、こうした弊害はあるていどの解決をみることでしょう。

しかし現代人の怒りがSNS空間からも排除されたとしたら、その怒りの持ってゆく先はいったいどこで、あるいは、どこでどうやって処分すれば良いのでしょう?

 

「怒りをマネジメントせよ」、とはよく言われることです。

模範的な現代人、とりわけ怒りを適切に表出したり解消したりするためのツールにアクセスできる資源を持っている現代人なら、怒りを上手にマネジメントできるでしょう。

でも、皆が皆、そのための資源を持っているわけではないのですから、行き場を失った怒りはどこかに鬱滞するか、どこかで爆発せずにいられなくなるのではないか、私は心配になってしまいます。

 

現代社会の表舞台から怒りが排除され、クリーンになっていくことを是とするとして、排除した怒りを私たちはどこでどのように表出し、処分するのか。

そもそも、怒りは私たちにとって本当に「要らない感情」や「捨ててしまうべき感情」なのでしょうか。

そういったことを考えながら、最近の私はSNSの騒動を眺めるようにしています。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Orkun Azap